青薔薇
浮気にアナフィラキシーを起こす方は控えた方がよろしいかと。
窓から見上げた空は、どこまでも青く澄み渡っている。咲き誇る薔薇のような美しい青に、第一王子ユピテリスは目を奪われる。
久しく見上げることなどなかった青に、目まぐるしいここ半年を思い返した。
「ヘラクレア、いつもお前はティスへ酷い態度ばかり。いい加減、見過ごせぬ! お前との婚約は破棄する!!」
背後に震える愛しい人を庇い、目の前の少女に指を突きつけた。
鮮やかな緋のドレスが映える豪奢な金髪に、落ち着き払った茶の瞳。すっきりとした立ち姿や理知的な雰囲気が相まって、美しい百合の花が大きく咲き誇っているような、そんな少女であった。
こんなときでさえ、その涼やかな表情を変えることのない少女に、苛立ちが募る。可愛げの欠けらも無い女だ。背に隠れ、恐怖に震える少女との差を強く感じる。
「大変申し訳ありません。私、殿下のお言葉を聞き逃してしまったようですわ。お恥ずかしながら、少々酔いが回ってしまったのかもしれません。ユピテリス殿下、下がってもよろしいでしょうか?」
紅潮でもしているのなら、まだ可愛げがあるものを。酔いの気配などどこにもない、いつものつまらない鉄面皮である。
頭を下げ、殊勝そうに言っているが、あれだけはっきり言ってやったのだ、聞き逃すはずがない。
「つまらぬ嘘をつくな! 婚約を破棄すると言ったのだ! またも聞き逃したとは言うまいな?」
ヘラクレアは目を伏せた。
平然と王族に嘘をつくなど、不敬極まりない。嘘を見破られ、恐れ慄いているのだろう。俯き、必死に言い訳を考えているに違いない。
「……殿下。そのような大事、私達のみで判断するには荷が重いかと。陛下の御裁可をいただくべきではないかと愚行いたしますわ」
「は、母上だと!? 何故ここで母上が出てくるのだ!? 婚約は私とお前の問題だろう」
真っ直ぐ鋭い茶の視線が飛んでくる。
あの瞳が、嫌いなのだ。
婚約者という程度では、次期国王たる私を非難する権利はないというのに。それなのに、あの目はいつも間違いを突きつけてくる。規範が、ルールが、前例が、と顔を合わせる度にくどくどと言われれば、疎ましく思って当然だろう。
「王太子であらせられるユピテリス殿下に関することですもの。女王陛下は、もちろん、関心がおありでしょう」
「だが——」
「もうやめて、ユピテル様!」
銀糸の髪と、桃色のドレスが揺れた。涙色の瞳が今にも零れそうに潤んでいる。
「ティス、」
「いいんです。私がきっと何かしてしまったの。だからヘラクレア様も色々言ってくるんです」
はら、と涙が溢れ、服に丸い跡が滲んだ。腕を掴む手は震え、全身で悲しみを表現する姿に、哀れみを感じる。
楽しいときも悲しいときも、いつも感情を露わにする彼女に、初めは驚きもあったが、今では愛おしさを強く感じていた。名ばかりの婚約者である鉄仮面のような女へよりも、遥かに深い愛情が溢れているのだ。
「ヘラクレア様も、もうユピテル様に意地悪を言うのはやめてください! 私なら我慢します……だから!」
立場が弱く、本来ならヘラクレアに話しかけるだけでも萎縮してしまうヘローティスが、意見までして。
確かに、ヘラクレアの言うことが正しいときもあったかもしれない。だが、ヘローティスが涙を浮かべながら語る言葉以上のものがあるだろうか。以前私の零した悩み事を、冷たく切り捨てた女の言葉が、温かく支えてくれたヘローティスの言葉に勝ることがあるのだろうか。
「レア、其方が婚約破棄したくない気持ちはわからないでもない。次期王妃の座は魅力的だろうし、何より、愛する私と離れなくてはならないのだから」
へローティスの言葉に毒気を抜かれ、言葉を和らげて言う。見抜かれ、衝撃を受けているだろうヘラクレアは何も返してこなかった。
王太子という身分も、父譲りの体格や燃え盛る炎の瞳、雄々しい顔立ちも、全て魅力的なのは間違いない。しかし、私は彼女の気持ちには応えられない。
