第12話ブラッディメアリー
「隣に座ってもいいですか?」
私は笑顔を向けた。
暗いバーのカウンターに1人でいる男に私は声を掛けた。
「どうぞ」
たいていの男は、少し驚き、うれしそうな顔をした。私は隣に座ってからは、男が話しかけるまで男を決して見なかった。
「ブラッディメアリーをくださいな」
バーテンに甘えるように私は言った。なぜか、あの日以来、ブラッディメアリーが私を支配していた。血色の悪魔の飲み物だ。私は出されたメアリーのグラスをうれしそうに眺めながら、くるくると回してみた。
「君も1人なの」
男は声を掛けてくるものだ。
「ええ、そうよ」
そこで初めて男の目を見つめた。
その時点までに深海沙也と気が付かない男かどうかで私は今夜の相手を見つけた。
「深海沙也に似ているね」
「よく言われるわ。声も似ているのよ」
そこで曖昧に出来る時もあった。不審がっていても名前を聞かれても、私は決して言わなかった。
あの日以来、私は男をリードするようになった。男に支配されるなんて真っ平なのだ。
話や感覚が合えば、ホテルに向かう。そこで、語り合ったり、抱き合ったり、それは、その時々であった。その生活が私のリズムになった。週に1度か2度、知らない男を知る。心地よい、充実した感覚。
そして、ある日、ロジャー・ウィロードと出会った。15年前、イギリスから来た彼は、私が隣に座り、バーテンにブラッティメアリーを頼むのを聞いて、流暢な日本語でこう言った。
「血が好きなの?」
私は震撼した! 哀れな男を思い出した。レイプされた、あの感覚が蘇った。出されたメアリーが、突然、恐ろしいものに感じられた。
「血は好きよ」
引きつった顔で私は言った。
「そう言うと思ったよ。君は薄幸に見えるから」
なんて男!
私が蔑んだ男の分身がここにいるのだ!
ウィロードは私の好みの体系だった。細く、骨張ったギスギスとした身体。
私はこの男をリード出来るだろうか?
神は恐ろしさを克服するために、この男を私に与えたのかもしれない。
私はブラッディメアリーを3杯。彼はスコッチを3杯飲んだ。彼は人間の幸福感について語った。
「何が人を幸福にさせるのか? それは、やはり欲望が満たされた時なのだ。では、欲望とは何か? 欲望とは、人が生存し続ける為のただの脳の働きである。つまり、自分が生きることが幸福なのだ。生きる為に食欲が湧き、子孫を残すために性欲が湧く。それが自然の摂理で、多くの人が求めるものだ。しかし、君は幸福を取り違えている。まあ、日本人皆に言える事だが、プライドを持つことが幸福のように思っている。違うかい?」
ウィロードの問いに私は考えた。私は人より優れている。そう思いたい気持ちがあるのは確かだ。プライドは高い方だと思う。食欲や性欲、それを我慢することは出来る。プライドの為なら。私にとって、今、食とはプロポーションを保つためのものであり、性とは男に負けまいと言うプライドから来ているのだ。
「生物とは、本来、生きていく事が目標なのだ。そして、子孫を残していくこと。それから外れることが、おかしな方向性へ進む原因さ。プライドなんて捨てればいい。まあ、今の人間社会は経済力がなければ生きていけない。だから、仕事をする。自分の得意分野で仕事をすれば経済力は強くなる。だから、得意分野で人は働く。そんなふうに素直に生きていけばいいだけなのだ」
ウィロードの話に私は頷いた。そうだ。生きると言う単純な人生の目的が、もっとも大切な事だ。そして、生きる為、経済力を持つ為に、得意な仕事をする。
「なんかいいな」
私は満面の笑みを浮かべた。だって、とても救われたから。プライドなんて捨ててしまえ。そうよ、うまく生きて行く事が大切。皆に褒められれば、それは、それでいいのよ。仕事が出来る事、財力が持てること。何が不満なのだろう。そして、子孫を残す為の欲望も、私は満たす事が出来るのだ。
「他で飲みましょう」
私はウィロードの耳元で囁いた。
私たちは、すぐ近くのホテルにチェックインした。部屋に入るなり、私はウィロードの首に腕を回し、キスをせがんだ。彼は軽く唇を重ねた。彼は私にシャワーを勧めた。ルームサービスでシャンパンを頼んでおくからと言われ、私はシャワーを浴びにバスルームに入った。
バスルームから出ると、シャンパンとチーズとチョコレートが用意されていた。彼もシャワーを浴びにバスルームに消えると私はベッドに寝転んだ。彼がバスローブ姿でバスルームから出て来て、ベッドに腰を掛けた。私は彼の首に再び腕を回した。彼は私をそのまま抱きかかえ、テレビの前のソファに座らせた。そして、彼は私の前に跪き、右手にキスをした。そのまま、キスは私の腕を這い、肩、首へと移った。
