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脳片鱗幻影  作者: 多加也 草子
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第8話セミナー

 その日の夜、風が吹き始めどしゃぶりの雨になった。私たちが眠っていると、ドアをノックする音が聞こえた。

「深海です」

 ドアを開けると、深海沙也が酔っ払っているようで、とろんとした赤い目をして立っていた。

「お話がしたいの。いいかしら」

「ええ、どうぞ」

 深海沙也はふらふらと部屋に入って来た。保がドアを閉めると深海沙也はさっとドアの鍵を掛けた。

「監視がいるかもしれないから、入ってこれないようによ。気分はどう?」

 深海沙也が笑顔で保の顔をじっと見つめた。

「ねえ、あなたの頭はどうなっているの? 男なの? 女なの?」

 そして、突然、腕を保の首に回して唇にキスをした。私たちは驚いて、彼女を突き放そうとした。しかし、彼女の腕はしっかりと組まれ離すことが出来ない。彼女はキスをやめたが、保の顔をしっかりと見つめ真剣な顔をしていた。

「ねえ、優美さん、あなたは一生、彼とキスなんて出来ないのよ。彼とセックスも出来ない。それでも、あなたは幸せ? 一方、彼はあなたの意識のある中で他の女と抱き合えるのよ。これっておかしくない?」

 私たちが答えに困っていると、彼女は再び保の唇に自分の唇を押し付け、保の堅く閉ざされた唇を舌で開けようとした。彼女の身体が、保にピタリと寄せられた瞬間、保は腰を屈め、彼女の腕から身体を抜くことが出来た。

「俺にどうしろと?」

 保の言葉に深海沙也はあの歪んだ笑顔を見せた。

「あんたなんて、どうでもいいのよ」

 保は深海沙也の低く強い口調に身じろいだ。

「問題は優美さんよ。この男の身体の中で幸せか聞いているの。男なんて所詮、女を抱くことしか能がないの。私は見事にその生け贄になり、今に至っているのよ。おまけに、今度はあの老人の意識の器になれって言うのよ。こんな事ってある?」

 深海沙也はずかずかとベッドへ進み、ふわっとベッドに沈み込んだ。彼女のふわふわの髪が柔らかく揺れた。

「ねえ、私を抱いてくださらない」

 彼女は誘う目つきでこちらを見た。私たちは無言で立ち尽くした。

「あなたたちが羨ましいわ」

 ただ立ち尽くすだけの私たちを見て、彼女は沈み込ませた上体を起こして悲しげな声を出した。

「こんな誘い、私ならすぐ受けていたわ。あの頃の私わね」

「あの頃?」

「そう、人気ランキング1位が5年続いた頃よ。もう、散々だった。毎日スケジュールがいっぱいで、友人に会うのも億劫になって、1人でお酒を飲むようになった。ある日、バーで飲んでいたら、私が女優だと気がついていない男が声を掛けてきた。一緒に飲んでいたら意識をなくしたの。気が付いたら、レイプされていたわ」

 深海沙也は栗毛色の髪を指でクルクルと回しながら、私たちを見た。

「レイプされたら、どうなると思う?」

 深海沙也の質問に対して、私たちはわずかに首を傾げた。彼女はまた偽りの笑顔で言った。

「私は目覚めてしまったの。それまで、愛の証のように思っていたのに、ただの快感になってしまった。私を女優と気が付かない男がいれば、すぐに誘って寝たの。理性なんてものはどこかに捨てたわ。その代わりに仕事をちゃんとこなせるようになっていたの。割り切りも覚えた」

 深海沙也は放心状態のような虚ろな目を下に向け、ベッドのマットを拳で何度も何度も叩いた。悲しさや虚しさ、怒りの入り混じった表情だ。私はその表情に初めて深海沙也に愛着を感じた。彼女は話を続けた。

「仕事も出来る。男にも不自由しない。でもね、どっちにも愛情がなかった。情熱がなかった。表面的に私は成功していたけれど、心の中は空洞になっていくのがわかった。それを埋めるために、また、男に抱かれた。でも、快感だけでは満足出来ない。だから、また男をすぐ求める。そして、プライドだけが私をつき動かし、仕事をさせた。いい女、いい人。それを持続していく事が、私の目的になっていった。でも、限界だったの」

