第10話裏切り
ここから第2章になります。第1章の唐沢優美から、第2章の深海沙也へ主人公が代わります。
第2章 「私の中 〜プライド〜」
そんな、失敗なんてあってはいけないわ。
私、深海沙也は、俊野保の部屋の前で、手を合わせて祈っていた。
唐沢優美の意識が薄れていると言う話を筑恩寺隼人博士から聞いて、いてもたってもいられず、東京支部へ行く倉本総元の供も断り、自室に籠もっていた。古沢慶子がピアノを弾く音が聞こえていたが、突然、止んだ。たまらず、部屋から出ると、遠野拳に支えられて俊野保が自室に入るところだった。
「博士を呼びましょうか?」
私は聞いたが、俊野保はひどく青い顔で黙って首を横に振った。辻本徹も古沢慶子もそこにはいたが、誰も筑恩寺隼人博士を呼びに行こうとはしなかった。辻本徹が小声で私に言った。
「博士は何も出来ないとおっしゃるのです。私たちに観察を命じただけなのです。それと、保が自棄でも起こさないように監視もするようにと言うだけだったのです。博士は今、総元病院で研究の参考になる脳手術があるのでそちらに行っています」
なんてことだろう。こんな危機的状況に筑恩寺隼人博士は何もしないなんて。
私は、古沢慶子に一緒に部屋の中に居ればよいと言われたが、唐沢優美に遠慮して部屋の外で1人、総元教には反するが、神に祈っていた。彼女にとって、私はあまり良い存在ではないはずだから……。
ドアの向こう側で数人が動く気配があった。私は堪らずドアを開けた。
「優美ちゃん! 優美ちゃん!」
ベッドに横たわる保君の周りに、遠野さん、辻本さん、慶子さんがいて話しかけていた。
「ふうっ」
保君は大きなため息をつき、首を横に振った。
「もう、何度、優美の意識に問いかけても、応答はないよ。実験は失敗に終わったんだ。俺の右脳に移植された優美の脳の1部は彼女の意識を完全に失ったのだろう。指先に神経を集中させて、身体中に意識を巡らせてもなんの快感もない」
「逝っちゃったのね。優美ちゃん」
慶子さんの言葉に保君は頷いた。私は慶子さんに駆け寄り、彼女の胸で泣いた。
「かわいそうだわ! 彼女はいい娘だったもの。私と違っていい娘だったもの」
慶子さんは私の髪を優しく撫でてくれた。
「俺は研究者としての役割を果たさなければならない。博士に報告してくるよ」
保君が立ち上がろうとした。私は彼の腕を掴んだ。
「だめ、言わないでちょうだいお願い」
「それは出来ません」
保は私を引きずりながらドアへ近づいた。
「出来るわよ」
今度は慶子さんが保君の前に立ちはだかった。
「彼は、もう研究者として再起出来ないわ。そんな彼についていく必要性があるかしら」
「慶子さん、あなたは筑恩寺博士を愛していたのではないのでしょうか?」
保君は慶子さんに驚いて、そんな問いをした。
「ええ、愛していたわ。でも、もう、彼は人間としてよりも科学者としての探究心が勝ってしまって、倫理の犯してはいけない部分を犯してしまった。もう、彼はここでしか研究は続けられないわ」
「それは、俺たちも理解していることです。倫理を守っていたら科学の発展はないと言う事で意見は一致しているのです。もう少し、この研究を繰り返していけば、肉体が滅びても精神は生き続ける事が可能になる」
「人の身体の中で生き続ける事が幸せなの? それは納得出来ないわ」
「優美は幸せでした。あなたも知っているはずだ。あの事故で死んでしまうよりも遥かに幸せだった」
「ええ、でも、それは、あなたが研究材料として故意に近づいたとは知らなかったからよ」
慶子さんの声は憎しみを含み始めた。
「な、何?」
保君は心当たりのない慶子さんの言葉に頭を傾けた。
「見つけたのよ。3日前よ。私、研究室の鍵のかかったロッカーが気になっていたの。研究室のテーブルに鍵が置き忘れてあったので、ロッカーを開けてみたの。研究の資料が入っていて、そこに、優美ちゃんの資料を見つけたわ。彼女の経歴が書いてあって、その最後に、孤児で学校時代の成績も飛び抜けて良いわけではなく、不良として素行が目立つわけでもなく、特別、仲の良い友人もいない少女。突然、行方不明になっても誰も気にはしないだろうと書いてあったわ。それは、あなたの字だったわ」
