第3話――色のない日常
『被検体番号百二十九、実験部屋四への入室を命じる』
もはや馴染みとなった無機質な声が開始を告げた。
俺はあれからオルクスの姿を見たことはなかった。
別室で待機しているオルクスからの無機質な声か、寝起きのために俺に与えられた私室へと所員から書面が届けられるようになったのだ。
さすがにこの広い研究所を所長だけで管理することはできないらしく、百人を超える数の所員が交代で実験体の世話や傷ついた施設の修繕をしているらしい。
眼鏡をし、特徴に乏しいその所員の一人が俺を手招きする。
その目には露骨に恐怖の感情が見て取れるが自分の役割を放棄することはできないらしい。実験部屋四の硬質なまるで金庫のような扉を開き、その白一色の部屋へと俺を誘う。
入室した俺を待っていたのは燃えるような赤い髪を掻き上げた一人の男だった。
「待ってたぜェ! 百二十九ゥ!」
嘲笑を浮べる男はどこか焦点の合わない瞳で俺を見つめる。
「オイオイオイオイオイ! 最強君はさァ、そんな女みたいな見た目だったのかよォ! こりゃァ楽勝だなァ? 俺がてめェを殺したらさァ、俺にくれよな。その称号をなァ!」
狂っている――と俺は感じた。
それは無理もない事だ。
来る日も来る日も行われる戦いの数々。どんな傷や痛みを受けようと死なないかぎりは治され、また戦わされる。
ほぼ傷も痛みも受けない俺ですら日常に飽き、鈍化していった。
だが、彼らは違う。
彼らは毎回死にそうになりながら、それでもまた治ればすぐに別の相手との戦いが待っている。
毎回彼らは傷つき、そして同じだけ心にも傷を負っている。
――それは人にどうしようもないひずみを生む。
被検体は大体が2種類に分けられる。俺が最初に戦った少女にようにあらゆる外的要因を阻害し、全てに対して『無』になる者。世界を敵と判断し、全てを排除しようと心を壊す者。
彼は後者にあたるのだろう。
「変らないな」
俺は自然とそう呟いていた。
それはここでは珍しくもないことだ。ありふれた話。心に響かず、色がない。それではこの日常は変らない。
無色のままだ。
「あァ? 変らないだァ? 俺が今までの雑魚どもと一緒くたのォ、塵芥にも劣る有象無象だとそう言いたいのかテメェはァ!」
「そこまで言ってないんだけど……って聞いてないか」
「この俺を馬鹿にする野郎はもう全殺しだコラァ! ミンチにして被検体の餌にしてやるぜェ!」
俺の弁解にはまるで耳を貸さず、雄牛のように目を血走らせた男はすでに臨戦態勢に入ったようだ。
男の腕が、足が、首が、胸が、膨張を始めた。
まるで脱皮するかのように体の内から筋肉が膨れ上がり、元の三倍をも超える大きさにまで肥大した。その姿はまるで鬼だった。
「速く始めろやコラァ!」
体の肥大化に合わせ、先程より大分低くなったダミ声で男は喚く。
『被検体番号百二十九と被検体番号八十四の戦闘を開始する』
オルクスが空気を読み、実験の開始を宣言した。
相手の男は被検体番号八十四。最初に戦った被検体番号二の少女から始まり、数字番号順に俺は被検体と戦っていった。ところどころ実験中に死亡した被検体で空きはあったが、八十に近い数の相手と戦ってきたはずだ。
つまり、俺はそれだけの数、被検体を殺してきたということだ。
「ハハハハハハ!」
男が一直線に俺へと迫る。
男は人型の被検体。俺は長い戦いの中で、被検体の規則性をある程度理解していた。被検体には大別すると人型と獣型の被検体がいる。
そこでわかったのは、単純な強さに違いがあることだ。
オルクスは俺のことを『人を超えた存在』と評した。そして人造人間であると。獣型には欠点の部分が多く、人型ではその部分が少なくなる傾向にある。
そこで俺はある仮設と立てた。
獣型の被検体で実験し、その実験で長所となった部分を人型で試しているのではないかと。実際にこれまでの戦いの中で人型と獣型の比率は圧倒的に後者の方が多いものだった。
つまり、オルクスにとっては人型の被検体こそが彼女の求める完成体であるのだ、と。
「消し飛べェ! アハハハハハハ!」
迫り来る拳に対し、俺も拳を握る。
空間が歪み、俺の回りで渦を巻く。回りの魔力を俺が取り込んでいるときに起こる現象だ。
その魔力を帯びた拳をただ――突き出す。
