ここのつめ
事情を聞いたミナは、ふうむと軽く腕組みしたようだった。後ろを確認したわけじゃないけれど、気配や衣擦れの音でそうと分かった。
「それは大変なことですねえ」
おや、と爺さん奇妙に思う。この子は呆れたりしないみたい。
「心配してくれるのかい?」
「ええ。夢が見られないなんて一大事じゃないですか」
爺さんなんだか嬉しくなって、目頭がちょっと熱くなった。まさか理解者がいたなんて。死んだ婆さん以外は誰も分かってくれないと思ってた。
「ありがとう」
「? 何か言いました?」
爺さんこっそり目元の湿りを拭き取って、いいやなんにもと首振った。
「そんなわけで困ってしまってのう。なんとかならんものかねえ」
荷台のミナは考えたようだけれど、沈黙だけが長引いて、確かな答えは返ってこなかった。爺さんもちろんがっかりはしたけれど、欲張っちゃいけないと思い直して、いやいやすまんと取り消した。
「病気ならともかく、そんな小さなことに治す方法なんてあるはずもなかったな」
後ろから小さくごめんなさいの声がした。すごく申し訳なさそうで、爺さんの方も恐縮してしまう。
「ああいやそんな。わしこそ変なことを言って悪かった。どうか気に病まないで忘れておくれ」
それからしばらくどちらも何も言わなかったので、馬車の進む音だけが辺り一帯を満たしてた。
馬が疲れたようなので、道の脇に馬車を停めて休ませていた時だった。馬を拭いてやっている爺さんに、ミナが荷台から顔を出して声かけた。
「夢の話を聞かせてもらえませんか」
爺さんは「え?」とそちらを見た。声は聞こえていたけれど、内容を聞き取ることができなかったのだ。少女は「夢の話をしてほしいんです」と繰り返した。
「夢の話、かい?」
「ええそうです。昔どんな夢を見た、とか」
「そりゃまたなんで」
不思議に思った爺さんが訊ねると、彼女は自らを指で示して言葉を続けた。
「わたし薬草のことならそれなりに知ってるつもりです。だからよく眠れる薬ぐらいなら作れますが、夢を見させてくれる薬の作り方は知りません。というよりそもそもそういう薬はないんじゃないかと思います」
「そうじゃのう」
爺さんは素直にうなずいた。そんな便利で不思議な薬、聞いたことがない。
だから確かな解決策はないと思うんですけど、と自信なさそうな声になりながらも少女は言う。
「できることは全部試してみた方がいいんじゃないかなと」
「それが夢の話なのかい?」
爺さんが訊くと、ミナはそうですとうなずいた。
「起きているときに見たものや聞いたものが夢に出てくることって結構多いじゃないですか。だから今夢の話をして強めに意識していれば、もしかしたらまた夢が見られるかもって」
爺さんふうむと感心した。この子は頭がいいんだなあ。
「確かに噂をしていれば夢の方から近寄ってきてくれるかもしれんのう」
なんだか希望が見えた気がして、気分が少し明るくなった。
「なるほどそういうことならば」
爺さん出発のために御者台に身体を持ち上げて、一番お気に入りの夢はどんなだったかなと記憶の底を探ってみた。昔どんな夢を見たかなんて覚えてない人がほとんどだろうけど、爺さん夢が好きだから割とたくさん覚えているのだ。
「あれはいつ見た夢だったか。大海原から始まるんじゃが――」
爺さんちょっと遠い目をして、静かな口調で話し始めた。
なぜ爺さんの夢が海から始まったかというと、眠るときに深く暗い海に潜っていく感じをイメージするのでそのせいじゃないかと自分では思ってる。
「こう、大きく耳の悪い魚になったつもりになって、まぶたの裏の暗闇にゆっくりおりていくんじゃよ」
大きい魚だから、速く泳げない代わりに襲われる心配もない。ゆったりと身体を伸ばして次第に意識が閉ざされていく。闇の底に着いたなと感じた瞬間夢が始まるのだ。
「そう、その時の夢ではわしは鈍重な身体を捨て去って、とても素早く泳いでおった」
きらめく泡を追いかけて、輝く世界を目指してた。うっすらとした光はどんどん強くなって、視界いっぱいに広がった。
強い衝撃(夢の中では爺さん確かにそう感じたのだ)の後、夏の日差しの下に飛びだして、水平線を向こうに見る。空には雲が巨人のようにそびえたち、鳥が何羽か飛んでいた。と、そこで再び衝撃と音。視界が水中に引き戻される。
ざぶんざぶんと数回水と空を行き来して、そのうち爺さん空を飛んでいた。いつそうなったのかは分からないけれど、夢の中では爺さん気にも留めなかった。
「そういうところ、あるじゃろう?」
夢では誰も疑うことは許されない。疑おうとも思わない。ミナの同意の声を聞いてから、爺さんさらに話を続けた。
「わしは鳥になっていた。遠くまで飛べる強い翼を持つ鳥だ」
夢では説明されなくともそういうことが自然と分かる。爺さんは力強く羽ばたいて、太陽の方向目指してた。他にも鳥はいたけれど、爺さん一番早かった。
遠く、遠くまで飛んで、ふと見下ろすと島があった。爺さん進行方向を少し変え、その島の上を旋回した。島は確か三日月形に曲がってて、弧の内側が浜辺になっている。浜辺の上にはポツンと何かが立っていた。真っ黒に日焼けした、健康そうな少年だった。
一体何をしてるんだろう。爺さん目を凝らしていると、いつの間にか爺さんがその少年で、一生懸命空の鳥を見つめてた。
とても変なことだけど、爺さんやっぱり疑わない。爺さん、というより少年は、顔を下ろして背後の森を振り返った。そのままそちらへ歩きだす。足の裏に浜の砂がちりちり熱い。
潮のざわめき、森が風に囁く声。その中を少年は進んで、森にゆっくり入っていった。うっそうと茂る森には黄色いヘビや赤いサル、ものすごく大きいネズミがいたりで面白い。虹色リンゴをかじっているといつの間にか目の前には小さな泉。
泉の中には誰かがいる。白いワンピースの女の子。長い髪を洗っていて、顔はこちらからじゃ見えないみたい。
ほっそりした身体にたおやかな仕草。なんとなくどぎまぎしてしまい、少年ゆっくり回れ右。そのとき後ろから鈴のような優しい声。
でもなんて言ったのかは分からない。夢はそこで終わったからだ。
「わしはとてもがっかりしたよ。なんて言ったか知りたかった」
「女の子が出てきたのはそれ一回だけですか?」
「いいや。何回か夢で見た」
忘れたころにぽつりぽつり。夢の町や花畑で。でも少女の顔はいつも見逃す。彼女の言葉も聞き取れない。
「誰なんでしょうね」
「そうさなあ。あれは、きっと――」
爺さんそこで言葉を止めた。なんとなく想像はついたけれど、それは確信というより願いに近かったので、やっぱり言うのはやめといた。




