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たかが布、じゃない。

戻ってきた杏にグレーの下着を載せたスポーツタオルを渡される。

紫苑は左手で受け取りつつ、その肩に右手を置いた。

軽く力を入れただけで、おどろくほどあっけなく、杏の上体が紫苑の胸に倒れかかる。


「ひゃあ」


本当に、頬にキスするくらいのことはできたが、紫苑は何もせず、すぐに杏の体を押し戻した。

もちろん、胸にもすこしも触れてはいない。


「な? あんまり気軽に男をからかうなよ。冗談ですまなくなって困るのはおまえだろ」

「……紫苑くんになら、本気にされてもいいけどな、──なーんて言うと、また叱られちゃうか。はーい、以後、気をつけます」


その返事もどこまでも飄々と軽かったが、杏なら笑って流してくれると、紫苑もどこかで期待していた気がする。

彼女のたくらみにほんろうされるのはおもしろくないが、紫苑にとっては、杏がいるこの部屋の方がだいぶ居心地がいいのも事実だ。


「あ、の──紫苑さん。私たち、無理言ってませんか?」

「無理とわがままはチーで慣れっこなんだよ。ここじゃ、それが四倍になる覚悟でいるから、むしろ真名がそんなで、俺は救われる」


真名はすなおに頬を染めたが、杏はによによ意味ありげに笑う。


「ほんとほんと。みんなが勝手だったらとっくに見捨てちゃってるのにね。真名ちんみたいな子がいると、やさしい紫苑くんはほっぽって帰れないもんねー」


くやしいが、まったくもってそのとおりだ。

紫苑は杏のさらさらの髪を掻き混ぜて、無言でリビングを出た。


ところが、バスルームに入った紫苑は、脱衣所のカゴに着替えを置こうとした手を止めると、すごすごとリビングに取って返す。

戸から顔だけを出して、紫苑はエアコンの効いた室内を見回した。

ローテーブルに、ほおづえをついた杏を見つける。


「…………杏、杏っ」


手招く紫苑に、メガネ越しの視線が返った。

よっこいしょっ、と立ち上がった杏が、とんとんと肩を叩きながらやってくる。


「なになに? こっそり、何のお誘い?」


からかう視線に答えず、紫苑はバスルームのドアを引き、その向こうを指さした。


「そ、それ──」


ふしぎそうな顔で脱衣所をのぞき込んだ杏が、カゴからピンク色の物体を持ちあげる。

紫苑は即座に視線を逸らしたが、それでもいわゆるブラジャーと呼ばれる女性ものの下着だということはわかってしまった。


「Eカップ……これは里沙ちんじゃなく、その前にお風呂に入ってた真名ちんのかなー」

「そんなことは訊いてないッ!」

「はいはい。私ならともかく、あのふたりがわざと置いてくはずないんだから、忘れてんでしょ。こんなの、ぽいって洗濯機の中にでも放り込んじゃえばいいんだよ」


と言いながら、杏は脱衣所に置かれた全自動洗濯機に歩み寄る。

ふたを開けた音がして、紫苑はようやく、ほっと息をついた。


「そんなわけにいくか」

「たかが布じゃない。……さては紫苑くん、バージンですな?」

「──男にバージンはよせ。オタク用語か」

「えー、男も女も、英語じゃバージンっていうんじゃなかったっけ。まあいいや。ちゃんと、紫苑くんは手も触れてないよって証言してあげます。てなわけで、どうぞごゆっくりー。何なら、お背中流しましょうかー……って、おとと。つい出ちゃうな。ごめんね、冗談です」


ぱたぱたと手を振って弁解する杏に、紫苑はおもわず噴き出した。

軽口は杏のカラリとした性格の表れで、紫苑へのある種の信頼感が口にさせるのかもしれないとおもう。


「さんきゅー、おかげで助かった」

「こっちこそ、みんな無神経で悪いねー。私はともかく、他の子はわざとじゃないから」


わざととわざとじゃないのとでは、いったいどちらが質が悪いだろう、と思案している間に、杏はバスルームを出て行った。



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