第7話研究か逃走
部屋に戻ると慶子さんがいた。
「優美ちゃん、いるのね」
保の目を覗き込み、慶子さんは聞いた。保が頷くと、慶子さんは私たちを抱きしめた。
「慶子さん、会いたかったです」
私たちの身体は私が独占し、慶子さんを抱きしめた。そして、しゃくり上げながら嗚咽した。慶子さんも一緒に泣いた。
「ごめんね。私がここに来たいと言ったために、こんな事になってしまって。ごめんね」
私は小さく首を横に振った。何も、誰も謝る事なんてない。だって、私の意識は存在し、保の中にいるのだから。
私の嗚咽が少しずつおさまり落ち着いてきた時、筑恩寺博士が私たちの肩を叩いた。
「保からある程度は情報が伝わっていると思うが、説明するので聞いてもらえるかな」
私たちは頷き、ベットに横になった。遠野さんと辻本さんは離れたソファに座った。慶子さんと筑恩寺博士は、私たちのベットの両サイドに椅子を持ってきて座った。慶子さんは私たちの左手をそっと握ってくれた。
「私たちの研究室は、あっと言う間になくなっただろう? 沙也さんの事件がきっかけだが、もう、その前から大学側は私を潰そうとしていたんだ。危険分子は葬らなければいけないという慣わしは、いつもあるものでね。私たちは、いつも倫理の問題を突きつけられる。正直、倫理を気にしていれば何も出来やしないのにだ。私は精神異常者や、脳障害の患者の脳外科的治療の可能性と脳移植の研究をしていた。大学側は自我を操作することは人権侵害に当たるという理由で、可能性を秘めた私の研究を危険思想だと言うのだ」
筑恩寺博士はその時の事を思い出したらしく、声の調子が強くなった。本人もそれに気がついたらしく、咳払いをして、1度、深呼吸をした。
「危険思想の研究を潰すのに、沙也さんの事件は好条件だったわけだ。教育の場に女優を連れて来て学生の意識をかき乱し、事件を起こしてマスコミまで騒がしたわけだ。その上、倫理上の問題ありとあれば、いくら私が脳外科として優秀な過去を持っていても、大学には利益なしとみなされた。私は自分の研究を遂行出来る機関を探すべく、まずは資料作りをしようと自宅に籠もっていた。そこへ、沙也さんとウィロードがやって来たんだ。倉本総元は今、72歳。総元教は神を敬うのではなくて、総元そのものが敬われて成り立ってきたものなので、総元がいなくなれば信者が離れていく恐れがある。総元の意思を、もし後継者の脳に埋め込めたなら、そのまま総元教を広めていくことが可能と言うのだ。私は飛びついた。その日のうちにここまで連れて来てもらったんだ。皆に連絡しなかったのは悪かったが、何せ朝から晩まで研究に没頭していたものでね。脳機能の移植を研究していたのが、意識や自我を移植すると言う研究に転向しなければならなかったので忙しかった。でも、すばらしいことに、ここにはかなりの資料や機材が揃っていて、研究するのにはことかかない。要求すればなんでも揃うんだよ」
博士は目を輝かせ楽しそうに話し出した。そんな博士を保の目はうれしそうに見ていた。保は本当に博士を尊敬しているのだ。
「君たちは、ここから500メートル程の所で事故にあったのだよ。担ぎ込まれた時は驚いた。なんとか、私の手で助けたかったけれど、優美さんはもう無理だった。保はまだ意識もあって、私たちは研究を決行することを瞬時に決めてしまった。君だったら、完全なる死よりも保の中で生きる事を選ぶだろうと思った。そうだろう?」
筑恩寺博士は私に同意を求めた。私は素直に頷くのを拒んだ。だって、やはり人権侵害なのだ。でも、幸福なのだ、とても。女と言うものは複雑なのかしらと思った。男と女は元々1体で、この世に生を受けた時に、別れてしまう。そこで、もう1つの自分を見つけ、完全になる為に男と女は求め合う。そんな考えがあると聞いたことがあった。なんてロマンチックなのだろうと以前は思っていた。しかし、それを科学的に強行されてしまうと、なんとも複雑な気持ちだ。博士にこんなに幸福ですと、素直に答えるべきなのか? それはきっとノーなのだ。
