心境の変化
「それで、締め切り前に、人手だけが取られる羽目になっちまったと?」
先週、電話で呼びだされたとき、緊急事態だの、不幸な事態が重なっただの、言っていた意味がようやく紫苑にもわかった。
里沙の、もとはといえば私のせい、ということばの理由も。
「そうなのです。その節は、ほんとうに助かりました。多謝」
杏が、紫苑の手を両手で取って見つめてくる。
紫苑はぶっきらぼうにうなずいた。
顔が赤くなっているかもしれない、とおもう。
「まあ、それはいいけどな。──けっきょく、今も金の問題は解決してないわけか?」
「うーん。あとはもう、部数を減らすっきゃないかなーと。大量に刷って正規料金を払うよりは、割引料金で増刷かける方が、ナンボかマシなのでね。ただ、是が非でも早割の締め切りに間に合わせなきゃなので、この連休は大忙しです。最悪でも、一冊分はあげて、もう一冊は一割引にまわすのが限度かな。っても、出来は今後にひびくから、急いでいても手は抜けないんだよねー」
後半は、何やらぶつぶつ言っている杏から、紫苑はあたりに視線を移した。
「で、その大忙しなときに、他の連中は? キッチンにいるのは真名だろ? チーと里沙はどうした」
「里沙ちんは買い出し。千夜ちんは寝てます」
杏の指が廊下の方を指さす。
千夜の部屋がある方だ。
おもわず紫苑は腰を浮かせた。
「どうしたんだ? まさか、風邪か? いや、あいつのことだから、食あたりとか……」
「ひどいなー、紫苑くん」
ぷす、と杏が噴き出す。
「ただ寝てるだけだから、大丈夫。今朝方まで、粘って下絵描いてたらしいんだな。夕方になって、睡眠不足で電池が切れたみたい」
「今朝方って──チーのやつ、徹夜はしないんじゃなかったのか」
「いや、下絵ですからね。墨こぼす心配はないっしょ?」
ぽん、と紫苑は手を打った。
「そーいやそうだな……」
「真名ちんと、それならトーン貼りも徹夜でやってもらえるねーって話したんだけど。いやね、でも、今までは、里沙ちんに隙あらば押しつけて、自分は寝ちゃってたのに……どーいう心境の変化なのかなー?」
杏が、セルフレームの向こうからじろじろと紫苑を見やる。
まるで、紫苑に原因があるような口ぶりだったが、何のことかわからない。
「ま、千夜ちんがやる気出してくれると、こちらとしては大助かりなのです。──あ。でも今の、聞かなかったことにしてくれます? 千夜ちん、紫苑くんには自分で言いたいだろうから」
答える代わりに、紫苑は頬の下で短く切り揃えられた杏の直毛をさら、と撫でた。
「ところで、杏──その絵って、おまえが描いたんだよな?」
「そーですよ。あ、いります? あげますよ、紫苑くんにはお世話になってるし、そーいうのが好みなら、どうぞ?」
「ち、が、う! おまえ、ベタばっかり塗ってたけど、人物も描けんじゃねーかとおもって。これ、けっこうさらーっと描いてるよな?」
えんぴつで引いた線には、迷い線の形跡も消しゴムで訂正を重ねた跡もみられない。
紫苑は、パースだ何だと、バランス重視で絵を描くため、杏のそれがまったく異なる感性で描かれたものだということが、よくわかる。
「人物なら描ける、が正解かなー。私は、千夜ちんみたいに、何でも描ける方がすごいとおもうんだけど。あと、私って、ペン入れがニガテなんですよね。えんぴつで描きっぱなしとか、筆ペンで一発描きとかなら得意なんだけど、ちまちま上をなぞるってのがダメなの。根性なくてねー、あはは」
「いや……俺、チーに描けるものは俺にも描けるとおもうけど、おまえの描くものは、俺には描けない。正直、本気でうらやましい」
杏の目がゆるゆると大きくなった。