被検体番号八十四と俺の拳が正面からぶつかり合い、鈍い音が響く。
「――ッ!」
力は互角だった。
被検体番号八十四は驚愕を浮べた。よほど自分の力に自信があったらしい。二回り以上は小さい俺の拳など軽く粉砕できると思っていたのかもしれない。
右手を引く反動を利用して左拳を叩き込む。しかし、相手も同じことを考えていたらしく、再度拳が激突する。
しかし、今度は俺が打ち勝った。
相手の巨体が浮く。
「な、なぜ!」
「力が同じなら体格の小さな俺の方が回転は速い。なら、お前の拳に力が乗る前に俺の拳が届く!」
俺は無防備になった被検体番号八十四に魔力を込めた前蹴りを放つ。
空中を走るように瞬時に三発。
しかし、
「利かねえよォ! 最強ォ!」
「――ッ!」
足に熱い痛みが走った。
掴まれたと気付いたときには俺の視界は天と地が入れ替わっていた。
「ぶっ跳べッ! そして寄越せ、その看板!」
「グファッ!」
あまりの痛みに声が自然俺の口から呻き声が漏れた。
今度は俺の腹に相手の拳が突き刺さったのだ。衝撃で十メートル近い距離を飛ぶ。視界が揺れる。息が出来ず、脳に血がいかない。
腹が焼けるように熱い。
「痛っ……ゴフッ! ゴホッ! ……はぁ……はぁ」
まるで自分の体ではないような異物感に吐き気が込みあげる。それを気合で我慢するが、口内には血の香りが広がる。鉄の味がする。
「脆い! 脆いぞォ! 最強ォ!」
巨体が弾丸のように俺へ迫る。
久々の痛みに走る動揺を無視し、慌てて俺は全身に魔力を充填する。
さすがに俺も頭にきた。いい加減煩わしい。
視界がクリアになる感覚。
全能感に似た超然とした感覚が俺を支配する。魔力が体を強化し、さらにアドレナリンのような役割を果たす。痛みは和らいだ。
――いける。
やられた分はやり返す。
「最強ってのも大したことねェな」
俺を嘲りながら被検体番号八十四はゆっくり此方に歩み寄る。
その大質量ゆえに一歩一歩が地を揺らし、こちらへ存在感を強調する。
「俺はもっとォ、強くなる」
被検体番号八十四の腕がさらに肥大化した。その異様はまるで体が三つあるような錯覚すら感じさせる。
「俺はもっとォ、強くなる」
被検体番号八十四の背中が肥大化し、正面からでも背中が視認できるほどに大きく、丸く膨れ上がった。
「俺はもっとォ、強くなる!」
被検体番号八十四の胸がまるで風船にように膨らみ、膨張した。下半身に対し、上半身が圧倒的に大きい様はまるでゴリラを思わせる。
だが、その様を見ても俺は不思議なほどに冷静だった。俺が取り込んだ魔力がまるで蒸気のように吹き出し、全身に力を与える。
――負ける気がしない。
三度被検体番号八十四との激突。
それは俺の圧勝だ。被検体番号八十四はまるで矢のような速度で宙を舞う。
「ハッ!」
俺の魔力が足元に集い、爆発するように放たれた瞬間、俺は被検体番号八十四をも超える速度で先回りする。同じ速度域に生息できる者など決していないという傲慢にも似た全能感に口元がにやける。
「グアアアアアア! ふざけるなァアアアア!」
着地点に先回りした俺に対し、振り向きざまに被検体番号八十四は拳を放った。決して反応できない速度域で彼の本能が働いたのかもしれない。そう俺は思ったが、いかんせん――遅すぎる。
迫り来る岩のような拳を捻ってかわし、浮き彫りになった背中を殴る。
一発、二発、三発。
「グアアアアア!」
肉を絶ち、骨を砕く感触が俺の拳に伝わった。全身に電流が走るほどの不快感を噛み殺し、体が逆九の字になったことにより下がった後頭部が露わになる。
「終わりだ! 八十四!」
頭蓋を砕き、それは脳へもダメージを与えたはずだ。
そこで俺は動きを止めた。
辺りを静寂が支配する。そして、突然時が動きだしたかのように崩れ落ちる被検体番号八十四。
俺は実験の終わりを確信した。
「はぁ……終わった、か……」
実に、空虚だ。
ナニかが体から欠けゆく感覚。取り返しのつかない出来事のあとの血の気が引く感覚にどこか似ている。
――そう、また一人俺は、人を殺したのだ。
「グゥ……グラァ!」
「――ッ! お前まだ!」
ぞわりと怖気が走った。
視界の端で動く物を感知したとき、本能が大音量で警鐘を鳴らした。