しばらくの愛撫の後、シャンパンを開けて乾杯した。そして、再び、彼が愛撫を始めた。
「ベッドに行きましょ」
私は囁くと、彼は首を横に振った。
「このままがいい」
そして、私たちはソファに座ったまま、抱き合った。
「お1人ですか?」
ウィロードとの夜から3日経っていた。素性も連絡先も知らない1夜だけの男のはずのウィロードが、バーで話しかけてきた。
「あら、偶然ね」
私は笑顔になった。
「隣に座っても?」
「もちろんよ」
私はうれしかった。ウィロードとは1夜限りとは思えなかったのだ。彼はスコッチを飲み、私は白ワインを飲んだ。
「あなたの幸福論のおかげで、私は少し幸福になった気がするの。仕事も楽しくやっているわ」
私は彼に礼を言うつもりでいた。
「それはよかった。もしよかったら、今度私のボスに会いませんか?」
「ボス?」
「ええ、この前お話したことは、私のボスが教えてくれたことなのです」
「ウィロードさんは、どんなお仕事をしていらっしゃるの?」
それは危険な問いであった。1夜限りとして知り合った男には、聞いてはいけないのだ。
「医療機器の開発、販売をしている会社で働いています。『SOGEN』って知っていますか?」
「いいえ、知らないわ」
「まあ、医療業界では名を馳せているのですが。最近は健康食品の開発もやっているのですよ。そこの会長が私のボスです」
「なぜ、私に?」
「ボスに会えば、あなたはもっと楽になるでしょう」
白ワインとスコッチが出てくると、私たちは静かに乾杯した。その時の私は優しい笑顔だったと思う。
ウィロードのボス、倉本総元に会ったのは3週間後であった。ウィロードはすぐにでも会わせようとしていたのだが、私の仕事が忙しくて、なかなか会えなかったのだ。
料亭での会食だった。こんな改まった席でとは思わず、私は恐縮した。もっと気軽なものだと思っていたのだ。
ウィロードは現れず、総元が1人で現れた。総元もまた、ウィロードのように紳士的な男だった。酒を注がれたが断り、私が総元に勧めた。総元は1口飲み、お猪口を置いた。
「テレビでいつも拝見しています。あなたはすばらしい才能の持ち主だ」
総元の言葉に、私は危険を感じた。私を知っているのだ。ウィロードは知らない様子だったのに。
「才能なんて何も。お仕事が出来るのは運がいいだけのようなものです」
「いいや、あなたは人に好かれる才能をお持ちだ。そして、人前に出る度胸もある。女性は色のある人は男性に好かれ、強い人は女性に好かれる。男は強い女を卑下するところがありますし、女性は色のあり過ぎる女に嫉妬する。弱い女は問題外。弱さをわざと出す女もだめです。あなたは、絶妙なバランスで人々を惹きつけている」
「はあ、そんなものでしょうか?」
総元の言葉に私は相槌を打ちながら、会った途端に自分を褒めちぎる老人に不信感を抱いた。
「そして、何よりも、あなたは迷いを持っている」
「迷い?」
「ええ、迷いです。それがあなたの魅力を増している。初めから強い人間なんていないのです。もし、強いと言うならば、その人は喜怒哀楽を知らない不幸な人です。迷い、怯え、それでも、強く進もうとする人が魅力を解き放つのです」
「素敵なお話ですね。確かに私は迷いを持っています。それを、認めてくれるのは、ウィロードさんと総元さんだけです。なんだか、少し、楽になったように思います」
「よかったら、私のセミナーへ話を聞きに来てください。皆さん、迷うことが楽になったと言う人や、生活が楽しくなったと言う人たちが集まっています。神粂山をご存知ですか? そこに、私の会社とセミナー会場があります。ここから2時間で着きますよ」
「ええ、ぜひ行きたいと思います」
私は食事にほとんど手を付けずに総元と握手して別れた。
「ロジャー」
恋人を持たないはずの私が、ウィロードと3日に1度は食事をしていた。彼の近くにいると心が和んだ。
私の両親は私を愛していなかった。私は、皆からかわいいと言われる事のない赤ん坊だったらしい。頬はこけ、目ばかりがぎょろぎょろと大きく、鼻は小さく潰れていた。言葉を話すようになったのも、歩いたのも標準よりも遥かに遅かった。声は低く、かわいげがなかったらしい。かわいがられないためか、自信と言うものがなく、感情を出さず、誰かの足手まといにならないようにと、いつもビクビクしながら育った。