ヘラクレアではなく、ヘローティスを愛している。
「だが、すまない。私は真実の愛を見つけてしまったのだ!」
「ユピテル様……!」
嵐の夜のような暗い瞳から一転、きらきらと澄んだ青が美しい。
涙の止まったヘローティスの、柔らかな銀糸を掬い、口付けを一つ。まだ、正式に婚約しておらず、口にできないのが忌々しいが、それもあと少しの辛抱である。
「ティス、愛しているよ」
「私もです、ユピテル様」
可愛らしい笑みに、目が惹き付けられる。
これからはこの笑顔を守っていくのだ、そう思うと、得意でない帝王学にも、少しはやる気が出てくる。
すでに私よりも難しいことを教わっているヘラクレアには一度も感じたことのない気持ちだ。頼りにされている、というのは悪くない。
「その話、我も混ぜてくれ」
「っ、母上!」
聞きなれた声に急ぎ視線を向けると、周囲に傅かれた女王ミネルウァがこちらを見ていた。
慌てて礼をし、声をあげる。
「母上、ご機嫌麗しゅうございます」
「其方も楽しんでいるようだな」
叱責の言葉などはなく短く告げるのみで、灰の瞳がヘラクレアに向き、小さく息をついた。どうやら礼儀作法は及第点だったらしい。
母の視線もヘラクレアのものと同様に、否、それ以上に緊張させられる。幼い頃よりふとしたときに感じた、優しい言葉と裏腹の、路傍の雑草を見るような、そんな冷たい視線に重苦しい気持ちを味わっていた。
今も、傍から見れば笑みの形だろう。しかし、その瞳の奥に温度は感じられず、今は母ではなく女王としての立場でいるのだと感じられた。
「久しいな、ヘラクレア嬢」
「陛下、拝謁の栄に賜り、恐悦至極にございます」
深いカーテシーや分を弁えた言葉にミネルウァの雰囲気がわずかに和らぐ。
ミネルウァはいつもそうだ。私には冷たい視線を向けてくるくせに、ヘラクレアには甘い。婚約者風情である彼女には柔らかな表情を見せるのに、実の子である私には厳格な顔ばかりだ。
教師らは、それだけ殿下に期待されているのです、などとほざいていたが、理不尽にしか思えない。
「我らの仲だ。楽にせよ」
「御高配ありがたく存じます」
ヘラクレアとの挨拶も済み、振り返ったミネルウァは再び硬質な雰囲気を滲ませていた。見慣れた、厳格な女王そのものの姿だ。
「母上、その、」
「あぁ、事情は侍従どもから聞いている。お前はヘラクレア侯爵令嬢との婚約破棄を望んでいる、とな」
冷たい様子に反して、母は優しげに言う。いつも口うるさい父やヘラクレアとは違い、冷たく見えてもミネルウァはいつも自分の味方をしてくれていた。差し出がましい元学友候補を遠ざけたときも、無礼な下級貴族を諌めたときも、母は常に背を押してくれた。
婚約破棄は、かなり大きな問題であるため、許してくれるかわからなかったが、今の様子を見る限り、いつも通り、問題ないのだろう。
「母上も御存知とは話が早い! 仰る通り、私は、このヘローティスを妻としたく思います」
ミネルウァの登場に、後ろに下がっていたヘローティスの肩を抱いた。華奢で、今にも壊れてしまいそうで、力加減に気をつける。
「その言葉、違えることはないな?」
ぞわ、と圧を感じたような気がしつつ、それでも頷き、強く言い切る。
「当たり前です! レアの悪辣さ、また、ティスの心根の良さを知れば、母上も反対されることはないでしょう!」
触れ合う手から温かな体温が伝わってくる。
母の冷たい表情に、一瞬が永遠にも感じ、そして、ふ、と母が笑んだ。
「そうか、わかった。では、婚約の破棄を認めるとしよう。侍従よ、書類を。ユピテリスと其処な者、ヘラクレア嬢とオルシーニ侯爵を別室へ」
ミネルウァの言葉に飛び上がりそうな気持ちをなんとか抑え込んだ。しかし、口元が緩むのまでは抑え切ることができなかった。ヘローティスと視線を交わし、喜びを分かち合う。
ヘラクレアの父侯爵まで呼んだということは、本当に、婚約を破棄する気のようだ。やっと、目障りなヘラクレアではなく、愛しいヘローティスと婚約を結び直すことができる。
