第6話まどろみ
恋人と眠って目覚めた朝
このまま一生
彼の胸元に抱かれながら眠っていたいとは思わなかったかしら
まどろみの中で
すがすがしい朝日が心地よくて
いっそのこと
彼の中に入って
彼の見るものすべて
彼の感じるものすべて
共に見て、感じて
そうにやって生きていけたら
この上ない幸せと思わなかったかしら‥‥‥
ふっと、私の意識は戻った。意識だけ目覚めて、まだ瞼を開くことはしなかった。朝なのか、瞼の向こうは明るい世界だと感じた。それは幸せなまどろみだった。ふかふかのやわらかい世界に包まれている。今まで経験したことのない感触。 次に私は頭に強烈な痛みを感じた。頭を押さえ叫び声を出した。自分の声と思えぬほどのとても低い声を出したのだ。誰か数人が近くにいる気配を感じた。そして私は再び意識をなくした。 2度目の目覚めはすっきりと気持ちのよいものだった。目を開けると、遠野さんと辻本さんが見守っていた。
「気分はどうだい?」
遠野さんに聞かれて、私は答えようとした。
「いいよ」
不意に、いつもより低い保の声が聞こえた。私は保も近くにいるのだと思い、保を捜す為に頭を動かそうとした。でも、動かすことはできなかった。
「捜さなくてもいいよ」
保の声が聞こえた。「でも、保が見えないのよ。どこにいるの」私は声を出そうとしてかなわないことに気がついた。
「遠野さん、辻本さん。すみません、優美と2人きりにさせてください」
保の言葉に、遠野さんと辻本さんは悲しげな表情をしながら部屋を出て行った。
「優美、君は今は話すことは出来ないんだ。だから、俺の話を一方的に聞くことになるけれど聞いてくれ」
私は声帯が傷ついたのだと思った。話せなくてもいいから、保の顔が見たいと思った。
「君はフロントガラスを突き破り車外に放り出されたんだ。その時、すでに意識を失っていた。俺は君を助けようとして、君の倒れている所へ向かったんだが、あまりにも落差のある所で、向かう途中で転倒した。そして、木の枝が俺の右の頭蓋骨を突き破った。事故を聞きつけて、総元教の人たちが助けに来てくれて、ここまで来たらしいんだ。君は瀕死の状態で時間の問題だった。そこで、そこでだ、筑恩寺博士によって、俺の右脳の損傷部分に君の右脳の一部を移植した。わかるかい? 君は今、俺の脳の一部になっているんだ」
意識がずんと下がっていく気がした。それは、私がどうになったと言うことなのだろう。
「つまり‥‥‥、優美の肉体は死んでしまった。優美の生きている部分は右脳の前頭葉と海馬の極一部だけなんだよ。君は俺の中にいるんだ」
私は、ラットAとBを思い出した。AはBの性質を記憶していた。
「君の自我と記憶を右脳の前頭葉の一部に刺激を与えて集中させたんだ。そして、博士の偉大な技術で俺の脳に移植した。君の考えで俺の身体を動かす事だってできるんだ。それに、君の考えていることは俺に自然に伝わってくる。反対に君にも俺の考えは伝わる」
私は、大きな深呼吸とともに自分の感情以外の保の悲しみと喜びが伝わってきていることに気がついた。
「つまりは君と俺は、筑恩寺博士の研究の実験材料になったんだよ。でもね、君には死しかなかった。そして、俺には何かしらの障害、恐らく左目の失明と左手足の不自由が待っていた」
保は左手を上げ眺めた。
窓からの日差しを浴びて、保の大きな手は美しく輝いて見えた。私たちは、ゆっくりと左手の親指から順に指を1本づつ折り曲げていった。わずかな頭痛を感じたが、突然、私は幸せな気分になった。2人で1つの動作を行う。それがこんなに喜ばしい事だとは思わなかった。私たちはしばらく恍惚の中に身をゆだねた。目を瞑り、神経を手の平から、ゆっくりと腕、肩、胸、股、膝、足、そして、つま先と順に巡らせた。私の指が保の体を這っているような感覚、それと同時に保の指が私の全身をくまなく探る感覚。私はここまでの幸福を感じたことはなかった。言うなれば、プラトニックセックスなのだ。肉体は既に一体となり、そして、精神までもが今一体になっている。瞼の外にまばゆい白い光を感じ、私たちは吐息を漏らした。
「幸せだわ」
私たちが漏らした言葉だった。
しばらく、私たちはその一体の感覚に身を任せていた。静かにゆっくりと時間が流れるのを感じながら。
「優美、君の身体にお別れを言いに行こう」
静かな時間の後、保が切り出した。私たちはベットから立ち上がった。右足はすぐに動いた。しかし、左足がうまく出ない。また、軽い頭痛がした。2人で神経を集中させ、なんとか左足を出すことが出来た。ゆっくりゆっくりと足を動かした。やっと部屋の出入り口のドアにたどり着き、ドアを開くと、遠野さんと辻本さんがかけよって来た。
「保、優美ちゃんはいるのか? 話したのか?」
遠野さんが私たちの目を覗き込んだ。まるで、保の目から私がいるのを探そうとしているような真剣な目つきだ。
「優美は理解してくれています大丈夫です」
保の言葉に遠野さんと辻本さんの顔から笑みが溢れた。
「おお、やったな。実験は成功なんだ。博士に知らせなければ」
「ええ、そうです。博士に知らせなければ。辻本さん、これから優美の所へ行くので、博士を連れてきてください。遠野さんは俺らが歩くのを助けてくれませんか?」
