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ひとつあきらかなことがある。
僕が死ぬまでの間で使える時間をフルに使ったとしても、充分楽しませてくれるだけの本はあり、あるいはコミックはあり、またあるいは音楽はある。
何も僕が、才もないのに時間を浪費して取るに足らない小説を書いたり、休みの日に近所迷惑もかまわずギターを弾いて大声でがなりながら歌を作ったり、そんなことをする必要はない。
そんなことは充分分かっている。
だけど、肝心なところで、僕が求めるお話はない。
決定的にない。
何度も言うけれど、それは僕に関することのすべてだ。
そして、もうお気づきだとは思うけれど、僕というものをはっきり捕らえられるのは、その精神世界においてだ。
僕は、五十過ぎの初老の男にもなれるし、四十になって少し疲れ始めた主婦にもなれるし、三十を間近にちょっと焦燥感を覚え始めた女にもなれるし、隣のクラスの莉乃ちゃんが気になって仕方ないにきび面の男子高校生にだってなれる。
もっといえば、エイリアンにもなれるし、場合によっては風にだってなれる。
だから、そういうものは、たぶん意味をなさない。
そしてまた僕の精神世界のことを考えると、絶望的な気分になる。
誰ともうまくコミュニケーションが取れないおっちゃんが、その枯れかけた精神世界を、いかにみずみずしく描こうとも、そんなものに興味をもつ人間はいない。
もちろん、おっちゃん自身にとっても、それがそれ以上にならないということは、やはり悲しむべきことだ。
だからと言って、おっちゃんがいい人になっても、何の意味もない。
光の橋としてここまで書いてきた。
それは僕の初期の頃の作品に登場する。
その橋を渡ることが出来れば、夢であれなんであれ、欲しいものが手に入るという言い伝えのある橋だ。
そんな橋などどこにもないと言っているばかりでは、何も始まらない。
無いものであるなら、作ってしまえばいい。
ここまでで、橋がきちんとかかったとは思わないけれど、そろそろ渡れるかどうか試さねばならぬだろう。
なぜなら、限りあるときをいつも僕らは生きているからだ。