 深海沙也は拳を振り下ろして、ベッドから立ち上がり、窓辺に立った。窓の外は暗闇。雨の激しさで夜景も何も見えない。それなのに、彼女は何かを見つめていた。

「私は総元教の教えを信じた訳ではないの。馬鹿みたいなプライドがある人間は人なんて信じられないの。でも、総元の教えに救いを、そして、何よりも変化が欲しかった」

 私は彼女が可哀想だと思った。救いとは何なのだろう? 私はまだ、救いを求めて何かを探した事はなかった。

「優美さん、私はあなたが羨ましいの」

 私はどんな意味かわからなかった。

「あなたは今の状況を受け入れているわ。保君を信じて皆を頼って。ねえ、あなたはプライドって言葉を知っている?」

 深海沙也の問いに私は答えようがなかった。よくわからない。

「ごめんなさいね。いいのよ、いいの。私が羨ましいのは、あなたがただ目の前の状況すべてをしっかりと受け入れている事よ。私はすべてが不満なの。すべて受け入れることを拒んでいるの。以前は、人気を失うのも嫌、仕事も嫌、男と寝るのも嫌。今は、総元の力を無くすのも嫌。でも、総元の意識の器になるのも嫌。でも、私は嫌だと思いながら嫌な事に進んでいくの」

 突然、深海沙也は「ヒィ!」と言う悲鳴のような声を出し泣き出した。彼女は再びベッドに沈み自分の泣き声を抑えようと枕を顔に押し付け、うっ、うっ、と言う声を静かに漏らしながら泣いた。しゃくり上げる度に肩を揺らし震える彼女に保はいつしか近づき彼女の肩を抱いた。彼女は、それでも保の胸に顔を埋める事を拒み、枕を離さず声を押し殺して泣くのだ。


 翌朝、昨夜の素振りを微塵も見せない深海沙也がいた。遠野さんと辻本さん、慶子さん、保の4人が朝食を採っているところに、ウィロードとやって来て、今日は総元のセミナーがあるので出てきてくださいとだけ告げると、すぐにまた部屋から出て行ってしまった。

「いつ見てもかわいいよなあ、深海沙也」

 遠野さんはうっとりと後ろ姿に見とれていた。

「拳ちゃん、もっと沙也に話しかけてよ」

 慶子さんは、遠野さんに少し強い口調で言った。

「沙也は、恐らく甘えることが出来ない性格なの。拳ちゃんが本気で沙也の事思っているなら、どんどん話しかけてあげてよ」

「でも、ここではいつもウィロードが付きっきりだしなあ」

「拳ちゃんは押しが足りないのよ。そんな筋肉持っていたって、押しのない男なんて魅力ないものよ」

 慶子さんの言葉に、遠野さんは少ししょげていた。


 この神粂山の南面はほとんどが総元教の土地であった。総元教は会社組織としての機能の方が強いのだ。株式会社SOGENは、最先端の医療機器のメーカーとして、最近、有名になってきた。それとともに、健康食品の製造も手掛けていた。彼らの開発力と営業力はものすごいものだ。わずか20年で今や業界で上位にいる。もともと総元は社員教育の一環として自己育成のセミナーを開いていた。それが話題を呼び、総元の信者が出来、宗教のまで発達したと言う。最近は病院をこの神粂山に建て、その医療技術の高さにも定評があった。 


 私たちは総元のセミナーに出るために私たちの居る宿泊施設の300メートル南にあるドーム型の白い建物に、車に乗せられ移動した。

 建物に入ると信者たちが大勢ロビーにいた。私たちは誘導されて奥の部屋に入った。倉本総元がそこにいたのだ。総元は日本人だったが、ウィロードのような、堀の深い顔の紳士だった。70歳を超える老人とは思えないほど背筋を伸ばし、仕立てのよいスーツに身を包んでいた。

「具合はどうですか?」

 低く、そして快活な声で私たちに握手を求めて来た。

「とても順調です」

「それはよかった。あなたたちは私にとって、とても貴重な存在ですので、総元教に歓迎します。セミナーは最前列をご用意していますので、楽しんでください」

 彼は笑顔で皆に握手を交わすと部屋を出て行った。

 私たちも再び誘導されてロビーに戻り、正面にある重厚な木製の扉を開けた。そこには円形のホールが現れた。真ん中の直径5メートルほどの舞台を囲んで、階段状に映画館のような椅子があり、すでに大勢の人たちが座っていた。私たちは大勢の人間を見て気後れした。私たちは最前列の席に案内された。