天にも登る気持ちのユピテリスには、周囲のざわめきは届かない。
「皆の者、我らは少々席を外すが寛いでいてくれ。宰相、こちらは頼むぞ」
「承りました」
丁寧に腰を折った茶髪の男をあとに、女王は悠々と広間を去る。弾んだ足取りでヘローティスと共に続き、そして父に腕を預けたヘラクレアが付き従う。ヘラクレアの深いカーテシーを最後に、広間の大扉は閉まった。
囁きとは呼べないほどの興奮のもと、幾人かの貴族たちも広間を後にしようとする。先程から姿の見えない王配に、今起きてしまったことを伝えに行くのだ。
急ぎ出ようとした男たちに、侍従が声をかける。
「こちらをお持ちください。陛下より、本日の会に御臨席賜りました皆様への贈り物とのことでございます。砂糖菓子にございますゆえ、近日中にはお召し上がりください」
キラキラと繊細で甘いその菓子は、浮かれた二人の瞳によく似た、赤と青に輝いていた。
バタン、と重いはずの戸が壁に叩きつけられた。
「ミネルウァ! なぜ、あの婚約破棄を認めたのだ!!」
深夜という時間にも関わらず、大きな声が響き渡る。控えていた侍女が震えるほどの怒声に、小さく溜息をついた。
召し上げたばかりだというのに、この侍女も続かないかもしれぬ。人の侍女を減らすことばかり得意な男に苛立ちを感じる。
「お前、王配殿に水を持て。……なぜ、と言われても困るな。それがユピテリスの望みだったから、としか」
理由をつけて侍女を部屋から出し、王配グラディオに向き直る。怒りにギラつく赤い目を、しかと見つめた。
その望みがどのような結末を生むか、本人は何も思い至ってはいないだろう。凡才でしかないユピテリスの不足を補い、後ろ盾を強化し、統治の大きな助けになるはずの婚約だった。しかし、その意味について欠片も考えたことのない本人にとっては、ただの枷にしか感じられていなかったのだから。
「あの婚約を調えるために、俺がどれだけ骨を折ったか、わかっているのか!? 全部台無しだ!」
「もう済んだことだ」
腕を組み、イライラと体を揺するグラディオに短く返す。
グラディオの根回しも、暗躍も、全て報告され知っていた。色彩は男に似つつも、夢見がちなところのあるユピテリスのため、磐石に整えられたものであった。だからこそ、どのような形で崩すか悩み、そして、この絶好の好機を逃すつもりはなかったのだ。
「なぜ、止めなかったのかと聞いている!」
澄ました顔にさらに苛立ちを感じたのだろう、グラディオは顔を真っ赤にして怒鳴りつけた。
寝る前という時間もあり、それまでは比較的穏やかに応えてやっていたが、いい加減、我慢も限界である。
「喧しい。グラディオ、女王たる我が許可をした。王配たる其方に嘴を挟む権利はない」
「ぐッ、」
この国では、妊娠や出産を鑑みて、女王が立つ際には帝王学を学んだ王配が必要という決まりがある。女王が執務を行えない間は王配に権限が移るが、しかし、平時では、比べるまでもなく女王が上だ。
「それに、そこまで言うのならば、其方が止めればよかったであろう。席を外していた其方に、今さら文句を言われてもな」
「そ、それは……!」
どんなに防ぎたい婚約破棄の話があろうとも、その場にいなければ何も言うことはできない。すでに両家で署名まで済んでいれば尚更である。
妾腹がいくら増えても構わないが、盛る時と場所は選ぶべきだろう。それだから不在の隙を突かれるのだ。
「あぁ、そうだ。ユピテリスの破棄の埋め合わせに、オルシーニ侯より希望があった。ヘラクレア嬢とパルシアスの婚約を望むそうだ」
婚約は家と家の、今回でいえば、王家とオルシーニ侯爵家の契約である。どちらかが一方的に破棄するならば、当然、補填が必要になってくる。今回はユピテリスからの、王家からの破棄である。つまり、王家がオルシーニ侯爵家へ、何らかの対価を払う必要があった。
本人に何の瑕疵がなくとも、婚約破棄となれば女性側であるヘラクレアの価値は大きく下がってしまう。次の相手を探すのにも、本来なら苦労するはずだ。
