第4話女優
慶子さんに招待されたパーティの当日、私は保の買ったばかりの車に乗せてもらった。何と17年前の白いサニーだ。博士は別で向かい、他の研究室のメンバー、遠野さん、辻本さん、久納さんが一緒に行くということで、車内はパンパンだった。大学のある世田谷から会場の葉山までの道程はなかなかのドライブコースだ。私は窮屈ながらうれしかった。
「保、お前、こんな車はいつ止まるかわからないぞ。優美ちゃんとのデート用に買ったのか?」
遠野さんは筋肉質で横幅があるので、助手席に悠々と座って煙草を吸いながら言った。私は、私よりも座高が低いのではと思われる久納さんと、車の天井に頭の着いた辻本さんの間に挟まれて小さくなっていた。
「車でデート出来るなんていいよなあ。俺のかみさんとは、いつも電車で移動ばかりだったよ。そうだなあ、今度レンタカーでも借りてかみさんと出かけてみようかなあ」
久納さんが景色を眺めながらぼんやりと言った。海岸線を走っているので、窓から潮風が入って気持ちがいい。
「このボロ車借りればいいじゃないですか。なあ、保」
遠野さんは保の肩をポンポンと叩いた。
「やめたほうがいいですよ。本当にいつ止まるかわからないですよ」
辻本さんが柔らかい口調で言うと、保が一瞬振り向いた。
「辻本さんに言われると、きついですよねえ。本当にボロ車に思えてくる」
「保、俺が言っているだろうが。ボロ車って」
遠野さんが保の頭を軽く叩きながら言ったとたん、エンジンがボワンボワンと騒ぎ出した。皆、少し怯え、シーンとなった。エンジンの音が通常に戻ると、皆がふうっと息を吐いた。
パーティ会場は海の見える白い建物のレストランだった。事務所の社長の方針で、1年に1度、プライベートな仲間や家族を呼んでパーティを開くのだそうだ。会場には100人ぐらいが集まっていて、私が思っていたのよりも盛大だったので気後れしてしまった。慶子さんは筑恩寺博士を連れて挨拶に回っていた。
「結婚する気かなあ。あの2人」
久納さんがキャビアの載ったカナッペをほおばりながら言った。
「そうだろ。あそこまで大っぴらに2人でいるんだぜ」
遠野さんは赤い顔でグラスのビールを飲み干した。
「どうします。博士は脳のこと以外、考えられる人じゃないですよ。慶子さんは苦労しますよ」
辻本さんが心配そうに言うと、皆で辻本さんを見た。
「お前なあ、失礼だぞ。博士だって男だ。女性の1人や2人、支えられるだろう」
遠野さんがそうに言うと、皆は納得出来ないと言う風に首を捻った。
「保を見てみろ。こんな脳みそ馬鹿でも、優美ちゃんを大切にしているよな?」
遠野さんが私の顔を覗き込みながら聞いてきた。私は赤面し、俯いた顔を縦に小さく振った。
「そらそら! 保、いいぞ!」
遠野さんが保の肩を叩いた。
突然、会場の人々が騒ぎ出した。皆がどこを見ているのか目で追うと、入り口の辺りに立った女性に皆の目線が集まっていた。ふわふわの縦巻きロールの栗毛色の髪に大きな瞳、ふわりと整った唇。まるで人形のような女性。
「深海沙也だよ。実物はテレビで見るより、さらに綺麗だなあ」
遠野さんはじっとしていられないと言う風に、辻本さんの肩をバンバンと叩き飛び上がった。好感度で1、2を争う、超売れっ子の深海沙也がそこにいた。
「いやあ、慶子さんと同じ事務所だったのねえ」
私は思わず保の左腕に抱き付き、少し後ろへ下がった。深海沙也は綺麗過ぎて、眩しかったのだ。保はそっと右手で私の手を握った。保の顔を見ると、俺は君にしか興味はないよと言う風な落ち着いた吸い込まれそうな視線を私に送ってくれた。私はその視線に誘導されて保の腕から離れ、保の横に立った。何か、底知れぬ安堵と高揚が私にはあった。私は彼の横に立っているだけで誰よりも幸せなのだ。今までにない自信が私の中に沸いてきていた。
「沙也、遅かったじゃないの。紹介するわ。こちら筑恩寺隼人博士よ」
慶子さんが筑恩寺博士を深海沙也に紹介した。慶子さんの幸せそうな笑顔も、深海沙也に劣らず輝いていた。