 席に着くとすぐに、照明が落とされ、会場が静まり返った。心地よい静粛の後、音楽が聞こえ始め、天井から、一筋の光が舞台の上に照らされた。一瞬の沈黙の後に大きく、はっきりとした女性の声が聞こえた。

「私たちの心を救ったのは誰でしょう?」

「総元!」

 一同の大きな合唱。

「私たちの糧を与えたまえたのは、誰でしょう?」

「総元!」

「私たちに豊かさを見い出したのは誰でしょう?」

「総元!」

 そして、高らかに太鼓の音が鳴り響き、再び照明が落とされた。今度は、四方から舞台を明るい光が射した。そこには、倉本総元の笑顔があった。拍手が鳴り響き、それに答えるように総元は右手を挙げ、ゆっくりと観客席全体を見回した。

「皆様、私を信じて付いてきてくださる皆様、ありがとうございます」

 彼は深くお辞儀をした。

「皆様がいつも前向きに生き、愚劣を嫌い、徳行を全うすることによって、心安らかに過ごせていることを、私は誇りに思います」

 そこから、30分の彼の話があった。存在しない神仏を崇拝する必要などないのだ。ただ、恐れや欺瞞を克服する為の心のより所は、もちろん必要なのだ。恐れた時は私を信じなさい。打ち勝てない恐れなどないのだ。欺瞞を感じた時には自分を信じなさい。そして、相手を信じなさい。信じる力が欺瞞を吹き飛ばすのだから。そして、信じるというより所に集まる同じ考えの持ち主が集まり、何かを行えば、偉大な力が生じることが出来るのだ。そんな内容の話が続いた。

 私は保がこう言うセミナーについて何を思うのか知りたくて念じた。保の考えを教えてと。すると保の思考が伝わってきた。

「俺は、常に恐怖に打ち勝ち、人を信じる事を実践してきた。人々が協力すれば、大きな力が生まれることも、誰もが言われなくても周知している事だと思うのになあ」

私は保のそんな考えに尊敬の念を向けた。保はそんな事を考えて生きてきたのだ。私は、毎日毎日、楽しいことはないかなあ、なんて事しか考えて生きていなかった。

「それでいいじゃないか? 楽しいことを考えて生きる。それは大切なんだよ」

 私はうれしくなった。私たちは会話もせずに、こんな思考のやり取りをしている。

 セミナーは総元の話から信者たちの体験談に移り、皆がその話を真剣に聞いて頷いているのが見て取れた。遠野さんを除いて。遠野さんは小さな寝息を立てていた。

 体験談が終わると、ウィロードが舞台に立った。

「皆様、今日のゲストを最後にご紹介いたしましょう。脳研究家の筑恩寺博士です」

 筑恩寺博士は舞台に上がり挨拶した。

「こんにちは。今、私たち研究スタッフは、皆様の援助を受け研究に励んでいます。人類にとって有益になる成果が得られるように皆様も応援のほど、お願いいたします」

「さあ、この筑恩寺博士のスタッフに励ましの拍手をお願いいたします」

 ウィロードが、私たち一同に起立の合図を出した。拍手が起こり、私たちはおどおどと立ち上がり会釈を何度もした。しばらくの拍手の後、ハープの音が響いてきて拍手を止めた。

