第11話2年前
誰か助けて
声にならない声で私は叫ぶ
誰か助けて、誰か
私はバスタブの中で足を抱え込み、頭をもたげ、声を出して泣いた。バスルームの隅に置いた蝋燭から、ラベンダーの香りの柔らかな空気が漂ってきていた。
物心ついた頃から、いい人になろう、善人になろうと今まで生きてきた。昔話や教師の教えはいつも同じであった。善人になりなさい。思いやりを持ちなさい。人は皆平等です。しかし、どうやら善人は世の中に少ないのだ。私は、至極普通に、人は皆平等を実践していた。たとえば、私は外国人に街で何か聞かれると普通に答えていた。その中の何人かは私にこんなことを言った。
「日本人の女性は私たちに冷たいのだ。あなたはいいね。世の中みんな、あなたみたいならいいのにね」
そして、執拗に私に付きまとうようになる。私は中途半端な善人のために彼らを本当には受け入れることが出来ないため、最終的には彼らを傷つけてしまう。
「天使みたいな笑顔をした悪魔だ」
彼らの中の1人は、私にこんな言葉を吐いた。そう、私はきっと悪魔なのだ。悪魔は気をつけていないと火炙りにされてしまう。だから、また、私は善人の行いをする。そして、また、人々は私にすがる。悪循環の出来上がりだ。
いつしか、私は好感度ランキングで上位を占める女優になっていた。いつも笑顔で元気のよい、優しくたくましい女。恋人は作らない。男は皆、明るく元気な私を求めるから。一途で弱く、泣き虫な私はお呼びでないのだ。弱い所を見せれば、男なんてすぐにでもかかるという持論の女もいる。男は頼られるのが好きなのだと。けれど、結局、善人を目指す私は弱いところなんて見せられない。私は何かある度にバスタブで泣いた。理性やすべてのしがらみから逃れられる場所だ。
今夜も私は泣いた。大声で。
最近は泣くことに慣れてきた。悪い傾向だ。人は年をとるに連れて心が強くなると言うが、私は反対であった。子供の頃、少なくても意志を持ち始めた頃の私は泣かなかった。なのに、最近は仕事の小さな失敗や人との意見のすれ違いだけで、その日の終わりに泣いてしまうのだ。
今夜の理由は、5年連続好感度1位の名誉を与えられたためだ。私は常に全力で仕事をしているだけだ。笑顔を作れと言われれば心の底から笑顔を作り、どんな小さな仕事でも馬鹿にしてはいけないと思いながら仕事をしていた。皆もそうであろうと思っているのであるが、皆が私を褒めちぎった。笑顔がいいだの。仕事にいつも前向きだの。明るいだの。では、皆は違うのだろうか? 以前は人の褒め言葉を常に宝物にし、それを生きがいにしていた。私も人には素直に良いところを褒め称えることにしようと考え、実践してきた。しかし、皆、褒め過ぎだ。事務所の社長は、私は人に好かれると言う天性の持ち主なのだと言う。
ガン、ガン、ガン!