そのため、原因である王家に次の婚約相手を、第二王子パルシアスとの婚約を望んだのだろう。
想定通りで有難い限りだ。
「ッ!! お前、まさか初めからそのつもりで……!」
「何のことだかさっぱりわからないが、まぁ、こちらの有責だ。わざわざ有力貴族を敵に回しても、な。多少の願いは呑むしかないだろう」
早くから才を発揮し、周囲の期待も厚い第二王子と、何年も王妃教育を受けてきた大貴族の令嬢だ。いささか天秤が傾きすぎる嫌いもある。
もちろん、利ばかりではない。先述の通り、ヘラクレアには婚約破棄という瑕疵があり、パルシアスもあくまで第二王子——王太子の代替品である。その上、パルシアスにはまことしやかに囁かれる、とある噂があった。
「…………いや。傷物の令嬢と考えれば、何処ぞの馬の骨の子にはちょうどいい、か……?」
グラディオは以前より、パルシアスの血統を疑っていた。女王の子であることは、出産に立ち会った産婆や侍女達、部屋の外で待機していた侍従達の話からも間違いはない。王位にあるミネルウァの子なのだから、疑いようもなく王子ではある。
しかし、生まれた時期から考えた行為の有無や、髪や目の色、ユピテリスと比べたミネルウァの接し方の違い、父や兄と異なる文寄りの性質など、いくつもこじつけ、疑う理由を挙げ連ねていた。決定的な証拠こそないものの、グラディオの血を分けた子ではないのでは、と。
「其方の子だと再三言っているが?」
今まで同様伝えるが届くことはなく、辟易とする。
酒癖が良くない癖に、大酒飲みの男は、しばしば誘われた先で記憶を飛ばし、泊まりの接待を強要したり、侍従らに連れられ帰り来て寝室に押しかけてきたりしていた。その一つと言えば反論の余地もないようだ。
確かに色彩は異なっている。母の赤髪とも、父の黒髪とも異なる茶の髪は、この国ではありふれた色である。実際王家にも数代前にいたほどだ。また、光の加減によって母の灰の瞳と似る薄緑の瞳も、グラディオの赤の瞳とは大きく異なっている。隔世だろうと言われたものの、グラディオは納得してはいなかった。
後ろ二つはただの男の感覚である。一考の価値もない。
「……王太子は、ユピテリスだ。それでいいなら、認めよう」
「くどいようだが、我の決定に其方の意見は必要ない。まぁ、此度は我も同じ意見だが」
「そう、なのか?」
目を見開き驚くグラディオに、笑みを向ける。
「あぁ。我も長子継承を崩す気はない」
国の法で第一王子が王太子であると決まっている。後継者争いで国を割らないための決まりだ。すぐさま開戦となるわけではないものの、近隣国との関係が全て良好とは言えない中、国力を落とすようなことは避けたいのだから。
だがしかし、歴史を紐解いても、本人の気質や後ろ盾によっては不幸が起こる可能性がないとはいえない。
全ては継ぐに足る才覚があってこそ、だ。
夢のような舞踏会から一夜明け、普段通りの日々がやってくる。いつもは午前中の学びの時間が憂鬱で仕方ないが、今日は、愛するヘローティスが隣にいる。
機嫌よく、自席に座って待っていると、約束の時間ちょうどに白髪の男性がやってきた。
「ユピテリス殿下、ご機嫌よう。本日はお早いおいでですな」
「いっ、いつも通りだろう!」
普段は侍従たちを困らせるほど、ギリギリまで逃げているのを当て擦られ、顔が赤くなる。
常ならこの程度の嫌味のひとつ、気にするほどのものではない。だが、今日は愛しいヘローティスの前だというのに、格好つかないではないか。長い付き合いとはいえ、フォボスめ、少しは王族を立てる様子を見せろ。
こちらの気持ちなど欠片も気にしない姿勢に、苛立ちを感じる。
「そうでしたかな? あぁ、モンフォール男爵令嬢、お初にお目にかかります。殿下の家庭教師を仰せつかっております、フォボスと申します」
「ヘローティス・モンフォールです。これからよろしくお願いしますね、フォボスさん!」