「博士、まだ、その答えを出すには時間が要ります」
保が私の答えを尊重した。
「そうだね」
博士はがっかりして肩を落とした。
「これからしばらく、君たちを観察するよ。君たちも心境や身体の変化をレポートにしてもらうから」
博士は立ち上がった。
「がんばってもらうよ。よろしく頼む」
博士は私たちの右手を両手で握った。そして、博士は出て行った。
慶子さんはずっと俯いたまま、話を聞いていた。そういえば、博士は1度も慶子さんを見ることはしなかった。
「本当にごめんなさいね。あなたたちを巻き込んでしまって」
慶子さんは泣いていた。私たちは慶子さんの両手を握って黙って首を横に振った。遠野さんは立ち上がると、私たちのベットの脇に立った。
「今は、誰のせいだとか言って慰めあう事はやめましょう。いずれにせよ、博士の研究室の人間は博士を追ってここまで行き着いていたのですよ。しかしなあ、博士が総元教に連れ去られたわけではなく、望んでここまで来たとはなあ。そうだ、保、優美ちゃん、俺たちは軟禁状態だぞ」
「あれから、何日経っているのですか?」
「ああ、事故から10日だ。考えてみればお前らよく歩けたなあ。あんな大手術をした後だもんなあ。おとといから、俺がお前らの筋力が衰えないように、少し脚や腕を動かしていたんだ。きっと、その成果だな」
遠野さんが自己満足して頷いた。
「私たちは軟禁状態ですし、研究していきたいと思っています。だからここにいようと思っていますが、優美ちゃんと保がここから逃げ出そうと言うのなら、隙を見て逃げ出す事もかまわないと思っています。どうしたいかな? ここにいるならば、いずれ、総元の脳を深海沙也に移植することになります。そこまで関わってしまえば、ここからは逃れられなくなるかもしれないですね」
辻本さんは穏やかに、恐ろしいことを言った。逃れられないなんて、私たちはどうなるのだろう。総元教の信者になるのだろうか?
「軟禁状態って、外には出られないのですか?」
保が聞くと、慶子さんが優しく答えてくれた。
「お庭までは出られるわ。私たちが外に出る時はいつも監視がいるわ。この実験が外部に知られる事を恐れているようよ。ここは、総元教の上層部しか入れない宿泊施設らしいわ。どうも怪しいのよねえ。総元教は今まで、自己啓発のようで、まあ、悩みを持つ信者が自信を取り戻すような、前向きな思考を打ち出してくれるいいイメージの団体に思えていたのに、なぜ、そんなに倉本総元を残しておこうと思うのかしら」
慶子さんは納得出来ないという風に首を傾げた。辻本さんはそれに答えるべく、「それは‥‥‥」と言いかけ、ソファから立ち上がり、慶子さんの座っている椅子の前に歩いてきた。
「人の力を信じて立ち上げた宗教なのに、総元自体、自分の死を恐れ始めたのかも知れないですね。彼は神になりたいのかもしれない。永遠の命を現代の科学で手に入れようと考えたのでしょう。昔から、地位や財産のある人間が次に求めるものは、不老不死と決まっているのですよ。永遠の生ですね。クローンやコンピューターでそれも可能になるかもしれないですが、我々の研究の方が現時点では、現実味を帯びているのですよ。元々、我々は病気を治す目的で脳移植を研究してきた。学会では自我の移植の可能性も発表した。そこで、彼が考え出したのが、自我の移植を若い脳に代々続けていけば、永遠に自我が存在することになるという理論ですね」
辻本さんの考えに納得して、私は保を頷かせた。保はその頷きを途中で遮って、自分の考えを付け加えようと口を開いた。
