忘れ物ミステイク
「あれっ、無い。無い……」
横からそんな声が聞こえてくる。
隣の席に座る彼女は鞄を漁りながら、焦った様子を見せている。もうすぐ始まる次の授業で使う筈だった教科書を忘れたらしい。
どうしたの。そう聞いてあげたかったけど、女子に話し掛けるのが苦手な俺は声が出ないでいた。
彼女の性格はおとなしめ。僕も同じで引っ込み思案な性格の為気が合いそうだとは思っていたけど、そんな調子だから、彼女と隣同士になってからこの一週間、全く話せないでいた。彼女も話し掛けてこないから、本当に未だに何の関係もない。
「ねえ、松田君」
だから、それは不意打ちだった。綺麗で整った顔立ちだが、その性格からか男子と話している姿を見たことが無かったこともあって、彼女から話し掛けてくるなんて全く想像もしていなかった。
「あの……悪いんだけど、次の授業の教科書忘れたから見せてもらっても良い?」
自分に向けられた彼女の声は初めてで、性格はおとなしいのに、声は結構明るめというのをその時初めて知った。
「えっ、あっ、うん。いいよ」
「ありがとう」
そう言った彼女の笑顔を見て胸がドキッとした。
「……はいっ、どうぞ」
緊張して声が少し上ずってしまった。
それを聞いた彼女にクスっと笑われてしまった。恥ずかしい。
気を取り直して、今日の授業でやる予定だったページを開く。確か、百四十一ページ。……あった。
しかし、そのページを見て心臓を掴まれた錯覚に陥ってしまった。なっ、何てこった!
急いで閉じようとしたけど、彼女に先に見つけられてしまった。
「何これ?」
載っているおじさんの写真に鼻毛を書き足した落書き。それを見られてしまった。本当に恥ずかしい。これを書いた昨日の自分を抹殺したい。
「ごめん、これは何かの間違いなんだ。今消すから」
「プッ! ……アッハッハ! ちょっと待って、面白いよ、これ。松田君、落書きとかするんだ」
顔がカーと赤くなったのが分かる。
笑われた。本当に死にたい。
っという気持ちもあるけど、それだけじゃない。彼女に面白いと言ってもらえて、笑ってもらえて喜んでいる。
「他にも何か書いてあるの?」
「えっ、あっ、うん、まあ……」
うっかり正直に言ってしまった。
「本当! じゃあ、見て良い?」
「……はい、どうぞ」
それが僕と彼女の始まりだった。
☆★☆★☆★☆
「あはは、ごめんね、裕樹君」
「いやいや、いいよ。気にしないでよ。ただ四時限目に僕も使うから、それまでには返してね」
「うん、任せて」
笑顔でそう言う彼女の名前は、筒見朱里さん。
彼女はよく忘れ物をし、一年生で席が隣同士だった時に初めて教科書を貸した日以来、忘れ物をする度に僕に借りるようになった。それは席が変わった後も、二年生になり別のクラスになった今も続いている。
今もそうだが一年の時から、僕と彼女は普段は話をしない。でも、その彼女が忘れ物を借りに来た時は話をすることが出来た。
「――それより、筒見さん。そういえば、昨日入ってたあのドラマ見た?」
「うんうん、見た、見た。おもしろかったよね!」
いつからだったかは分からない。いや、ひょっとしたら最初からだったのかもしれない。
そんな彼女と話す時間はとても楽しく、心安らぐ僕にとってかけがえのない時間になっていた。
だから、時々ふと思う。彼女はこの時間を一体どう感じているのだろうか、と。
俺と同じだと感じているんじゃないかと思う時もある。でもそれはただの僕の願望の所為なんだろう。
ただ借りる為に俺に関わって、ついでに話をしていくだけ。本当は彼女にとって俺はただそれだけの存在なんじゃないかと、たまに怖くなる。
☆★☆★☆★☆
それから何日か経ったある日の昼休み。
僕は自分の席で、二年生になってから友達になった香川博也と会話をしていた。
「そういえば、お前ら実はどうなの?」
「えっ、どうって? ていうか、お前ら?」
周りを見る。お前らって、僕と比べるべき相手が周囲に見当たらないんだけど。
「とぼけんなよ。筒見とだよ」
筒見さんと、どうって何だ?
