柿木の家 1
喜びは、松の木のある道を歩いて帰ってくる。
私は、借家の前の大きな松の木に登り、遥か道の先に視線を向けていた。往還松であったらしく、向かって右手に、ほぼ等間隔で松の木が植わっている。もっともまだ三歳の私には、往還松などという知識はもちろんない。眼下の道は、粘土の交じった土で、今は乾いて白っぽい。甘い香りがする。道の両脇の田んぼに植えられた蓮華と菜の花が、手の切れる職人が織った絨毯のように、鮮やかに伸びている。
ゆらゆらと陽炎が立つ中に、小さな黒い点が現れる。それは、次第に大きく、はっきりとした形となっていく。父である。夜勤が明け、道のずっと先にある小さな駅から、歩いて帰ってきたのだ。
松の木から急いで降りる。ここで父の帰りを待っていたことを知られたくない。
降りると、借家の右手を回って、緩やかな坂道を駆ける。一度下ってから、再び登るとすぐに、三叉路に行き当る。その二手に分かれた道の正面に洋館が建っている。二階の窓が、並んだふたつの丸窓で、まるで人間の目のように見え、辺りの家々とは明らかに違い、異彩を放っている。
生垣を潜る。チューリップの咲き誇る庭を、奥へと向かう。ほとんど日課のように訪れているけれど、家人には見咎められないよう、物音は極力立てない。いつもの出窓の下に屈みこみ、息を整える。
「きょうは早いね」
頭の上で、声がする。屈託のない明るい声だ。それでも近くにいないと聞き取れないくらいの音量だった。
神田正也は出窓の下を覗きこんだ。いつもの子供が、まん丸な目をして見上げている。なんとも不思議な子だ、と思う。自分がこの子に与えている役割を、もしかすると理解しているのではないかと思わせるときがある。もちろんそんなはずはない。この幼さで、意味が分かったら、化け物だ、と思い、その己の連想に自分でおかしくなって、ふっと笑ってしまった。
「おにぃちゃん。いいことがあったそ?」
子供が小首を傾げ、訊いてくる。
佐久間の家の離れを借りている家族の子供だと知っていた。名は和世道夫。みんなは、みっちゃんと呼んでいる。確か下に生まれたばかりの妹がいたはずだ。
「そうだね。みっちゃんが来てくれたから、うれしいんだよ。飴、食べるかい?」
いつもそうしているように、ポケットから飴玉を取り出し、渡す。道夫は、にこにこ笑って、すぐに頬張る。
気の早い燕が横切って消えた。