拳を握り、やる気十分の様子が可愛らしい。こちらもいいところを見せねば、とやる気が漲るのを感じる。
その可憐さに気を取られ、不快げに目を細めたフォボスは見えなかったようだ。たかが一介の男爵令嬢と次期国王たる王太子の教育係。その立場の違いなど、彼女には理解できるまい。
フォボスはわざわざ家名を名乗らない。しかし、王太子の教育を行う立場の者が、たかが男爵令嬢風情に「〜さん」と呼ばれる身分であるはずがないだろう。当然高位貴族である。
本来であれば諭さねばならない立場であるユピテリスは微笑ましげな笑顔でヘローティスを見つめるのみだ。社交の場で同様の失態を犯したらどうするつもりなのか。
フォボスは軽くかぶりを振ると、本題である授業へと移った。
「それでは、本日は我が国の歴史についてお話しようと思います。殿下は以前学ばれたことですので、重ねてになってしまいますが……本日は復習、という形でもよろしいですかな?」
「うむ、問題ない。始めてくれ」
「承知いたしました」
フォボスは抱えていた本を開くと、後ろの地図を指し示す。
「では、まず地理的な面について確認いたしましょう。モンフォール男爵令嬢、このヴァレリア国は国境を他国と接しておりますが、それぞれ、どのような特徴がある国か、お話し願います」
「えっ! 私ですか? えーっと……東の国は魔法を使える人が多くて、西の国は確かキカイ? とかいうものを作る人がいる、と思います……?」
いきなりの指名で驚いている顔も、困っている顔も可愛らしい。大体は合っているが、もっと詳しく答えねばフォボスは認めまい。助けてやるとしよう。
「ティスの言う通り、東のルナティア国には魔法と呼ばれる不思議な力を持つ者が多いな。対して西の山を越えた先のロギア国は、様々な作業を自動的に行う機械というものを用いる、科学技術というものが発展している。間に大森林を挟む上、交易もない北の大国ヴァルホルムはやや印象が薄いが、我が国と冷戦状態にあることは知っているだろう? あと、陸地で国境を接しているわけではないが、南方のセレシア国からは主に食料を輸入している。大まかにはこの四カ国を押さえておけば問題ない」
「よろしいです、殿下。基礎は、きちんと身に付いているようですな」
「ユピテル様、すごいです!」
こんな常識程度、迷うこともないが、ヘローティスはキラキラとした瞳で見つめてくる。あの可愛げのない女とは大違いだ。やる気が増すのを感じる。
フォボスにはあとで褒美をやってもいいかもしれぬ。
「では、近頃の他国の動向で、知っていることは何かありますかな?」
「あぁ、ルナティア国が先日、自然には存在しない青い薔薇を魔法で生み出したらしいな。それはそれは美しい青だとか」
君の瞳のように、と続けようとしたところで、ヘローティスはその瞳を輝かせ声を上げる。
「え! 青い薔薇ってロギア国のあのお話に出てくるやつですか? 王子様がお姫様に渡して、結婚を申し込んだっていう」
「よくご存知で。青薔薇は元々、ロギア国が科学技術で生み出したそうです。第一王子殿下がそれを婚約者に渡して求婚なさったということもあり、姿絵や歌劇が非常に有名ですな。ロギア国に少々遅れましたが、ルナティア国でも先日、魔法で作り出すことに成功したそうで」
「えー、とっても素敵! ユピテル様ぁ、私もその青い薔薇、見てみたいです」
奇跡の薔薇、と呼ばれるそれは、まだ数が限られる。だが、ヘローティスが欲しいというのだ。母上に頼んでみるか。
にしても、我が国の職人共は不甲斐ない。最初に我がヴァレリア国で作り出していれば、他国の二番煎じとなることもなかったのだが。まぁ、ヘローティスの笑顔を見れるのならば、水に流してやろう。
「少し待たせるかもしれないが、期待して待っていてくれ」
「わぁ! ありがとうございます、ユピテル様!」
ヘローティスのためなら、多少の困難は甘んじて受けようではないか。
