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明が声を荒げたからというわけでなく、俺は、俺の小説が何になるのか、考えてみた。もっともそのとき、俺が考えたことを、明に披露することはできなかった。明に、ケイタイで連絡が入り、重要な仕事ですぐ行かなければならない、と告げられたからだ。もちろん俺はすぐに行けよと言った。大事な仕事と、俺の小説の意味なんて、比べるべくもない。文句なく仕事の方が大切だ。
明が出て行ったオフィスは、なんだか急に気温が下がったように感じた。俺はのろのろと立ち上がり、ファンヒーターのボタンを押した。すぐに癇に障るメロディーが流れ始めた。燃料がなくなったので、給油しろと催促する音だ。俺は舌打ちをし、タンクを取り出すと、オフィスの裏手にある灯油缶置き場に向かった。
じゅわじゅわと、半透明なポンプの中を流れ落ちる灯油を眺めていると、己の体の中に流れているだろう血液のことを思った。まだ俺は生きている。まだ何かができるかもしれない。そんな思いが、語り言葉となって、俺の頭の中で響いた。
小説とのつき合いは長い。小学生のとき、島崎藤村の破戒が読みたいと担任教師に告げ、子供向けのものはなかったので、教師の誰かが自宅から持ってきてくれた本を借りた。もちろんそれ以前にも本は大好きで読んでいたし、その後も本が一番の友達のようにして過ごした。けれども、このときの破戒には、特別な思い出がある。教師の間で、小学生であった俺に、破戒という重くデリケートな問題を扱った本を読ませていいものか、という点で議論があったという。最後に、その本を俺に読ませたほうがいいと強く主張したのは、担任の女子教員であった。その教師は、破戒の世界と同じく、差別部落の出身者であり、そのことを他の教師に告げた上で、俺がその本を読みたいと思うのは、必然なのだという論法で、押し切ったという。もっとも肝心の俺の方は、そこから後のことについては、あまりよく覚えてない。ただ、そのような経緯を経て、自分がその本を読んだということに、より重要さを感じていた。そして、不思議なのだが、どこからどうして、自分がそんな本を読みたいと思ったのか、その辺りの記憶もない。
そんな俺だったから、自分で小説を書き始めたのも、自然であった。
最初は、ままごとのようなものを書き散らし、やがて一丁前にも、文学を目指した。習作を重ね、次第に文学はブンガクになり、やがて俺だけの何か、になった。
そして志を立てた。
それ以後、志にしたがって生きてきた。そしてつい数ヶ月前に、その志の御旗を降ろしたのだ。