「だから、筒見さんとどうしたって?」
「お前らよく楽しそうに話してるじゃねえか。だから、実は既に出来てるんじゃないかってことだよ」
「出来てるって……。別に何もないよ。ただ話してるだけ。そもそも僕と筒見さんはそういう仲じゃないし」
「じゃあ、どういう仲なんだよ?」
どういう仲? 何度も説明した筈だ。
「だから、彼女が忘れ物をして僕がそれを貸す。そのついでにちょっと話す。ただそれだけ。一年の時からずっとだからお互いに日常になってるんだよ」
「ったく、お前はまた誤魔化しやがって。まあ、お前がそう言うならそれで良いんだけど、でもお前の気持ちは違うよな?」
「はあっ、どういう意味?」
意味が分からない。
なのに、心臓が一瞬ドクンと強く跳ねた。
「お前何回とぼけりゃ、気が済むんだよ。だから、お前あいつのこと好きなんだろって言ってんだよ」
「はっ、はあー! なっ、なにを――」
再び鼓動が一瞬強くなった。急に何言ってるんだ。
「そっ、そんな訳ないじゃないか。俺は別に筒見さんのことは好きじゃないよ」
思わず言ってしまった、考えた末ではない言葉。違う。今のは無しだ。
でも僕が自分の発言を訂正する前に、博也はニヤリと怪しい笑みを浮かべて言った。
「ほう、じゃあお前は好きな人はいないと?」
好きな人……。
今まで碌に女子と話したことの無い僕は、誰が好きとかそういうのはよく分からなかったし、考えたことも無かった。
でも、今言われて頭に浮かんだのは――
「好きな人は、いるよ」
「裕樹君、好きな人いたんだ」
声が耳に届き、バッと反射的に振り返る。
いつから聞いていた。というか、今の会話を聞かれていた。
まさか……。
「私じゃ、無いんだよね。勿論だけど」
そこも聞かれていた。それに自分はショックを受けている。
「いや、それは……」
「ごめんね、次の授業で使う資料借りようと思ってきたんだけど……。やっぱ良いや。じゃあね、裕樹君」
「待って、筒見さん!」
「多分その人に勘違いさせてたかもしれないね。……本当にごめんね」
そう言葉を最後に筒見さんは教室を去っていってしまった。
その時の彼女はいつも通り笑顔だったけど、その笑顔は明らかに普段とは違うものだった。
「すまん! 筒見来てたの気付いて、で、少し気回したつもりだったんだけど、まさかこんな雰囲気になるなんて……。本当にごめん!」
「……別に良いよ」
博也は必死に謝っているが、本当に博也への怒りの気持ちはない。
悪気があった訳では無いのは分かっているし、そんなのより混乱の方が勝っている。それに元はといえば、自分の何の考えもない、はっきり言えば適当な発言の所為なんだから。
――その日を境に筒見さんは僕に会いに来なくなった。
☆★☆★☆★☆
度々、自分の教室にいる筒見さんの姿が見えた。
彼女は友達と、そして時々同じクラスメイトであろう男と楽しそうに話していた。少し前まで自分に向けていたような笑顔を向けて。それを見る度に胸が痛むのを感じた。
自分ももう一度話がしたい。そう思うのに自分から話し掛ける勇気なんて無い。
もうあのかけがえのない時間は、面影を失っていた。
☆★☆★☆★☆
あの日から一週間が経った今でも、まだ筒見さんは僕に話し掛けて来ない。今までは、二、三日に一回の一定感覚で来ていたのに。
「もうあれから一週間経つのか……。でもあれ以来、あいつ来ないな」
休み時間、僕の机までやってきた博也が言う。
「うん、そうだね」
「忙しくて来れないのかな」
「さあ、違うんじゃない」
「……なあ、お前本当は怒ってるんだろ。あいつが来なくなったの多分俺の所為だ。俺に腹が立ってるんだろ。何で責めないんだよ」
「……だから怒ってないって何度も言っているんだけど」
寧ろ、そのしつこさに少し腹が立つということに気付いて欲しい。
あれ以来博也は同じようなことを度々言ってくる。
その度に違うと言っているけど、全く聞いてくれない。
「あのさ、俺の所為だからこういうのもあれかもしれないんだけど、お前はこのままで良いのかよ?」
「良いのかって、来る来ないは筒見さんの自由だし、僕がどうこうの問題では無いでしょ」
会いに来ないのは単純に忘れ物をしていないだけかもしれない。もしくは俺に借りるのは悪いと思って他の人に借りているのかもしれない。
でもどちらにしろ、筒見さんにとって俺は所詮それだけの存在だったってことなんだ。
「筒見さんは一年生の時からの流れで僕に借りていただけで、僕から借りづらいと思ったらただ他の人に借りるだけ。彼女にとって僕はその程度の存在なんだよ。だから、僕がどう思おうと関係ない」
そうじゃないかと思っていた。分かっていたんだ。
期待したってそれは無駄だった。
「それ、あいつが言ったのかよ」
「……えっ?」
「違うだろ。あいつはそんなこと言っていない。お前が勝手に決めつけてるだけだ」
違う……? いや、違わない。
「だって……なら、何で来なくなったんだよ。僕に好きな人がいたから? 自分が邪魔になるから? ただそれだけの理由で、あの時間を……」
かけがえの無かったあの時間。
それは僕にとっては大切で失いたくなくて、そう彼女も感じている、そう思っていたのはやっぱりただの願望だった。
