序
志が落ちた。
というのも、不思議な物言いである。そもそも文として成立していない。それでも、昨年の暮れも暮れ、大晦日の日暮れ時に、私に起こった変化は、こう言い表すのが一番正しいと思える。まったく、考えられないほどあっけなく、それはまるで己の一部であった鱗が、歳月を経て、その役割を終え、剥がれ落ちたかのように、私からすっかり消え失せてしまっていた。そして、その剥がれ落ちた鱗は、気がつくと、万年、書斎に出しっ放しの電気ごたつの上に、ちょこんと、とぼけた顔で座っていた。なんとも、こんなものに四十年の歳月を捧げたのかと思うと、己がことではあるけれど、ちょっと不憫に思った。もっともいまさらそんなことに気づいたからといって、過ぎ去った年月も時間も取り戻せやしない。さらに、その鱗が生成されていく過程に、己が生涯を捧げんとも誓っていたのだから、こうなると生涯を賭けた嘘を吐いたようなものである。
さて、そうなってしまうと、これから己は何をすればよいのか、迷ってしまいそうなものであるが、これが性根がないというか、またぞろ新たな鱗でも生えてこないかと試みるかのように、百年一日のごとく、すでに慣わしともなった作業にするすると潜っていくのである。ではあるけれど、そこはすでに志が落ちた者の成せることゆえ、ある意味、苦行ともとれるその作業を続けることに、何かしら、新たな名目を与えてやらねば、進退窮まれるような按配なのである。
ならば、そもそも素である、裸の己に、続きを行わせればよいと開き直ることにした。私のような、何の才もなき男が、下手に志を立てて生きてきたものだから、これまで、どうも疲れる生き方ばかりしてきたようでつまらぬ。せっかく志を落として身軽になったのであるから、ここでまた遠回りな物言いをして、さらに疲れてしまっては愚の骨頂であろう。たいしたことを考えているわけではない。所詮私は、己がことにしか興味がない自己中心的な人間のようである。友人から、ナルシストと評されたこともある。よって、これまで語ってきたことは我が身に起きたことだけであった。そして、志が落ちた今も、語りたいことは、己が身のことばかりなのである。