保は2人の喜びとは反対にとても冷静だった。保には実験の成功の喜びと私に無断で私を実験材料にしてしまった事への自責の念があったのだろう。私が今、どんなに幸福な気分であるかは理解しているはずなのに彼は喜びを表すことに躊躇していたのだ。私は左手の平を胸に置いた。心臓の鼓動を感じ、私は安らぎを感じた。
「やはり、身体を動かすのに不自由なのか?」
似合わない優しい口調で遠野さんが聞いた。
「俺、博士をすぐ呼んで来ますから」
辻本さんは急いで廊下を走っていった。
「二人三脚みたいなもんですよ。理論でもそうでしょう。訓練で慣れると思います」
遠野さんは私たちの左側で支えながら私たちを誘導をしてくれた。ゆっくりと歩きながら、私はやっと周りの様子を見始めた。そもそも、ここはどこなのだろう。「ここは総元教幹部の宿泊施設だよ。いい造りだろう。まあ、信者から搾り取った金で立てたのだろうけどね」保が私に伝えてくれた。ホテルの廊下のように絨毯が敷かれ、部屋のドアがいくつもあった。
エレベーターの前まで来ると、辻本さんと筑恩寺博士、深海沙也と白人男性が追いかけてきた。
筑恩寺博士がうれしそうに目を輝かせ、私たちに握手を求めた。
「よかった。成功だな。優美さんは大丈夫かね」
「はい、理解してくれたようです」
「これで、次の手術も出来ますね。私たちの要求にあなたは答えることが出来る」
白人男性が筑恩寺博士に言った。
「次って?」
もう、すでに次の脳移植手術が決まっているのだろうか。
「ああ、申し遅れました。私はロジャー・ウィロードと申します」
彼は右手を出し、私たちは握手を交わした。彼はキリストを思わせるような痩せた身体に、こけた頬、窪んだ目をしていて、ウェーブかかった髪は肩まで伸びていた。
「私があなた方のお世話をいたしますので、何かありましたら何なりとお申し付けください」
「さあ、行きましょうか」
深海沙也がウィロードと私たちの握手を割って入り、エレベーターのボタンを押した。
「覚悟は出来ているわね」
深海沙也は悲しそうに目を潤わせて、私たちを見つめた。私たちは無言で頷いた。エレベーターに乗り込むと、私は急に不安になった。私から離れた私の身体を見るというのは、どんな気持ちなのだろう。再び私は保の左手を胸に当てた。すると、保が右手をそっと重ねてきた。私の身体が安置されているという地下にエレベーターが着いて、扉が開いた。私は思わず目を瞑った。遠野さんに促されて歩き出すと同時に目を開いた。
まず、部屋の中央で煌々と青く光る蛍光灯が視界に飛び込んできた。その下に大きなテーブルがあり、壁側には書棚が並んでいた。そして、奥に扉があった。その奥にも部屋があるのだ。遠野さんと辻本さんが先に奥の部屋へ入った。
「君の身体は冷蔵してある。それを出してもらうから、少し待っていてくれ」
博士も入り、残った一同は無言で待った。
「どうぞ、入って」
2〜3分後、扉を開けて遠野さんが手招きをした。
開いた扉から、中央の台の上に布を被せた物体が見えた。
「私だわ」
保の心臓の鼓動が速くなっていくのがわかった。私がそうさせているのだろう。私は気が遠くなり、歩き出した保の左足を止めてしまった。思わぬところで止まったため、上体とのバランスを失い転んだ。一同が私たちを見下ろした。
「やはり、2つの意識が1つの身体にあるというのは‥‥‥」
ウィロードが顔を顰めた。
「ロジャー、訓練が必要なことは博士から聞いているはずよ」
深海沙也が不機嫌そうな表情で言った。彼女は初めて会ったパーティーや大学の研究室の時の、引きつった笑顔はまるで見せなかった。
「それはわかっていますが、私は慎重に事を運びたいだけです」
「まあ、しばらく観察が必要なのは確かです。それより、優美ちゃんは早く自分の身体が見たいでしょう」
遠野さんが促し、私たちは彼の助けで何とか起き上がり部屋に入った。
「優美、大丈夫か?」
保が声に出して言った。「大丈夫」私は声を出さずに答えた。辻本さんが被せてある布を取ってくれた。
青い顔の女性がそこにはいた。
私には自分だと言う判断が出来なかった。頭には包帯が巻かれ、顔には化粧がしてあった。私が描くよりも美しく口紅が塗られていた。
「慶子さんがしてくれたのよ」
深海沙也が優しい口調で言った。「ああ、慶子さんはどうしたのだろう」とぼんやりと思いながら、目の前の身体の顔から、首、胴体、脚と、ゆっくりと目線を移動させた。私が着ていたのではない花柄のワンピースが着せられていた。手足には擦り傷の痕が数箇所あった。私たちは、そっと指の先を触ってみた。ひやりとした感覚。
動かなかった。
ゆっくりみても、私には自分の身体だと言う判断が出来なった。「間違いなく君の身体だよ。君の美しい肉体だ」保が私を諭した。「私は死んだのね」私は脳が萎縮し顔が歪んでしまうほどの叫び声をあげようとしたが、それを保の身体は拒んだ。代わりに、一筋の涙を流してくれた。
「優美ちゃんは大丈夫か?」
遠野さんは聞いてくれた。保はわずかに目線を動かして、歯を食いしばりながら頷いた。そして、右手を胸に当てた。しばらくの間、皆が無言だった。
私たちはひざまずき、冷たい私の右手を両手で握り、目を瞑った。
さようなら、私。
私の身体に再び布が掛けられ、明日、火葬をすると言われた。
一同は無言のままエレベーターに再び乗り込み、私たちの寝ていた部屋に戻った。部屋の前で、深海沙也とウィロードとは別れた。