第1話出会い
第1章 「貴方の中〜恋〜」
「お待たせいたしました」
私は出来るだけ明るい声を出すと、コーヒーの入ったカップをテーブルに置いた。
座って本を読んだままの彼は、決して顔を上げようとはしない。私はそれでも笑顔で軽く頭を下げてカウンターに戻った。
カウンターから、そっと彼を観察した。週に2〜3度、ここ、喫茶店『セゾン』にやって来てコーヒーを注文し、厚く脳の挿絵のある本を読み耽る男。すぐ近くの大学の学生だろう。話もしなければ、にこりともしない。背は180センチ前後。大きな背中と大きな手が私には魅力的だ。短く切り揃えてはいるが寝癖のついた黒髪や、いつも同じようなジーンズにTシャツの服装から見ると、流行には疎いようだ。
私は唐沢優美と言う。2ヶ月前に高校を卒業して、世田谷にある喫茶店『セゾン』で働き始めた。3歳の頃、両親を交通事故で亡くして孤児院で育ち、働き始めたのと同時に1人暮らしを始めていた。高校時代に仲の良い友人もいなかったので遊ぶこともあまりない。喫茶店と自分のアパートの往復の日々だ。趣味と言うものもないし、仕事はそれなりにつまらなくはないけれど毎日は淡々と過ぎて行った。
だから、今のところ彼の観察が私の日々の楽しみだ。
彼が本を閉じて立ち上がると同時に、私はレジの前に立った。彼は会計の時に上目使いに私を見た。そして、やはりにこりともしない。
「ありがとうございました」
満面の笑顔で私は言うのに、彼はさっと後ろを向いて出て行ってしまった。なんて男だろうと思う反面、その態度に魅力を感じた。私は彼の飲んだカップを片付けるために彼のいたテーブルに向かった。
そこには厚い本が1冊置いてあった。
「マスター、忘れ物らしいので届けてきます」
私は急いで本を抱えると、何か言おうと口を動かしたマスターに背を向けて勢いよく店を出た。彼は大学に向かって歩いていた。私は彼に追いつこうと走った。彼の名前を知らないので、なんと言って呼び止めればよいかもわからない。
「あ、あのう」
私はやっと小さな声を発した。彼は聞こえていないようでずんずんと歩いていってしまい、店から100メートルほど離れている大学の校門をくぐった。私も追いつこうと大学に入って行った。
校門からまっすぐ石畳が伸びていて、その両側には建物があり、大きなイチョウ並木が続いていた。西日が建物の影に隠れてしまって薄暗かった。まばらに学生が歩いていて、彼を一瞬見失った。首を左右に回しながら彼を捜すと、まっすぐに伸びた石畳からは外れ、左手に伸びた道を歩いていた。私は追いつこうと急いで走り出した。
「あ、あのう、すみませ〜ん」
少しは大きくなった私の声は彼にも届いたと思ったが、彼は振り返らなかった。私はさらに走り両手で本を頭の上に掲げ、もう1度声をあげた。
「すみませ〜ん。忘れ物です」
ドテッ!
声をあげた直後、私は自分の足を絡め、転んで顎を地面に打ち付けた。それでも、本は汚してはいけないと、手は頭の上で本を掲げていた。
彼はやっと振り向いた。そして、無残なとても恥ずかしい格好の私を見た。彼は走り寄り「大丈夫?」と聞いた。とても優しい声だ。とても、とても。
私は彼の手を借りながら、どうにか本を頭の上に掲げたまま立ち上がった。
「ありがとうございます」
私が本を掲げたままお礼を言うと、彼は私の顎を見つめ、次に肘の傷を見て、まるで自分が痛いように顔を顰めた。
「痛いでしょう、大丈夫?」
「ええ、大丈夫です。ああ、こちらの本を忘れたので渡そうと思って」
私はやっと頭の上まで掲げていた本を自分の胸の位置まで下ろした。なぜか、その胸はものすごい勢いでドクンドクンと鳴っていた。
「ありがとう」
彼はなんとも素直な言いようだった。そして、私の腕を掴んだ。
「肘から血が出ているよ。おいで」
彼は腕を掴んだまま歩き出した。私はさらに勢いよく動く心臓に酔いながら、彼の誘導に身を任せた。
建物と建物の間の細い道を行く。そこを抜けると中庭のような空間が広がっていた。静かで学生が全くいなかった。彼は私の腕を掴んだまま奥の古い建物に入り、1番奥の部屋のドアを開けた。部屋には大きな窓があったが、その窓の外には大きな木々と雑草が繁殖し、太陽の光がほとんど入らない状態の薄暗い部屋であった。
「そこに座って」
彼に進められた椅子に座り部屋の中を見渡した。入り口のすぐ横にはもう1つ扉があり、扉の上に「実験室」と書いてあるプレートがあった。真ん中に古びた木の机が5つ。それぞれに同じように古びた椅子が5つ。机には彼がいつも読んでいるような厚い本が積み重ねられ、空のカップ麺容器やらパンの入っていた袋が散乱していた。そして、机を囲むように天井まである書棚には本がびっしりと並べてあった。
彼はガサゴソと机の引き出しを開け、消毒液と絆創膏を探し当てると、私の方を向いて笑顔になった。
「よかった。見つかって」
私が見た初めての彼の笑顔は、再び私をドキドキさせた。
彼は私の顎と肘を消毒し絆創膏を張ってくれた。私たちは無言だった。そして、私の心臓はさらに大きく早く動いていて、私はこの沈黙では彼に聞こえてしまうのではと思い、彼が消毒液をしまっている時、頑張って話しかけた。
「ここの学生ですか?」
彼は私が話しかけたことに緊張しているようだった。閉めようとしていた引き出しがガタンと音をたてた。
「ああ、3年だよ。この研究室の筑恩寺博士の手伝いをしているんだ」
「何を研究しているのですか?」
私は普通に話が出来ていることに安堵しながら聞いた。
「脳の研究だよ」
「脳の研究って、解剖とかやるのですか」
私は少し怖くなり、ゾクゾクとした体を摩った。
「ああ、もちろん毎日しているよ」
「ええ、毎日! ひ、人の脳?」
「もちろん」
彼は当たり前だろうと言うふうに頷きながら、笑顔で答えた。
「ええ! ええ! ええ!」
私は大声で連呼した。その後、彼は大声で笑った。
「嘘だよ。時々、解剖はするけど、ほとんどが動物のものだよ。さあ、そろそろ店に帰らないとマスターが心配するね」
私は大声を出したことに恥ずかしさを感じながらも、彼が大声で笑ってくれたことに喜びを感じた。
彼は大学の校門まで送ってくれた。
「あの、お名前を教えていただけますか? あ、私は唐沢優美と言います」
「俺は俊野保です」
もう1度、彼は笑顔をくれた。