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脳片鱗幻影  作者: 多加也 草子
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第9話私の片鱗

 手術から17日目の朝、私は夢を見ていた。いや、私の夢ではない。保が見ているのだろう。

 大きな講堂で、保は何かを発表していた。保の後ろのスクリーンには脳の全体図が映し出されていた。保は、大脳の前頭前野の領野の各々にどんな記憶がどのように収められているかを詳しく発表していた。そして、次第にその図に保は近づいて、いつしかそれは、瑞々しく弾力性のある脳に変貌し、脳の中に保自身が取り込まれていく。そして、保の姿の私の意識が、その脳の中のいろいろな扉を次々と開けていた。しかし、ある1つの扉が開かなかった。保はいつしか私の姿になっていて、私はその扉の鍵を捜し回っていた。

 そこで目覚めた。保は放心状態だった。

「保、どうしたの? ねえ」

 語りかけると、保は戻ってくれた。

「今、何かを思い出しそうになっていた。しかし、何か障害が記憶を閉じ込めた」

「さっきの夢の扉の中にそれはあるのね?」

「恐らくそうだ。なんだろうね」

 保はその事をあまり気にしていないようだった。その日から、時々、その扉の夢を見た。


 手術から、22日目のことだ。私はふっと眠りから覚めた。目の前には煮魚があり、それをつまんでいるところだった。皆が食卓を囲んでいた。私にはこれが朝食なのか昼食なのか判別が出来なかった。

 眠っていたのだわ。

 こんなことは始めてであった。手術から意識が回復した時以外は、保の意識と共に寝起きをしていたのに、私1人が眠っていたのだ。

「大丈夫?」

 保が念じてきた。

「大丈夫よ」

 私は、大丈夫か大丈夫でないかの判断も出来ないのに答えてしまった。それさえ、保に見破られているのを理解しながら。

 保は食事の直後、研究室の筑恩寺博士の元に行った。

「優美が今朝から昼まで寝ていたのです。こんなことは初めてで。通常、右脳と左脳は一緒に寝起きをするはずですし、午前の検査で右脳が起きているのはわかっていました。しかし、彼女は眠っていたのです。右脳のすべてを優美の脳片鱗自体が支配していくと言う見解は違うようです。彼女はまだ、私の脳のほんの1部でしかないのでしょうか?」

 筑恩寺博士が腕組みをして保の頭を見つめた。

「これは、まずいことになるかもしれない」

「投薬か手術か何か出来ないでしょうか?」

「保自身の意識は順調だし、脳機能が衰えているわけでもない。保の意識に優美君の意識が取り込まれていくということだ。それは、自然の摂理かもしれない」

「と、言うことは、理論は間違っていたと言う事ですか? 脳移植により2つの意識を1つの脳で存在させることは不可能だと?」

 保は珍しく強い口調で博士を責め立てた。

「1つは成功した。保の失った脳の機能は優美君の脳を移植したことによって回復した。とにかく、まだ、観察を続けなさい。優美君は今も確かに存在しているのだから」

 博士も強い口調になり保を戒めた。

   

 私たちは部屋に戻った。保は無言で拳を握り締めたまま立ち尽くした。

 優美が消える。

 おそらく保が考えた。そうだ。私たちの脳細胞はお互いを取り込み、ひとつにしようとしているのだ。私は、もう、自分の考えなのか保の考えなのか、判別が出来なくなってきていた。私の脳の片鱗は保の脳として、りっぱに機能している。私の意識は消える。そして、本当に保の1部として生きる。

「だめだ、そんな事ってだめだ」

 保は拳を震わせていた。自分を許せないと思っていた。私は念じ続けた。

「大丈夫、大丈夫。だって、私のつまらない人生を楽しくしてくれたのはあなただわ。それだけで充分」

 ふと、軽い頭痛が走った。そして、意識の中で、また、開かない扉が見えた。それが、震えだし、開きかけていた。私は知りたいと思っていたその部分を今は恐れた。何か、私が知ってはいけない事なのだ。

「やめて、保! もういいの。私は、きっと、それは知らなくていいの」


 翌朝、ひどい頭痛を保が訴えた。私は全く感じなかったが。そのため、検査を部屋で出来るものだけで済ませた。私は記録を書くためにメモ帳を常に持ち、私の行動を書いていくことにした。私たちはもう開かない扉の事を意識から遠のかせていた。二人とも触れないことに決めたのだ。

 遠野さんと辻本さんは、今日は1日中、私たちのそばにいるように博士に言われ、部屋でこれまでの記録を整理していた。

 さっきの記憶は午前中であったが、今、気がついたら夕食を食べていた。慶子さんが食後にピアノを弾いてくれた。ピアノの音が少し遠のいた。保の頭痛はまだ治まらないようだ。頭痛の中で保が訴える。

「優美、頑張れ! 俺を支配しろ。俺が消える。君は俺の身体で生き続けろ!」

「いいの。あなたの中で私の細胞は生き続ける。それだけで充分」

 徐々に思考がぼやけてくるようになった。保はそれに気が付いたのかピアノの演奏の途中で静かに席を立った。

「大丈夫か?」

 遠野さんの声が、遠くから聞こえた。おそらく遠野さんがよろける私たちを支えて歩かせてくれた。慶子さんも辻本さんも後ろから付いて来てくれているようだ。私から見える景色はひどく暗く黄色いひびが入っていた。やっとの思いで部屋のベッドに横になる頃には、保の目から何も見ることが出来なくなっていた。突然、今までなかった死への恐怖が襲ってきた。保を愛することで心の奥深くに閉じ込めていた生への欲望や自愛が私の思考を支配した。

 怖い! 

 たまらなく怖い! 

 保、私を抱いていて!

 お願い!

 強く抱いていてちょうだい!

 そして、この恐怖を消してちょうだい!

 ふっと、恐怖が遠のいた。脳裏に、刹那、保に抱かれた私の身体が現れた。ふかふかのベッドで朝日を受けてまどろんでいた。まぶしいほどの光を受けて輝いて見えた。そして、また、暗闇が訪れた。

 次に現れた物はとてもスローモーションで上から落ちてきた。


 暗い世界に一片のきらきら輝く白いかけらが、舞っている。

 あれは何?

 私の脳の片鱗?

 綺麗だわ。私の最期の証し。

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