アシ召集
土曜日の夕方、夜の闇を生みだすトーンの下に埋もれていた桜の花びらの最後の一枚をトーンカッターをつかって丁寧に発掘した紫苑は、ようやく完成した一枚絵の原稿を高々と掲げた。
「終わったぞ、杏──!」
ローテーブルに向かい合うように座っていた杏が、メガネごと顔を上げて、ぱちぱちと拍手をしてくれる。
「すばらしー。お疲れさまー!」
「ていうか、この桜吹雪、描くとは言ったけど誰がトーンまで貼るって言ったんだ! あの、西行大好きな里沙に貼らせろよ。……そもそもあいつ、どこ行った?」
ダイニングテーブルにはイヤーフォンをして音楽を聞きながら黙々とペン入れをしている千夜がいるだけだ。
真名はキッチンにいるが、里沙のすがたはどこにもない。
「あれ? 聞こえてなかったの? 三時ごろ電話が掛かってきて、明日あさいちでアシスタントに入って欲しいって言われて、東京に出かけて行きましたよ」
「おい、冗談だろ! おまえら、締め切り前でピンチなんじゃなかったのか」
おもわず紫苑は両手でローテーブルを打った。
が、杏の飄々とした表情に変化はない。
「うん、ピンチです。でもほら、私らが締め切り前ってことは、世の同人やってるアシさんたちもこの時期は原稿描いてるってことで──急病人の代わりが捕まらなくて困ってるって、編集さんに泣きつかれたみたい。プロは原稿落とすわけにいかないしね」
「おまえらは落としてもいいのか? ……まあ、今のところまだ、印刷代の割引がなくなるってだけではあるけどな」
「そうそう。そして、里沙ちんがいなくても、原稿はいちおう進むってのが私らの強みではあるわけです。ひとりで本を作ってたら、ひとの原稿やってる間は、自分の原稿は完全放置だけどね」
それに、と杏がほおづえをついてにんまりと企みの笑みを浮かべる。
「せっかく得たバイト代は印刷代に消えるだけ、なら里沙ちんを行かせるのも躊躇うけど。プロの修羅場で積む経験値は里沙ちんにとってもパティスリーの将来にとっても、測り知れないものがある──とおもうのです」
「まあ、一理あるな」
「あと。プロをめざしてる以上、編集さんに恩を売るチャンスを逃す手はないでしょ?」
紫苑は、あっけにとられた。
それが里沙を送り出した第一の理由にちがいない。
「おまえ…………とんだ策略家だな」
「やだなー。せめて戦略家と言ってくださいよー。ところで、紫苑くん。出かける里沙ちんに何て返事したかはおぼえてますよね?」
いつ出かけたかもおぼえていない紫苑にそんな記憶があろうはずがない。