深海沙也はにっこりと笑顔を見せた。私はその時、彼女は表情を作っているように思えた。
「お噂は慶子さんから聞いていたのです。初めまして、深海沙也と申します」
深海沙也は博士に握手を求めた。
「いいなあ。俺も紹介されてこよう」
遠野さんがいそいそと深海沙也に近づいて行った。
「ほら、優美ちゃんも行こう。保も」
久納さんが私たちの背中を押すので、私たちも深海沙也の前に立つことが出来た。
慶子さんが私たちを紹介してくれた。深海沙也はやはり笑顔で皆に会釈した。私は近くで見る彼女の表情はさらに偽りだと感じた。
「やっぱ、近くで見ても綺麗だよなあ。天使の微笑みだろう」
遠野さんの目はもう蕩けていた。皆は彼女の表情に気が付いていないようだった。
「天使は言い過ぎでしょ。彼女、もう28ですよ」
辻本さんが小声で言った。男の人はひどい言い方をするものだ。
「慶子さん、私もぜひ今度、皆さんの研究をされているところを見学したいわ」
深海沙也が慶子さんに甘えるように言うと、慶子さんは博士に聞いた。
「構わないわよね?」
「ああ、でも、むさ苦しい所ですよ」
「でも、興味あるんです。慶子さんの話を聞いてると、研究室に行くのが楽しみでしょうがないなんて言うのですもの」
私は深海沙也がとても怖いと思った。なんだか、つまらないのに無理やり笑うような歪んだ笑顔が、私を不安にさせた。
慶子さんと深海沙也が研究室に現れたのは、パーティの2日後だった。2人は帽子を深々と被り、サングラスを掛けていたにもかかわらず、校門から研究室までの道程で付いてきた学生はざっと50人。2人からは、それはもう顔が見えなくても、なぜかオーラが溢れ出していて、思わず2人の後を追いたくなるようだ。
「だから言ったでしょ。休み時間だからまずいって」
研究室のドアをなんとか閉めて慶子さんがサングラスを外しながら言った。
「だって、撮影の時間が迫っているのですもの。ここには来てみたかったし」
深海沙也は潤いたっぷりの唇を尖がらせて慶子さんに言った。外の廊下ではガヤガヤと学生が騒いでいた。私は朝から研究室で保が易しい本だよと言う脳の本を読んでいた。
「いらっしゃいませ」
思っていたより平然と私は挨拶した。こんな美女2人と私だけの空間は想像もしなかったことだ。
「ああん、優美ちゃん。こんにちは」
慶子さんが素直な笑顔で言った。私は慶子さんの明るい笑顔が好きだった。
「博士はどこかしら」
深海沙也はキョロキョロとしながら室内を見渡した。彼女は薄暗く少し取り散らかした研究室に嫌悪したかのようにわずかに顔を顰めた。
「実験室です」
私は彼女の表情に気が付かぬ振りをして答えた。
「こちらね」
深海沙也はそうに言うと勢いよく実験室の扉を開けた。
「こんにちは。見学してもいいですか」
私は基本的には実験中の部屋には入らないようにしていた。皆の気を散らしたくはなかったから。慶子さんもその思いは一緒で、1度、実験室に入り、皆に挨拶するとすぐに出て来た。
「あ〜あ、いつもなるべく学生に会わない時間帯に来ていたのに、今日は失敗したわ。沙也は目立つわね」
慶子さんは椅子に座り私に笑顔をくれた。
「沙也さんと言うより、女優さんが2人も揃うと目立ちますよ。さっき入ってきた時はオーラが出ていましたよ」
私は慶子さんの優しい笑顔がやはり好きだと思いながら笑顔になった。
「きゃー」
突然、深海沙也の叫び声が聞こえた。私達は急いで実験室に駆け寄った。同時に廊下の学生達がなだれ込んで来た。
実験室の隅に深海沙也が座り込んでいた。筑恩寺博士と遠野さんが深海沙也の腕を何か布で押さえていた。
「救急車を呼んでくれ」
筑恩寺博士が叫び、保が受話器を手にしていた。
「すみません。救急車をお願いします。薬品で火傷しました。何、何かって。おそらく硫酸だと思います。いくつかの薬品のビンが割れて特定出来ないんです」
慶子さんが私の手を握った。痛いほどの力で。私は恐ろしさから身震いした。私達の背後の学生達の気配を感じながら、何か恐ろしいことになる気がしていた。