可愛らしい笑顔に、フォボスが後ろを向いた瞬間を見計らい、口付けを落とす。驚いた顔のヘローティスに、笑みを返すと赤くなった。思わず軽く叩く真似をされ、さらに笑いが溢れてくる。
本当に、あの女とは全く違う。
背後のやり取りを察して、フォボスは内心ため息をついた。
先日、ロギア国の青薔薇の話題をヘラクレアと話した際には、種は取れるのか、量産は可能なのかなどの生産面、宝石や金属への着色で青薔薇を模した装飾品が作れないか、菓子類はどうか、歌劇は自国でも再現できないか等の文化的な側面など、更に深めて話をしたのだが、今日は表面的な話で終わるようだ。
陛下の生誕祭で飾るためには、どんな対価なら代えられるか、と頭を悩ませていた少女を思うと、その差には呆れるばかりである。フォボスはユピテリス同様、二人の違いを強く感じつつも、その評価は全く異なっていた。
赤く染まった顔を手で扇ぐヘローティスに、フォボスが問いかける。
「ではモンフォール男爵令嬢、ここ、ヴァレリア国のことでは、どのようなことをご存知かお話ください」
「あ、はい、」
目を丸くして、ヘローティスは姿勢を正した。扇いでいた手を慌てて隠す姿も可愛らしく、笑みを誘う。
必死に頭をひねり、はっ、と思いついたようで表情が明るくなった。
「えぇっとぉ……装飾品に大きな宝石をつけるより、デザインの凝ったものを使うのが最近流行り始めたって聞きました」
「何故そのような傾向があるかは知っておりますか?」
「え? 理由なんてあるんですか?!」
驚きに目を丸くした姿も愛らしい。クルクルと変わる表情は、見ていて本当に飽きることがない。
にしても、装飾品か。あまり興味はないが、最近のことを思い返すと、恐らく母ミネルウァのあれが、流行を作ったのだろう。
「……殿下はいかがでしょう」
「確か、アウレリウス公爵領で新しく銀山が見つかり、その銀でできたネックレスを母上に献上したんだったか。わずかに帯びた魔力が、精緻な細工と相まって虹色に煌めき、それはそれは美しいと聞いた気がするな。そのネックレスを、先日の夜会で身につけていたから、ではないか?」
「あのネックレス、そういうものだったんですね。綺麗な色だなぁって思ってました」
ヘラクレアはどんな問いにも涼しい顔で答えていたため、このように教える立場になったことは今までなかった。ヘローティスの尊敬の念のこもった瞳が心地いい。
やはりフォボスには褒美が必要だな。
そんなユピテリスの気持ちはいざ知らず、フォボスは、凡庸な茶の髪と反して、非凡な才を示す宰相を思い浮かべていた。
ユピテリスの言うような、ただの美しい装飾品、臣下からの贈り物、というだけでは、ミネルウァが身につけることはなかっただろう。二人の子のどちらの派閥にも肩入れしないよう、常にどの貴族に対しても公平を意識しているのだから。持ち主を守る希少な魔法銀を用いたネックレスだったからこそ、しまい込まれず日の目を見たのだ。
ちなみに、国内有数の金山を所有するオルシーニ侯爵家の令嬢であるヘラクレアは、昨日の夜会でそれは見事な細工の耳飾りをしていたが、ユピテリスの目には恐らく入っていないだろう。魔法銀には少し価値が劣るとはいえ、すぐに流行に合わせ、装うことができるのは流石の一言である。
流行とは、高貴な女性達が作り出すものである。特に王妃ともなる者ならば、後を追うだけでなく、世情に合わせて何が必要かを考え、生み出すだけの発想力や伝も大切だ。
ミネルウァは此度のネックレスの礼に、アウレリウス公爵へ見事な銀細工の筆記具を贈っている。女性のみの流行で終わらせるのではなく、男性にまでも広げた手腕は流石である。
私も素敵な装飾品が欲しいです、ティスには花の意匠が似合いそうだなぁ、などと盛り上がる二人にフォボスは呆れを隠しきれなかった。
からん、琥珀色の液体が氷を揺らす。
深夜、侍女らも既にいない室内は、彼女一人のものである。いつもの覇気は消し去り、寛いだ姿で杯を傾けていた。
花のような甘い香りに反して、酷く強い酒である。
慣れたように一口含み、遠くの月に贈り主のことを思い返した。