僕の特別は彼女には普通だったんだ。
「あいつにとっては、それだけじゃなかったんじゃないか」
真剣な眼差しで語る博也。
しかし、友人の言葉を聞いてすぐには理解することが出来なかった。
「お前に好きな人が出来たって……そう聞いてショックだったからじゃないのかよ。それが自分じゃないっていうのが嫌だったからじゃないのかよ!」
「何でそうなるんだよ……」
「なら逆に、何であいつはずっとお前に借りにきてたと思う? 一年からの好だから。それが日常になってたから、か? お前本当にそう思ってんのかよ?」
そうだ。分かってるんじゃないか。
それ以外に理由なんて存在しない。
そんなこと分かっているのに、友人の問いに首肯することが出来ない。
「お前と話したかったからだろ。誰かに話し掛けるのに、きっかけが必要な奴っていうのはいる。お前もそうなんじゃねえのかよ」
「そうだけど……でも、俺は見た。筒見さんは俺以外の男と楽しそうに笑ってた」
自分だけに向けていた笑顔じゃない。自分は特別でも何でも無かったんだ。その事実がある。それが辛かった。
「ああ、多分そいつ、俺の友達だ。一年の時に俺とクラス同じだった奴なんだけど、そいつ中学の時も筒見と同じクラスだったんだよ。で、そいつ昨日言ってたぜ。『筒見、昔より話すようになったし明るくなった』って。それ本人にも言ったらしいんだけど『多分、一年生の時に忘れ物した時から』って言われたって。悔しそうにな」
「えっ、それって……」
捨てた筈の可能性。それが博也の言葉で甦って行く。
「それに大体普通に考えて、二、三日に一回ペースで忘れ物なんてする奴がいる訳ないだろ。――まあ、これは何となく聞いた話だけどな、筒見お前の所に来なくなった一週間は忘れ物してないらしいぞ」
本当だ。全くその通りだ。何でそんなことに気付かないんだろう。
最初の頃は違和感があったかもしれない。でもそれが日常になって、いつの間にか当たり前になっていた。
全く、僕は間違えてばかりだった。
「色々ありがとう、博也」
「おいっ、勘違いするなよ。これはお前の為じゃないぞ。一週間お前らが気まずくなっちまったのは俺の所為でもあるから、その罪滅ぼしだよ」
「うん、分かったよ。……じゃあ、悪いけどちょっと忘れていたことがあるから行って来るね」
「ああ、さっさと行け」
ぶっきらぼうに送り出してくれる博也。
罪滅ぼし、そう博也は言ってたけど違う。ただ、僕の気持ちをはっきりさせてくれただけだ。
「博也、今度なんか奢るよ」
「ああ、期待してるぞー!」
友達の声を背に、僕は急いで隣のクラスに向かった。
「ちょっと今、良いかな、筒見さん」
「えっ、裕樹君! どうして……?」
筒見さんは本当に驚いている。多分、色々な意味が込められた表情だろう。
そもそも僕から彼女に話しかけることなんてほとんど無かったからな。
「急にごめんね。でも、ちょっとノートとペンを借りなきゃいけなくなったから、貸してもらって良いかな? 何のノートでも良いけど、文字を書いても良いやつが欲しいんだけど」
「あっ、うん、良いけど……」
筒見さんは未だに驚きと戸惑いの混ざった表情を見せながら、それでもノートを差し出してくれる。
それを受け取って、ノートに文字を書く。それだけをしてから、すぐにノートを返した。
「うん、これで大丈夫。ありがとう。それじゃあね」
「うん、じゃあ……」
そう言ってから、借りたものを返して教室を去った。
未だに鳴り止まない鼓動。これは、自分から話し掛けるなんて慣れないことをやった所為だけでは、無い。
さて、筒見さんはもう見た頃かな。……一体、どう思っただろう。
「裕樹君!」
後ろから僕を呼ぶ声がした。振り返らなくても分かる。ついさっき聞いたばかりだし、何より彼女のことを丁度考えていたところなのだから。
「もう見たよね、筒見さん」
振り向かないで答える。
「うん、あのね……」
そのまま筒見さんの言葉が途切れる。振り返ると筒見さんは黙って俯いていた。しかし、しばらくしてからバッと顔を上げた。その目には涙が溜まっている。
「ごめんね、ごめんね、裕樹君。私、話すの苦手だから、わざと忘れ物をして裕樹君に話し掛けるきっかけにしてたんだ。……最初話した、あの時から。私に似ていると思って、ずっと話し掛けたくて、頑張ってようやく話してみて、やっぱり話しやすい人だなって、楽しい人だなって思った。裕樹君と話してる時間が本当に大切なものになっていた。でもその時間が、裕樹君の迷惑になってるかもって、私と違って裕樹君にとっては特別じゃないんだって分かったら、何だか会いに行くのがダメな気がして……。でも、違ったんだね。本当に、ごめんね……」
堪えきれなくなった涙を溢しながら、筒見さんは必死に伝えてくれた。
僕達は全く、一緒だったんだ……。
「いや、僕もごめんね。筒見さんが聞いていると知らなかったとはいえ、嘘を吐いた」
それを聞いて、ニコッと微笑んだ彼女は、
「もう私忘れ物はしない。――それと、勝手だけどこれを貸すね。見てみて」
筒見さんが貸してくれたのは、さっきのノート。そのノートを開く。そこに書かれているのは、一言が二つ。
『あなたのことが好きです』
『私もあなたが好きです』