 総元と沙也さんが並んで舞台に立った。

「皆様の笑顔が耐えないことが私たちの最大の望みです」

 2人は合掌した。そして、すべての照明が消され、沈黙があり、数秒後、再び会場は明るくなった。ざわざわと言う音と共に皆が立ち上がり出口へ向かった。

「正直、洗脳されそうな気分ですよ。総元の考えについて行きたくなる」

 辻本さんが席を立つことを忘れ、天井を見上げていた。

「ええ、すばらしいことを言っているわ」

 慶子さんは、すっと立ち上がり、出口に向かうたくさんの信者たちを見つめていた。

「でも、私たちが軟禁されることはないと思うのよ。沙也が犠牲になることもね」

 慶子さんは私たちの方を振り返り、寂しそうな瞳を見せた。

「筑恩寺はもっと違うやり方で社会に貢献出来たはずよ。学会にだって認められるべきよ。それなのに、こんな……」

 彼女の目に涙が浮かんだ。

「ごめんなさい。悔し涙よ。私、宗教とか啓発とかだめなの。団体で当たり前のことを訴えて、人類の尊厳や、精神の向上なんて、親に教わるべきよ」

 慶子さんはかわいい人だ。いつもは、とても落ち着いた穏やかな表情をしているのに、ポッと激しい感情を露わにするのだった。

「でも、慶子さんは強いから、1人でいられるのでしょうが、誰もが強いわけではないのだと思います。昔は目に見えない神を支えに生きてきた人々が、今、神の存在を否定し、博識者や成功者に心のより所を求めても仕方がないことだと思いますよ」

 保が優しく慶子さんに言った。

「皆様、戻りますがよろしいでしょうか」

 行きに乗せてきた運転手が静かに言った。気がつくと、もう、ホール内は私たちだけであった。私たちは言われるがままに外に出ると、また、車に乗り込んだ。

 周りは樹木が美しく茂り、気持ちの良い道だった。途中に4〜5台の車が置ける車庫があり、私はそこにあのサニーがあるのを見た。

「見た? 保!」

「ああ」

 私たちはまた無言の会話にうれしさを感じた。私たちは通じ合っているのだ。


 私たちの軟禁生活は規則正しいものだった。朝の8時に目覚ましが鳴り、目を覚ます。2人は寝相が悪く、布団が足元にくちゃくちゃになっており、肢体は大の字に投げ出されている。保がまず私の意識に「おはよう」と念じ、私も「おはよう」と念じると、保の左の指先をわずかに曲げる。保の目線がその指先を愛しげに見つめ、右手で指先にわずかに触れる。私はその右手が大好きだ。両の手は、しばらくじゃれ合ってから、ふぁぁとあくびをしながら起き上がる。遠野さんにまだ不自由な足の面倒を見てもらいながら外に出て、庭をゆっくりと歩く。そして、9時に食堂に行き、慶子さんと辻本さん、遠野さんと一緒に食事をする。筑恩寺博士は寝泊りしている部屋も食事も全く別で、どこにいるかもわからなかった。食事が終わると、私たちは研究室に行く。私の遺体の安置されていた所の隣の部屋だ。筑恩博士が待っていて、身体測定、脳波の状態などを検査すると、観察が始まる。運動能力や記憶力、音楽や絵画に対しての反応など、こちらは遠野さん、辻本さんが担当する。午前中は私たちの観察に費やされ、午後はその分析をする。

 皆が分析をしている間、私たちは自室に籠もり、私の記憶をすべて記録するという作業をする。そこで、気がついたことが、私は5ヶ月より前の記憶がほとんどないのだ。ちょうど、高校を卒業して働き始めた頃からの記憶しかなかった。自分が孤児と言う事は『セゾン』のマスターと会話した記憶から覚えていた。保は、移植前に脳の移植する場所に記憶を集中させる為に刺激を与えるのだが、それが弱かったのだろうと言っていた。自我はそのまま受け継いでいるのらしい。今の保と私の関係は多重人格者の脳と同じなのだそうだ。左脳に保。右脳に私がいる。保はもう少し研究が進められていれば、優美の記憶は完璧に残ったはずなのだと、悔しそうに言った。私は大丈夫よ。私が幸せなのはわかっているでしょう? 私はそう保に問いかけた。保は、しばらく伏し目がちに無言でいたがボソッと言葉を発した。

「優美は幸せだなあ。本当に君はすばらしい女性だ」

 そうして、彼は私たちの一番感じやすい方法で私を愛してくれた。目を瞑り、両手を肩の高さまで上げ、手のひらを上に向け、親指で他の指の腹を優しくゆっくりと触れていた。意識をその指に集中させ、そのまま意識だけをゆっくり、手のひら、手首、腕、肩、脇、胸、そして、鳩尾に伝わせていった。私の意識は保の身体全体を駆け巡り、記憶の中の私の子宮が疼くのを感じた。

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