第5話失踪
深海沙也は左腕に火傷を負った。痕はほとんど残らないだろうと、医者は言っていたそうだ。薬品のビンは薬品棚にきちんと収められていた。それを彼女が取り出して見ていたのだが、よろけてしまい、いくつかのビンを割ってしまったのだ。マスコミに話が回り、なぜか報道で深海沙也の恋人が筑恩寺博士になっていた。皆がいたことは触れられず、まるで2人だけで実験室に籠もり、逢い引きをしていたような内容の報道が流されていた。そして、数日後、事故を起こした研究室は閉鎖されてしまった。
あっという間の出来事であった。
保に聞くところによると、もともと筑恩寺博士の研究は倫理の面で問題ありとされていて、大学側は予算の出し渋りをしていたようだ。そこにきてスキャンダルな事故が起こってしまい、大学側がいいタイミングとばかりに閉鎖を決めてしまったそうだ。脳外科として成功を収めた博士だが、脳研究の方では煙たがれる存在だったのだそうだ。保は学生だったのでそのまま大学に残れたが、他のメンバーは居場所をなくしてしまった。
研究室が閉鎖になって3日後、博士の消息がわからなくなった。博士はこれまでの研究を論文にして、資金を出してくれる大学か研究所を探すと言い、自宅のマンションに籠っていた。ところが、慶子さんが訪ねたところ博士がいなくなっていた。『研究の援助のめどがついた』との走り書きが1枚残されていただけだと言う。慶子さんは、博士は何かの事件に巻き込まれたのではないかと心配して行方を捜した。私たちも思いつく限りを捜したが、博士は見つからなかった。
慶子さんは次第に鬱になっていった。予定のある仕事を忘れ、夜中に裸足で歩き回る姿が目撃された。そんな状態が心配で私は慶子さんを時々、見舞いに行った。慶子さんの部屋は足の踏み場もないほど、ゴミや脱いだままの服が散乱していた。私は見舞いの度に少しずつ片付けをした。慶子さんは昼間眠っていて、ふと起きると涙を流す。
「保君をしっかり捕まえているのよ」
慶子さんは泣きながら、いつも私に言うのだった。
腕に火傷の跡がまだ消えていない深海沙也は、順調に仕事をこなしていると聞いていた。しかし、博士が消えてから2週間後にある週刊誌にこんな記事が載った。
『深海沙也、総元教の教祖の後継ぎに!』
そして、その後テレビのワイドショーで深海沙也の記者会見が報道された。テレビに映った彼女はいつものように美しい笑顔を作っていた。
「私は2年前から総元様の元にお話を聞きに行っています。そして、現在は総元様の後継者の修行をしています」
彼女の笑顔に多くのフラッシュが焚かれていた。
総元教は人間至上主義の宗教で神はいないのを前提とし、神は人間の逃げ道である。神を崇め祭るのではなく、倉本総元教祖を崇め、教祖の教えによって幸福がもたらされると言う主義を持っている団体だとテレビは説明した。マスコミは総元教が彼女を洗脳した。人気のある彼女を後継者にすれば信者が集まると言う考えだと報道していた。
記者会見をテレビで見た後、私は慶子さんが心配で彼女のマンションに向かった。
私が部屋に入ると慶子さんはその記者会見のVTRを見入っていた。
「優美ちゃん、ねえ、もしかしたら、筑恩寺は沙也の宗教団体にさらわれたのかもしれないわねえ。だっておかしくない? 沙也はわざと問題を起こすために大学に行ったのよ。火傷して筑恩寺を追い詰めて失意にさせて、その隙にさらったのよ」
「慶子さん、なぜ、博士をさらう必要があるんですか? 研究でもさせようと‥‥‥」
慶子さんは目を見開き、私の手を握った。
「そうよ。きっと、何かを研究させるために筑恩寺をさらったのよ」
慶子さんは玄関に走った。私はこの危なげな慶子さんを外に出す訳には行かないと思った。
「慶子さん、どこに行く気ですか?」
「沙也の所よ。沙也に会って話をするわ。そして、筑恩寺の居場所を聞くの」
「慶子さん、まずシャワーを浴びましょ。いつもの綺麗な慶子さんになってくれなければ、外には出しません」
慶子さんは玄関の大きな姿見を見つめた。そして、こくりと頷いた。慶子さんがシャワーを浴びている間に、私は保に電話した。
保は慶子さんが綺麗になってくれる時間までにサニーで到着した。
まず、慶子さんが向かったのは慶子さんの事務所だった。社長に話を聞くと、深海沙也が契約していたCMの仕事は、宗教系列の会社と思われるのを恐れ、すべて解約を求めて来たと言う。その他、テレビや雑誌の仕事もすべて一時、休業になったと言う事だった。社長は否定をするための記者会見をしたはずが、沙也が勝手に後継者になる話をしてしまい大損害だと怒りを露わにしていた。沙也は記者会見が終わると、どこかに行ってしまって、今は連絡も出来ないと言う。慶子さんは総元教の本拠地があると言われる神粂山に行きましょうと言った。
保は遠野さんと辻本さんに連絡を取り、途中で2人を乗せ、5人でサニーで向かうことになった。
「ねえ、これ止まるわよ」
ブルブルと震える車体に慶子さんは揺られながら言った。
「大丈夫、メンテナンスはちゃんとしてあります」
保は前のめりでハンドルにしがみ付いていた。私は車は大丈夫でも保の運転に多少の不安があった。
「お前の運転が止まりそうな不安にさせるんだよ」
遠野さんが助手席で保の運転を横目で睨みながら言った。
「そんな事言ったって、山道を走るのはほとんど初めてなんですから」
サニーがカーブを曲がる度にキュルキュルとハンドルが鳴った。私はまた、後部座席の真ん中。5人も乗せて重いサニーは、ブウォンブウォンと頑張っているぞと言う音を立てながら、のろのろと神粂山のカーブを登った。
都心から2時間のドライブをしていた。
「なあ、俺たちが行って果たして2人に会えると思うか?」
遠野さんが言った。慶子さん以外の誰もが考えていた事だ。
「会えなくても、何かわかることはあると思いますよ」
辻本さんが優しく言った。
「大丈夫、筑恩寺はいるわよ。絶対」
私の隣で慶子さんが手を合わせて祈っていた。
私と保は何も言わなかった。私は慶子さんの願いが届けば良いと思っていた。大丈夫。きっと博士はいると。
突然、前方にトラックが現れた。
「危ない!」
キキッー!
急ブレーキの音がして、左に車が反転した。眼下に都心の高層ビルたちが小さく見えた。随分高い所まで来たのだ。そして、次の瞬間、ガクンと車体の前方が下がり、目の前に生い茂る樹木が広がった。そして、私は座席から離れ
フロントガラスにぶつかった。