その夜は、月のない夜だった。
男は身分を隠すため、裕福な商人の着るような、やや上等という程度の衣服を身につけていた。庶民にも多い茶の髪と言うこともあり、服を変えただけで驚くほど周囲に溶け込むことができている。社交に疲れた夜に、まだ妻のいない男が一夜の温もりを求めて街へ降りるのは、この時期の常であった。
以前、知り合いに紹介された妓楼を静かに訪れる。入口で呼ばれた楼主に案内され、奥の部屋へと向かった。馴染みを作らない男は、いつも楼主の勧める女と一夜を過ごし、そして日の登る前に自分の館に戻るのだった。
今夜は珍しく、頼んでもないのに酒肴が出された。訝しげに見た男に、女の支度に時間がかかってしまっているため、と説明し、男の分ともう一人分の用意をして楼主は足早に部屋を離れた。
男にとっては慣れた食材だが、たかが一妓楼にしては珍しいほど高価な品である。酒も常と異なり、男の領地のものだ。庶民向けから極数本しか生産量のないものまであるが、今日は普段よりも数段良いものであることが感じられ、男は首を捻った。
慣れ親しんだ甘やかな香りを楽しみ、杯を傾ける。
鼻が香りに慣れた頃である。現れた女を見て、男は頭を殴りつけられたような気持ちになった。
「……なぜ、このような場にいらっしゃるのです」
何とかそれだけ、疑問を絞り出した男に、女は含み笑いで答える。
「一夜の屋根を求めてきた」
男は頭を抱えた。
そのような立場でも、そのようなことをする理由も、どちらもない人だった。今日の夜会でも大広間の最奥で挨拶を受けていた、その姿が今の彼女と重なるようで重ならない。豪奢なドレスの代わりに纏われているのは、この場に合った扇情的な薄布だ。しかし、どんな格好でも、彼女は彼女だ。その覇気を隠すことなどできやしない。
なぜ、ばかりが脳裏に浮かび、しかし、口にはしない。常と異なる楼主の対応や、噂好きの夫人達の会話、今まで見てきた彼女の気質など、様々に思い返し、そしてしばらく考えた男は口を開く。
「……一つだけお聞かせください。もうすでに、かの御子に期待はできないと?」
さすが、時が満ちれば宰相位をと言われるほどの切れ者なだけあり、女がここにいる理由を導き出したのだろう。女の笑みが、その推測が当たっていることを示唆していた。
「どのような地で芽吹こうとも、種が種では、な。それに、どうせ育てるのならば、比類なき物を私は欲する」
やっと三つになったばかりの幼子は、すでに母から見限られてしまっていた。飛び抜けて不出来ではないが、あくまで凡庸以下である、と。普通の家ならそれでも問題ないのかもしれないが、彼女の元で、それは許されることではなかった。
他に選択肢がなく妥協で選んだという噂通り、結婚相手との仲も良好ではなさそうだ。
「……選んでいただき光栄ですね」
全てを飲み込み、男はそれだけを返した。
大陸一と称えられる頭脳や、彼女よりやや赤みの少ない髪色、光の加減では彼女と同じ灰ともとれる色薄い瞳、関係を黙っていられるだけの胆力。様々な条件を考慮した上で、選ばれたのだろう。
ここで女に会ってしまった時点で、もう後戻りはできない。共犯者にならないのならば、恐らく生きて帰ることは叶うまい。
その判断力も選ばれる条件の一つだったのかもしれない。
「彼方は土壌を選ばぬようだが、幸い、私の胎でなければ雑草よ。そして、私の胎であれば、あれの種でなくとも問題なかろう。相手が其方であれば尚のこと」
「、承知しました。御心のままに」
脅しめいたものは感じるものの、従っていれば問題はない。事が済んだあとも、比類なきと選ばれる程の頭脳だ、消されることはないだろう。
今はただ、国最高の女性の相手をできる幸運を感じていればいい。
「っ、と」
先ほどから手慰みに持っていた杯を置き、代わりに彼女の腕を引く。急なそれに、驚いた顔をしつつも素直に従う女に、欲の炎が目を覚ます。
ふわりと漂う花の香は、酒か、彼女か。