私はバスタブに頭をぶつけた。
「もう、いいかげんにして! いいかげんに」
裸体の私は湯船に包まり吠えた。
「私はただ普通に生きているだけよ」
自分の身体を両の手できつく抱きしめ、嗚咽を続けた。こんな綺麗に涙とは出るものなのだと自分で感心してしまう。湯船が冷めてきた頃、私はふっと我に返り、ピチャピチャと音を立てながらバスタブから出る。
そして、お気に入りのピンクのバスローブを羽織ながら、明日から、また、私は善人を目指すのだと決心する。おそらく、心の葛藤は私が悪魔だからで、いつしか善人になり得た時には、すべてが浄化されると信じているのだ。
リビングでくつろぐ頃には、ああ、良い湯であったと私は幸せになっていた。
私は、つまり、単純なのだ。
それでもリビングのソファに埋もれながら、何か今の自分から脱却しなければと考え続けた。
26歳。微妙な年だ。
若いアイドル達とも、熟女とも違う。
将来的希望を持ちながら、ある程度見えてきた自分の限界を認めざるを得ない。そうだ。これからが正念場だと思うのだ。
「よし、明日、社長に言うのだ。舞台をやりたいと」
拳を力強く振りかざし、私は決心した。
「何言っているの! 沙也は好感度ナンバー1なんだよ。今のうちに稼がないとだめだよ。舞台は、体力も精神力も必要なんだ。この過密スケジュールでは無理だろう」
予想通りの社長の言葉。
「慶子がいい例だ。舞台に入れ込んで,最近はめっきりテレビの出演以来が少なくなってしまって。やはり、全国放送で常に出ていなければ、いくら実力があってもだめなんだ。慶子の唯一のテレビのレギュラーのメディカルバラエティに出るのだって、やっとの事だったんだよ」
社長は小声で囁いた。
「今、うちの事務所を引っ張れるのは、沙也だけなんだから」
そう言われると、何も言えない。古沢慶子は私の良き先輩だ。明るく、美しい顔立ちの女優の中の女優。私の中ではそうなのだ。しかし、確かに最近、仕事の量が減ってきていた。今は、唯一のレギュラーの番組で共演しているスーパー脳外科医の筑恩寺博士とお付き合いしている。社長はこの事を喜んでいるようだ。順調に事が進んで、著名な医者と結婚になれば話題になる。慶子さんを私は羨ましく思う。自分のやりたいことをやっているのだ。
「私、頑張ります」
私は、結局、社長にそう言うしかなかった。
私はお酒を1人で飲むようになっていた。暗いバーのカウンターで1人、カクテルを飲んだ。人と飲むとジュースのように思える飲み易いカクテルも、1人で飲むとアルコールの味が強い気がする。それがいいのだ。これで私は酔える。そして、気持ちよくなれる。そう思うことが幸せに思えた。
「お1人ですか?」
1人の男が声を掛けてきた。立派にスーツを着こなして、なかなかダンディに見えた。
「ええ」
「隣に座っても?」
私はいつも、断っていた。しかし、この夜は誰かと話がしたかった。
「どうぞ」
私はその男に微笑んでから、バーテンにブラッテイメアリーを注文した。男はジンライムを頼みながら私に笑顔を向けた。
「血が好きなの?」
「なんで、そんな事を言うの? ブラディメアリーを頼む皆に聞くの?」
「いや、君が血を好きそうな顔をしているからさ。君には血を好んだ殺戮の女王メアリーがとても似合う。美しく残酷で、幸せを手に入れる事が出来ない薄幸な女王様に見える」
薄幸なんて初めて言われた。いつも皆が、悩みなんてなさそうだとか、幸せが歩いて来るくらいの幸福そうな笑顔だと言われていた。バーテンが注いでくれた毒々しいほどの赤い液体を眺めながら、なぜかうれしくなった。
「そうね、私、血は好きよ」
笑顔を男に見せながら、私は赤い液体を飲み干した。
「なっ、何?」
私は下半身に人の気配を感じた。
ブラッディメアリーを数杯飲んだ。1度、トイレに立ち、戻ってきた時に用意されていたブラディメアリーを飲んだのを最後に記憶が飛んだ。どうやら、ホテルのベッドに寝ているのだ。ピンク色の天井が見えた。あの男が私の股間に頭を埋めていた。身体が動かなかった。グラスに何か入れられたのだわ。頭をわずかにずらした私に気が付いた男の顔が、私の顔に近づいてきた。頭は朦朧として身体を動かすことが出来ない。両腕を掴まれ、男が私の首をなめた。
「いや、やめて」
私の声は喉から発せられなかった。口をパクパクと動かしただけだ。平手で頬をぶたれた。そのまま、私は男に抱かれた。
男はいつしか消えていた。
私は身体を動かせるようになるまで、数十分、天井を見つめていた。朦朧とは恐ろしい。意識と無意識の間をさまよっていた。
死のうか
そう考えた。
馬鹿らしい
そう思った。
たかが男に抱かれただけだ。自分の意志の通らぬ時に抱かれただけだ。そんな事を理由に自分が悩む事が馬鹿らしい。あの男を許さないと言おう。そして、蔑もう。一生会わなくてもいい。のうのうと生きる男を、罪深き男だと哀れもう。
「私は許さない。哀れな男を」
声に出して私は言った。