じゅうご
夕方になる少し前にようやく来客があった。ドアを開けて現れたのは三十代ほどの女性だった。
「いらっしゃいませ」
ミナたちの挨拶を無視して女性はつかつかとこちらに近寄ってきた。会計用に置いてあった机に、持っていたものを広げた。
「これ、返品したいのだけれど」
赤いリボンのついた服だった。
「……あの、これって」
言いかけるリンに女性は気難しそうな目を向けた。
「うちの子がここで買ったんですってね。勝手に。すみませんけどお金返してくださる?」
「それは構いませんけど」
「けど? なにかしら?」
とてもきつい口調だったので視線を向けられていないミナでさえびくっとしたけれど、リンは少しも引かなかった。
「あの子とても嬉しそうに買っていきましたよ。親御さんが自分だけの考えで返品したらそれこそ勝手じゃないですか?」
女性は顔をしかめた。
「あの子はまだ幼いんです。良いものと悪いものの区別がつかないんですよ。親のわたしが代わって選んであげないと」
ちょっと待って、それはあまりにリンに残酷な言い方だ。口を開きかけたミナをリンが手振りでとどめた。
「分かりました。少々お待ちください」
返金が終わって女性は店から出て行った。その背中に向かってありがとうございましたと頭を下げるリンは、どこか寂しげに見えた。
「そろそろ閉店にしようか。片付けもあるし」
顔を上げてリンは笑った。
ミナはなんだかやるせなくて黙って立っていた。リンも片付けと言いながらも手をつける様子もなくそばの椅子に座りこんだ。
長い長い沈黙の後にリンが再び口を開いた。
「まあ分かってたよ、わたしの実力はわたしが一番ね。自分の店でやってくなんてやっぱり夢でしかなかったってことかな」
彼女は疲れたときにするように顔を両手で覆ってため息をついた。
「ああくたびれた……」
出会ってから初めてリンの弱い部分を見た気がした。
ミナは何も言えずにいた。何かを言わなければならないことはわかっていたけれど何も言えなかった。
そうしているうちにリンが言葉を続けた。
「一人でお金貯めてさ、店のための建物も借りてさ、服もたくさん作ってさ。ああそういえば母さんの反対も押し切ってだっけ、まあそうやってようやく店開いたわけだけどさ。現実って非情だよね。いやすごくシンプルって言った方が近いのかな。当然の結果だもんね」
はは、と弱弱しく笑った。馬鹿みたい、ともつぶやいた。
その時だった。ミナはようやく自分がここに来た理由が分かった。言うべきこともわかった。それを言うために、そのために自分はここに呼ばれたのだと理解した。
「馬鹿なんかじゃないよ」
小さく、けれどしっかりと言う。リンが少しだけ顔を上げた。
「馬鹿なんかじゃない。それだけ頑張ったのが馬鹿なことなわけがない。結果がどうだってそれとこれとは別のことだよ」
リンは答えなかった。肯定も否定もしなかった。ただその言葉の意味をじっくり考えたようだった。
そして多くを訊ねることなく一言だけ訊いてきた。
「わたしの服、どうだった?」
「すごくいい服だよ」
間髪入れずに答えた。考えるまでもなかったからだ。
たとえミナがいわゆるいい服に疎かろうと、もっと評判のいい服やそれを作る人がいようと、百人中九十九人がリンの作る服を否定しようと。ミナ一人はいい服だと思ったことだけは覆しようがない。それですべてが解決するわけでもリンが救われるわけでもないだろうけれど、ミナがそう思ったのは事実なのだ。
「大勢に認められない良さだって絶対あるよ」
そしてそれは大勢に認められる良さには絶対真似できない美点を持っているに違いないのだ。
「だから――」
ミナは言葉を続けようとしたけれど、ちょうどそのとき入り口のドアが開いた。夕日の光の中に立つ小さな人影には見覚えがあった。
「あの……」
最初に来店した女の子だ。リンが立ち上がって声をかけた。
「どうしたの?」
少女は外を一度振り返ってから店の中に入ってきた。誰かを警戒しているようなそぶりだった。
「ここにママが来ませんでした?」
ミナとリンは顔を見合わせる。心当たりはもちろんあった。
「うん、服を返しに来たね」
「その服、もう一度わたしに売ってください!」
少女が急に大きな声で頭を下げたのでミナもリンもびっくりした。少女はお願いしますと繰り返した。
「あの服がどうしても欲しいんです。今度は絶対見つからないようにしますから。お願いします!」
ミナは呆気にとられて何も言えなかった。リンもそれは同じようだったけれど、すぐに我に返って赤いリボンの服を取り出してきた。
「持って行って。お金はいらないから」
「え? でも……」
「服はね、きっと欲しいと思ってくれる人のところにいるのが一番なんだ」
少女はぱっと顔を輝かせると、ありがとうございますともう一度頭を下げて出て行った。軽い足取り、嬉しそうな背中で。
嬉しそうな背中と言えばそれを見送るリンの後ろ姿も嬉しそうだった。ほっとしたようなそんな様子でもあった。
ミナはなんだか泣きたいような気持ちになって目元をおさえた。リンの服を認めてくれる人はもう一人いたんだってこと。
リンがドアを閉めて、夕日の光がそこで途切れた。
それからもう一泊だけして、ミナは帰路についた。もう用事は終わったみたいだし、リンは大丈夫だと確信したからだ。
また来てね、と彼女は言った。今度はもっといい服を作って待ってるから、と。ミナは笑顔でうなずいた。また手伝いに来るよ。
門の所まで来るとあの時の番兵さんを見つけた。彼は前と同じように門の脇に立っていて、ミナを見つけると訝しげな顔をして近づいてきた。
「あの時の子かい?」
「ええ」
ミナがうなずくと番兵さんは怪訝の色をもっと濃くした。
「ずいぶん様子が変わったなあ。正直見違えたよ。もう怪しくはないね」
ありがとうございますと頭を下げた後、ミナは思いついて付け足した。
「町の北の方にある仕立て屋リンのお店ってところに今わたしが着てるようないい服が置いてありますから、暇なとき行ってあげてくださいね」
番兵さんは首を傾げたけれど、一応わかったとうなずいてくれた。
「それじゃあわたしはこれで」
「ああ、気を付けて」
背を向けて歩き出す。
ずいぶん遠くまで来たと思った。そしてこれからももっとずっと遠くに行けるだろうとも思った。ミナは『遠く』が大好きだし、『遠く』の方もミナの方が嫌いじゃないみたいだから。そして、リンもきっともっともっと先に進めるんだろう。
楽しみだなあと、心から思った。
と、その時。背後でガタン! と音がした。
振り返ると町から出てこようとする大きな荷馬車の車輪が壊れて荷台に亀裂が入ったところで、聞き覚えのある動物の悲鳴が聞こえてきた。
ミナは慌てて門の外へと逃げ出した。
(都会の仕立て屋少女リン:おわり)