「つまり、博士の探究心が人道よりも勝ってしまった。それが、総元の欲望と一致した。もちろん、俺は自分の意思で実験台になってしまったけれど、俺の意思は総元とは違う面ですし、俺は何よりも優美の死を恐れていたから‥‥‥」
保は最後の部分を恥ずかしそうにトーンを下げて言った。
「ところで慶子さん、なぜ、もともと後継者と言われていたロジャー・ウィロードでなく、深海沙也が後継者に代わったのか知っていますか?」
遠野さんの言葉に一同が慶子さんを見た。
「昨日、沙也と二人で少し話せたの。その時に私も聞いたのだけれど、カリスマ性と適度な年齢で選ばれたと言っていたわ。沙也は、18歳の時から好感度で上位を保ち続けていたの。正直、彼女は話が上手な訳でもなく、演技もうまいと言われる程でもなかった。けれど、不思議に人から好かれる魅力を持っていたのよ。けれど、その分、彼女は悩んでいたそうよ。そんな時、総元に会って、心のより所に信者になったのですって。ウィロードは総元がまだ宗教団体として活動する前から総元を尊敬してここまで付いて来たらしいの。まあ、今まで総元の教えを1番理解していたのはウィロードだったので、後継者は決まっていたのだけれど、筑恩寺が学会で移植の発表をした時、総元はウィロードの年齢には移植してもあまり意味がないと考えたの。それで、彼ははずされた。そして、彼らは筑恩寺の提唱する脳移植のマッチする条件を調べ上げ、彼女に白羽の矢を立てたのよ」
「沙也さんは納得しているのですか?」
辻本さんが理解できないと言うように聞いた。
「わからない。総元の自己啓発のセミナーのおかげで総元の持っている企業は、躍進しているの。それに加えて、かなりの献金を集めているので、私は、総元自体はお金目当てで教祖をやっていると思っているのよ。それをわからないような、浅はかな深海沙也ではないと思っているけれど」
私は慶子さんの言葉に深海沙也への愛情を感じた。
「とにかく、半年から1年は、俊野保と唐沢優美の観察は続くのよ。それから総元と沙也の移植をするはず。総元の移植が成功するまでは、この事を世間に漏らしたくないらしいの。だから、私たちそれまでは出られないわ。徹君の言うように、その後に出られるかの保障もないけど。どうする? 何とか逃げ出す? 私は事務所が心配なのだけれど。きっと、沙也の失踪で世間は大騒ぎね」
「いいえ、むしろ、古沢慶子の失踪の方が騒ぎでしょう。沙也さんは総元教の元にいるのは世間では知っているわけだし。ねえ、優美ちゃんはどう思っている? このまま被験者で観察される事に納得出来る? もし、優美ちゃんがこんな所に居たくないと言うのなら、俺らはがんばってここから逃げ出すよ」
遠野さんは保の目の中を覗き込んだ。
「私は、私は」
考えると頭痛が始まった。
「まだ、決断は出来ないよ。逃げるにも満足に歩けないし」
保が脚を軽く叩いた。
「それもそうだ。まあ、俺らは正直言うと研究がしたい。だけどな、俺らは優美ちゃんが幸せでいてくれなきゃあだめなんだ。研究者として、人類の幸せのために研究をしているという誇りはあるから。保もわかっているな。何かあったら、いつでも訴えるんだ。俺らが助ける」
遠野さんの言葉に、辻本さんと慶子さんも頷いた。
「ありがとうございます」
私は皆のそんな言葉がとてもうれしかった。
「じゃ、少し休みなさい。まだ、しばらく安静にしていないと」
慶子さんは私たちの頭をそっと撫でた。私たちが頷くと、皆が出て行った。
「俺には何でもわがままを言ってくれ。俺は君の為に生きていくんだ」
保は静かになった部屋に寂しさを感じた私にそっと言った。私は「ありがとう」と声を出さずに言った。私は保の中にいる。一生、私は保を思い、保は私を思い続けるのだ。それは、なんてロマンチックなのだろう。