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脳片鱗幻影  作者: 多加也 草子
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第2話恋

 保と初めて話をした日から、私は保のことを常に思い続け、『セゾン』にいつ彼が来るかそわそわしながら働いていた。

 保はいつもと変わらずに分厚い本を片手にコーヒーを飲みに来る。コーヒーを私が出しに行くと、本を読む目を少しあげて会釈をしてくれるようになった。マスターはその様子を見て驚いていた。保が通い始めてからこの2年、保はそんなことをしたことはなかったと言う。私はうれしかった。

 保がいつも座る席に窓から西日が差すと、カウンターのコーヒーを入れるサイホンの位置に私は立つ。保の顔に光があたり、まるで彼の皮膚が光を放っているように見える。これが何よりも美しく見え、私の楽しみだった。私たちは会釈はするものの、会話をすることはなかった。


 ある日、マスターは孤児院で育ち親戚のいない私の身の上を常連のお客に話していた。「彼氏もいないから誰か紹介してあげてくれ」なんて話を大声で言うので、私は恥ずかしくて赤面しながら保のお冷を注ぎに言った。

「き、傷は治ったの?」

 突然、保は視線を本に向けたまま聞いてきた。私は顔がさらに赤くなりながら言った。

「はい、治りました。お、おかげさまで」

 私の持っていた水差しが震えてガラガラと音を立てた。私たちの会話はそんなもので終わった。何か話そうにも緊張して話せなかった。私は保のテーブルから離れると小さなため息をついた。どうしたら、保ともう少し話せるようになるのだろう。 

 しばらくすると、保が会計をして出て行った。私はなぜか泣き出しそうになってしまった。好きなんです。そうに言えたらいいのに。そんなこと私には到底言えない。こんな気持ちをマスターやお客さんに気がつかれないようにしなければと、必死で平静を保とうとした。

 ふっと、保の座っていた席を見ると、そのテーブルには本が置いてあった。

「マスター、また、本を忘れたみたいなので届けてきます」

 多分、その私の顔は満面の笑みだったろう。私は本を抱えて、『セゾン』を飛び出した。すぐに見える校門には、すでに彼の姿はなかった。私はドキドキしながら走った。そして、私が校門をくぐった瞬間、彼が目の前に現れた。

「あ、あの、本を忘れてましたよ」

 私が俯いて言うと彼は笑顔で言った。

「ありがとう」

 そして、しばらく沈黙した。

「あ、あのう、今度お昼でも食べに行きませんか?」

 保が切り出した。

「あ、行きたいです」

 私は緊張しながら、震える声で言った。

 

 3日後、私たちは『セゾン』のすぐ近くの神社で待ち合わせをした。私は白地に赤い小花の柄のワンピースを着て行った。私の一張羅だ。私が時間の5分前に鳥居をくぐると、保はいつも『セゾン』に来る時と同じ、ジーンズにトレーナー姿であった。大きな楠をじっと見上げていて、私が近づくのに気が付いていなかった。

「あのう」

 私は保に触れられる場所まで近づいてから声をかけた。保はビクンと肩を上げて振り向き、黙ってお辞儀をして、はにかんだ笑顔で私を見つめた。

 どこに行くかも決めていなかった私たちは、ぶらぶらと歩きレストランを探した。最初に目に付いたファミリーレストランで食事をすることにした。私は男の人と2人きりで食事をするのが初めてだったので、注文したパスタをフォークに巻くのにも手が震えてうまく出来ない。でも、普通に振舞おうと緊張で引きつった笑顔を保に向けると、保も震える手で一生懸命パスタと悪戦苦闘していた。私は少し緊張が緩み、自然な笑顔が出来た。そんな笑顔で見ているのを保は気がつき、手元がおぼつかない事に照れながら笑顔を返してくれた。そして、また一生懸命にフォークを動かした。食事が終わると、話もほとんどせずに別れた。「こんなんじゃだめじゃない」と帰ったアパートで反省していたら、保から電話があった。今度、映画でも行こうと。

 一週間後、映画を観に行った。

 人の心の中に入り込み閉ざされた心を治療する人が、殺人鬼の心に入り込み、殺人鬼が誘拐した女性の居場所を突き止めると言う話だった。冒頭の少年の心の中の景色。真っ青な空と黄色い砂丘、そして、真っ白な衣装をひらめかせる女性。そのシーンが美しく、自分の心の中にもこんな景色があればと思うほどであった。