物心の付いたばかりの頃から、かわいがられない私は、生命力のない運命だと思っていた。ほんの些細なタイミングで私はこの世からいなくなるだろうと思い、毎日毎日を楽しく過ごして、いつ死んでも良いようにしていようと考えていた。そんな心の闇から生まれたのが好感度1位の深海沙也だ。誰からも愛されず、誰にでも怯え、未来でなく現在を生きる女。だから、人前で潔さを見せた。生命力のない私が、幸せな女にも不幸な女にもなれる女優と言う職業になったのは必然的であった。
「ねえ、ロジャー、私を愛して」
ベッドの中でいつまでもウィロードから離れない私がいた。ウィロードは、少し汗ばんだ手のひらで私の肩を抱いた。私は彼の心臓の鼓動を聞きながら、頼りないように思える彼の手のひらの温もりに意識を集中するのであった。今まで肉体的につながった男には、何の期待もしたことがなかった。心の奥で、男を軽蔑し、自分のすべてをさらけ出す事を避けていたから。ウィロードは違った。私のすべてを見透かして、私の心をもてあそんでいるようにも見えた。愛と言う言葉を誰かに言ったことがなかった。愛をウィロードに感じているのかと言うのも不明であった。それなのに私は、私を見透かされたかった。そして、愛してほしかった。愛し方を知らない私に愛を教えてほしかった。
ウィロードは私に愛を語らなかった。そして、私に言う事は総元のすばらしさであった。
総元のセミナーで、私は話を聞き入っていた。ウィロードが心酔した総元の魅力を探りたかった。しかし、私は、そこに心酔出来なかった。4回目のセミナーの誘いを断った。そして、次の回の誘いも断った。
ウィロードは、私を初めての晩に行ったホテルに誘った。ウィロードは、その日はなぜか、私に腕も抱かせなかった。テレビの前のソファに座らされた私は、テレビ画面の映像に目を見張った。
私の喘ぎ声。
私はソファでウィロードに抱かれていた。
なんて映像!
私はウィロードを睨んだ。
ウィロードは私の目を見ようとはしなかった。
「初めての晩の映像だ。総元に言われた。彼女をセミナーに通わせることが出来なければ、この映像で脅せと」
日本語がわからない人が話すような、感情の入らない言葉でウィロードは言った。
「どう言う事?」
「我々はあなたに同士になってもらいたい。我々にはあなたが必要です。これは、裏切りがない事を誓ってもらうための切り札です」
「こんな事で、何をしようというの?」
「あなたの魅力を利用したいだけです。あなたが断れば、この映像は全国に流れるでしょう」
「あなたは、私をどう思っていたの? ただ利用するために付き合っただけ?」
ウィロードは下を向いた。ウィロードの骨張った手がテレビのリモコンをくるくると回していた。
「あなたをこれから助けていこうと思っている。何があっても私はあなたを守ることになるだろう。あなたは利口だ。どうすべきかわかっているはずだ」
「そんな冷たい言い方ないわ」
私は立ち上がり、呻くような悲しい声を出した。
「ねえ、ロジャー」
ウィロードは私の言葉に反応しなかった。下を向くだけだ。
「私は帰るわ」
私は怒りで震える足でドアへ向かった。
「待ってくれ。私はどんなことになっても君を守る気だ!」
ウィロードの言葉の意味がわからなかった。1番に苦しめているのは彼なのだ。
「帰るわ」
私はホテルを出た。
翌日、私は仕事の終わりに、2人の男を連れたウィロードに拘束された。私は彼の仕打ちに愛をあきらめた。もう、決して彼の言葉に心を動かされまいと誓った。
私はセミナーの行われているホールの奥の部屋に連れて行かれた。そこには総元がいた。
「すまない。こんな事はしたくなかったのだが、君がセミナーに来てくれないものだからね。私たちは、ただ、君の人気にあやかりたかった。そのために、しばらく君を調べていたんだ。そして、君が男遊びをしているのを見つけて、君を助けてあげなければと思ったんだよ。それで、ウィロードに君を託したんだ」
「助けなんていらないわ」
「いや、君には必要だったはずだ。実際、君はホテルに行くのを週刊誌のカメラマンに撮られていたんだ。それを食い止めたのは私たちなんだよ」
「撮られればそれまでよ。助けなんていらなかった。それに、あんたは同じように私を脅しているじゃない」
「確かにそうだな。しかし、君が私たちを信じて、セミナーを続けて聞いてくれれば、こんなことをする必要はなかった。君は我々が選出したただ1人の候補者なんだ」
「何? 何の候補者なの?」
総元は無言になった。私はもう1度聞いた。
「何?」
総元は私の前に跪いた。