「慶子さん、それ以上言わないでください!」
辻本さんが慶子さんの話を止めた。
「おお!」
突然、保君が低い声で叫んだ。頭を抱え、しゃがみこんだ。辻本さんが保君に駆け寄った。
「大丈夫か? 思い出したのか?」
保君は泣いていた。低い嗚咽が彼の異常を物語っていた。
「辻本、博士を呼ぼうか?」
遠野さんも駆け寄った。辻本さんは首を横に振った。保君の嗚咽が次第に落ち着いてきた。皆がその様子に安堵し始めた時、保君がその低い声を発した。
「慶子さん!」
低く、悲鳴に満ちた声は続いた。
「俺が優美の事を好きでなかったとでも思いますか? 彼女は最高だった。俺を無償で愛してくれた。そうだ。こんな俺をだ」
「じゃあ、あれはどう言うことなの?」
慶子さんは強い口調で言った。
「そうだ、そうなんだ」
保君は再び頭を抱え、床を見つめた。
「あなたたちも、知っていたことでしょう?」
慶子さんは、遠野さんと辻本さんを睨んだ。2人は顔を見合わせ、そして、保君を見た。保君が2人に頷いた。遠野さんが静かに口を開いた。
「ああ、知っていました。俺たちの研究を臨床実験出来る事が望めなかった。やはり、倫理の面でね。医療現場では到底出来ない事だとわかっていた。しかし、臓器移植の発達に伴って脳の移植が出来ないかと言う事はごく自然だと思いませんか?」
「さあ、わからないわ」
慶子さんはくるりと皆に背を向けて窓際に歩いて行き、窓を開けた。爽やかな初秋の匂いの空気が部屋に入り込んだ。遠野さんは続けた。
「俺らは皆、ターゲットを探していたのです。まあ、出来れば、人権侵害を訴えないような家族のいない人が望ましかった。そして、保が身寄りのいないと言う優美ちゃんを見つけたのです。彼女は完璧だった。そう、親しい友人もいない。いなくなっても必死で捜す人もいない」
バシッ!
慶子さんは遠野さんの頬を平手打ちした。
「最低ね」
「ああ、最低さ」
保君が力なく言った。
「博士が、優美を検体の対象とすると言う俺の記憶を今の今まで、封じ込めていたのです。優美にその事がわからないように閉じ込めたのです。子供の頃、とても嫌な事を心の奥底に封じ込めて思い出さないようにすると言う事例があるのですが、それを応用したのです。記憶を封じ込めたのは、2〜3回、優美と会った後だった。その頃の俺は、博士の研究を進める事だけを考えていたし、移植はまだまだ先の事だと思っていたのです。研究自体も進んでいなかったから。それが、記憶を閉じ込めてからと言うもの俺はすっかり優美を好きになってしまった。研究も急速に進んでしまったのです。そして、2人が事故で脳の損傷をしてしまい、移植が強行されてしまった」
保君の声は怯えと怒りが入り交じっていた。
「俺ら、保が記憶を消して数週間後、研究室に優美ちゃんを連れて来た時は驚いたんだ保はやる気だとね。でも、純粋に保は優美ちゃんを好きだったし、俺らも、まだ移植についての覚悟はついていなかった。それが、こんなことになってしまって、実験は実行されてしまった」
遠野さんは下を向いていた。
「保君は最低な事をしたと認めたわ。拳君、徹君は?」
慶子さんがまるで小学生を戒めるように言った。
「馬鹿じゃないの?」
それまで、話を聞いていた私は口を開いた。
「そんな事を認めたって、優美ちゃんが戻る訳でもないし、慶子さん、おかしいわ。それよりも、これからよ。手術が失敗してもいい。私は手術をしてもらいたいの」
私は真剣な眼差しで一同を見回した。私を一同が見返した。信じられないという風に。
「消えてしまうのでしょ。そう、1ヶ月で消えてしまうのなら我慢出来る。そして、私は一生、総元の権力を手に入れられるのよ」
私は笑顔さえ見せた。自分の脳に老人の脳を移植する。今、保君と優美ちゃんの手術が失敗と報告すれば、それは避けられる事なのだ。なのに、私は自らそれを望んでいた。
私は2年前の自分を思い出していた。孤独で、生きることの意味を探していた頃の自分だ。