 映画の後、カフェに入り、2人でコーヒーを飲んだ。『セゾン』の方がおいしいねと小声で囁き、それから映画の話で盛り上がった。やはり、保も砂丘のシーンを気に入っていた。それを聞いただけで、私はうれしくて興奮してしまった。話が自然に出来るようになってくると、保は私が今までどう過ごしてきたかを一生懸命に聞き出そうと、真剣な眼差しで質問をしてきた。

 私の今までの人生なんて取るに足らないものだった。私は孤児になったその日から、他人のお金で生かされているという罪悪感があった。だから夢や希望、趣味や好きな物嫌いな物は持たず、目立たずに生きてきた。孤児院の仲間に夢を語る子もいたが、私はそんな子を蔑んでいた。今、やっと自活を始めて罪悪感から解放され、夢も希望ももっていいと思うようになったが、いざ、そうなると夢なんて思いつかなかった。今は夢は持っておけば良かったと蔑んだ仲間を羨ましいと思っているぐらいだ。

 だから、私は自分の事をとても簡単にしか語れなかった。けれども、保の真剣な耳の傾けに、私は一生懸命に答えた。保が私に興味があると思うとうれしかった。私は話しに疲れると保に質問を浴びせた。保は静かに話し始めたが、いつしか熱心に保が手伝っている脳の研究の話をしていた。

 保は小さい頃は昆虫やカエルを捕まえるのが大好きだったので、それが生物学を選んだ理由のひとつにもなっているということ。そして、大学で筑恩寺博士に出会ったこと。筑恩寺博士はもともと脳外科の有名な先生だったけれど、研究にのめり込むあまりに医師をやめ研究者として保の大学の教授になったこと。ラットでの実験の話やサルの脳の解剖の話。私は保の話が面白くて、保の顔をじっと見つめながら真剣に聞いた。そんな私を保は直視することが出来ずに、テーブルに置いてあるカップや私の手を見ながら話をした。そして、たまに私が驚嘆の声をあげると、うれしそうに笑顔になった。私たちはとてもいい感じだと思っていた。なんて素敵なことなのでしょう。


 しかし、2回目のデートの後、保はしばらく連絡もくれなかったし、『セゾン』にも顔を出さなかった。私から電話をすればいいのにそれが出来ない。私はそういう人との繋がりを今までしてこなかったので、自分から行動を起こすことが出来ないのだ。私は不安だった。彼はもう私に会ってはくれないのだろう。そうだ、私が人生で初めて好きになった人は、もう、私に興味がなくなったのだ。なんと言う焦燥感だろう。私なんて可愛くもないし胸も小さい。話上手ではないし頭もよくない。そうだ、私はもうデートに時間を費やす価値などない女だ。そうなのだ。

 私は無気力になった。それでも仕事は一生懸命やった。価値のない女でもどこかで役に立ちたかった。そして、常に保の事を思っていた。保のいつも座る席をカウンター越しに眺め、きりきりと胃が痛むのに耐えながら、私は日々を過ごした。保に会いたい。保に会いたい。

 ほとんど鳴らない私の電話が鳴ったのは、2回目のデートから3週間後だった。

 3回目のデートの保は少し変わった気がした。忙しかったと言い、やつれた笑顔を私にくれた。私たちは公園を歩いた。私は空の青さを眺め、心を落ち着かせると、この前のようにとてもいい感じの会話が出来るように一生懸命に会話を弾ませた。ふと、保の手が私の手に触れた。私はうれしさと恥ずかしさに俯いた。よかった。私は誰からも興味を持たれない人間でない事に安堵した。

 別れ際、私たちはお互いが好きだという告白をした。そして、お付き合いをしていこうという話になった。


 お互い、恋人を持つのは初めてだった。私はいつも彼の事を考えていた。いや、彼の事しか考えられなくなった。彼の方はどうも研究の方が最優先だった。それでも、彼はほぼ毎日『セゾン』に来てくれた。マスターには私たちが付き合っていることは内緒にしていたので、私は彼にコーヒーを出すだけで何を話すわけでもなかった。それでも、彼と一緒の空間にいられるだけで幸せだった。コーヒーを飲み、しばらく本を読むと、彼はまた研究室に籠もった。私は少し寂しさを味わいながら、それを見送った。

 時々のデートが私の至福の時だった。そのほとんどは彼の研究の話にやはりなるのだが。

「脳の中に感情や人格があるのだから、それがどういう仕組みで形成されているか、それは人体の中で一番興味深いところだろう? 脳研究で皆が何よりも求めているものは、自我や心がどのように存在しているかだ。博士はそれに対しての理論を打ち出していて、自我や心を外科的処置によって確実に調整できないかを研究しているんだ」