「君は私の後継者になってもらいたい。君以外にはいないと思う」
私は絶句した。
「驚くだろう。実はセミナーは総元教が主催で、私は教祖なのだよ。始まりは、『SOGEN』の社員の自己育成や啓発を目的で行ってきたセミナーなのだが、それを聞きたいと言う人々で会場が溢れかえるようになってね。2年前に人間至上主義の宗教として立ち上げることにしたんだ。しかし、私は高齢でいつ死んでもおかしくないので、後継者を決めておく必要があってね。ウィロードを後継者に決めておいたのだが、彼には大人数の人間を惹きつける力がないんだよ。人を惹きつける力は天性も必要なんだ」
総元は私の手を取り、目を見つめた。
「私はあなたを必要としているのです」
私は、いくつもの未来を思い描いた。ここで逃げ出してビデオを公開されて転落するか、ビデオをなんとか取り返し、また仕事の日々を送るか、総元教の代表としての生活をするか。どれにしても大した未来ではない。少しこの老人に付き合うのも良いかもしれない。
「わかりました。もう少し、あなたの総元教と言うものとお付き合いしてみましょう。後継者の話はその後でも良いでしょうか」
総元は笑みを浮かべた。
「ありがとう」
私はその日から捨て身になった。どんなにもがいても、幸せにはならない人生だ。そう、私は生命力がないとわかっていたことだ。それは、物心付いた頃から本能が語っていたこと。
私は月に2回のセミナーに欠かさず出席し、その後は総元と会食した。ウィロードは必ず総元と一緒にいたが、私は声を掛けなかった。ウィロードも決して自らは言葉を発しなかった。総元の話しかけに答えるだけであった。
そして1年が経ち、私は6回目の好感度1位を獲得した。でも、もうバスタブで泣くことはなかった。1人でお酒を飲むこともなかった。私は生命力の弱さを天命に預けた代わりに、何よりも強い心を獲得したのだ。もう、何にも泣くまい、動揺しまい。そう考えているうちに、心から喜ぶこともなくなってきたように思う。
そして、また1年が経った。私は7回目の好感度1位を獲得した。ある日、ウィロードが私に会いに来た。
「話があります」
彼は無表情で言った。私はすでに、ウィロードに何の期待もしていなかった。
「なんでしょう」
「実は私たちの計画で、まだ、あなたにお話してなかった事があります。筑恩寺博士をご存知でしょうか?」
「ええ。事務所の先輩の古沢慶子さんがお付き合いしていますわ」
「実はそれも、私たちが仕組んだことです」
「なんですって!」
「正確には、あなたにメディカルバラエティのレギュラーの出演依頼があったのです。しかし、事務所の社長さんが古沢さんに回してしまった。あなたと筑恩寺博士を知り合いにさせようと思っていたのです。でも、今度の事務所のパーティーに、古沢さんは彼を招待するようなのです。そこで、あなたにお願いがあります。彼に近づいてください。彼を総元教に引き入れたいのです」
「何のために?」
「彼はある倫理に触れる研究に没頭している。それを私たちの組織で完成してもらいたいのです。まあ、今の大学側の資金の打ち切りは時間の問題ですが、それを早めたい」
「私を、人を陥れる道具になれと?」
「あなたには後継者として強くなってもらいたいのです」
「私、もう充分強くてよ」
「では、出来ますね」
「わかったわ」
私はウィロードに対する反発心から、彼の言いなりになっていった。
事務所のパーティーは、都心から少し離れた海岸沿いのレストランだった。ぎりぎりまでスケジュールの詰まっていた私は、遅れて会場に入った。
慶子さんの隣には筑恩寺博士が噂どおりの形相で立っていた。一目でこの人は、天性の才能を持っていてそれに取り付かれていることがわかった。私は得意の笑顔で彼と挨拶を交わした。
そして、筑恩寺博士の背後に立つ研究者たちを一瞥した。研究に没頭し過ぎて、世間知らずの人たちに見えた。そして、その中に若い女がいた。たいして、美人ではない、パッとしない女。若さと弱さだけで生きているような女。男と生きる事に楽しみを感じ、それ以外に興味がないような能天気な顔でこちらを見ていた。しかし、なんとも彼女は幸せそうであった。
私は顔がこわばった。
そして、その日から、私の笑顔が終わった。好感度1位が、なんの意味もない地位である事に気が付いた。それはただの他人の評価。私はそれによって、皆の糧になろうとしていた。愛されなかった子供が、愛を皆に満たそうと頑張ってきたのに、そんな私より、あんな馬鹿面の少女の方が、心が満たされているのだ!