 私は自我や心の調整なんてとても怖いことだと思った。

「しかし、精神科の仕事をカウンセリングや投薬なんてものでなくて、脳外科が出来れば、それこそ確実なものだと思わないかい? 自殺願望や鬱病、そらに人を傷つける恐れのある人の思考を手術で治すんだ。筑恩寺博士はその方面の研究の必要性を感じて、脳外科医から転身したんだ。腕の良い脳外科医はどんどん出てくるが、研究を進めている人間はそうはいないからね。2年前、博士は脳移植の可能性を発表したんだ。脳移植は倫理面やら技術面やら色々な問題があるけど、博士は自分の脳外科の技術なら成功できると確信しているんだ。しかし、まだ脳の部位に関して解明されていない部分が多くて、それを解明していくことが、我々の今の目標なんだよ。移植のためにはどこに移植すれば問題が解決するかを完全に理解しなければいけないから」

 それは、すごいことかもしれない。そのうち、自分が不幸だと思っている人に不幸を感じさせないように手術をしたりしたら世の中の皆が幸せになれる。そうだ。すばらしい。私は保の話をいつも真剣に聞いた。


 ある時、デートから帰る途中で強い雨になり夜の公園で雨宿りをした。雨は嫌いじゃないなんてお互いに言って、空から落ちて来る雨を眺めた。静けさの中に、単調な雨の音が心地よかった。

 ふと、下を見ると、一匹のカエルが雨宿りにやって来た。保が捕まえて手のひらに載せ、優しくなでた。私も保に近づきカエルをつついた。

「だめだよ、優しく触ってあげなきゃあ」

 保は私の手を取り、カエルにそっと近づけた。私の手がカエルに触れると保は私の手をゆっくり動かした。

「なんだかヌルヌルしているわ。でも、かわいい」

 私が笑って保を見ると、保の顔は間近にあり、お互いの唇も間近にあった。保が小さな吐息をしたので、私もつられて息を漏らした。小さな沈黙があり、少しずつ互いの唇が近づき合うのが何よりも自然に思えた。


 いつ、カエルが保の手から逃げたのかは覚えていない。


 私は高揚していた。私の唇は保の唇から離れることを忘れた。私の両手のひらは、保の背中からの温もりを求め始め、それを、もっともっとと欲し続けた。保の腕が私の背中に食い込み、私の膝はいつしか力が抜けてガクンと崩れ、保が慌てて私を支えた。そして、2人で東屋を出た。

 しっとりと無言の雨が身体を湿らせた。私たちはひたすら歩き、保のアパートにたどり着いた。保はおぼつかない動作で鍵を開けると、さっとドアを開けた。私は初めての部屋に戸惑いながら一歩中に入ると、保もさっと入り込み、ドアは閉められた。次の瞬間、2人は玄関に倒れこんだ。そして、濡れた服のまま愛撫した。キスを続け互いの手は相手の身体を探り続けた。そして、保の手が私のブラウスの隙間を縫って胸に触れた。

 次の瞬間、私は我に返り、恥ずかしさに身を硬直させた。

「帰ります」

 顔が火照り、俯いたまま私はドアを開けた。恥ずかしさで保の顔を見ることも出来なかった。

「そのままじゃ、風邪ひくよ。傘を持っていって」

 保の声に私は笑顔で首を横に振った。けれど、彼は後ろから私に傘を差してくれた。2人は無言で歩いた。私のアパートに着くと、私は俯いたままペコリと頭を下げた。すると、保も頭を下げた。

「ごめん」

 私は、保がなぜ謝ったのか理解できないまま首を横に振り、アパートの階段を駆け上がった。そして、やっと声を発した。

「またね」

 部屋に入ると私はへなへなとしゃがみこみ、震える両手のひらを見つめた。私は今まで人の身体の温もりというものを知らなかった。誰にも抱かれたことはなかったから。両親に抱かれたことも覚えていなかった。人というものはあんなに温かいものなのだと、初めて知った。そして、何かが身体の中で疼く感覚を初めて知った。

 次に彼に会った時、私は彼のアパートに招かれた。そして、今度はゆっくりと玄関で愛撫し、私は彼に抱き上げられ、彼のベットにたどり着いた。彼の胸に抱かれてすぐに身体が蕩ける感覚を覚えた。私の肢体は彼に絡み付き、私は彼と1つになっていく。私の耳に保の熱い吐息がかかった。私は胸に炎を感じた。燃えて、意識が遠のきそうになった。


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