いつも取り澄ました顔が、どう変わるのか楽しみだ。
「お帰しできなくなったら叱っていただけますか?」
「ふ、お手柔らかに」
どちらともなく、口を塞いだ。
忘れられない一夜のあと、しばらくして懐妊がわかった。生まれた赤子は、父親譲りの髪色で、二人にだけはそれがきちんと伝わった。
そして彼女は、赤子にパルシアス、と名付けた。あの日の明け方、男と戯れに話した名前だった。
「ッ、お前、ヘラクレア!? 何故ここに!?」
久方振りに見かけた彼女に、思わず肩に手を置き、顔を向けさせた。
刺繍がふんだんに施されたドレスは初めて見るものだ。白の地はシンプルだが、銀や茶で精緻な紋様が描かれ、以前から流行し始めた細やかな細工の装飾品とよく合っている。金糸ほど華やかではないものの、落ち着いた色味が彼女によく似合っていた。
ヘラクレアは僅かに目を見張り、すぐさま数歩離れ、深くカーテシーを行った。
「ご無沙汰しております、殿下。少々、領地の方で所用がございまして。数日前に王都へと戻って参りました。本日は陛下より御招待を賜り、参上した次第でございます」
「そ、そうか」
あの舞踏会を最後に、久しく顔を見ていなかったため、少々取り乱してしまった。
「驚かせてしまったな」
「お気遣いいただきまして、至極光栄にございます」
深く頭を下げたまま、ヘラクレアは言う。
ふと、不安げな顔のヘローティスに腕を引かれた。婚約破棄のことがあり、ヘラクレアと顔を合わせにくいのかもしれない。安心させるよう、笑みを向ける。
へローティスの硬いままの顔に引っかかりを覚えたが、ヘラクレアの呼び掛けに、向き直った。
「ユピテリス殿下。殿下とお話されたい方が数多くいらっしゃいます。皆、殿下のお声かけを心待ちにしているかと。私なぞお気になさらず……」
「それもそうだな。レア、お前も会を楽しむがいい」
「勿体なきお言葉、ありがたく存じます」
背を向けたユピテリスは知らない。彼女が何故、そして、誰と領地に戻っていたのかを。二人が離れるのを待っていた王家の侍従が、どこへヘラクレアを連れていくのか、を。
「皆の者、会は楽しんでもらえているだろうか」
会場中の視線が向く中、ミネルウァは挨拶を述べる。
「皆のおかげで今年もまた一年、恙無く、歳を重ねることができた。今年は新たに国内に銀山が見つかるという慶事があった。来年は干ばつの兆しがあるとのことで厳しい年になるやもしれぬ。だが、皆の力を合わせれば、必ず乗り越えられよう! 其方らの協力に期待する」
ミネルウァは希望の込められた言葉を表すかのような、鮮やかな新緑のドレスである。干ばつに負けず、芽吹きを期待する、そのような気持ちが込められているのだろう。
自然と拍手が沸き起こった。静まるのを待った女王は再度、口を開く。
「諸君にはもう一つ、慶事を伝えよう。長く定めていなかったが、第二王子パルシアスの婚約が決まった」
どよ、と場がざわめく。
視線の中央に歩み出てきたのは呼ばれたパルシアスと、彼にエスコートされたヘラクレアである。
「先日のユピテリスの婚約も記憶に新しいことだろう。ヘラクレア嬢とは婚約を破棄することになったが、彼女は長く、王家に嫁ぐために学んできてくれた。故に、オルシーニ侯に打診し、パルシアスとの縁を繋がせてもらった」
柔らかな笑みを浮かべ、カーテシーを一つ。
「皆も二人に大いに祝福を」
わぁ、と会場中が盛り上がる。
中には王家との縁を求めていた家もあっただろうが、ここまで正式に、女王から公の場で言われてしまっては付け入る隙はない。
また、第一王子の派閥から見ても晴天の霹靂である。しかし同様に、今さら撤回など言い出せるはずがなかった。
女王の言葉通り、祝福を送るしかない。
送れなかったのは、ただ一人。
両親のダンスが終わりに近づき、隣で身体を固くするヘローティスを再び覗き込んだ。
「ティス、いつも通りに踊れば問題ない。そんなに緊張しなくとも……」
母ミネルウァも認めた、正式な婚約者はヘローティスだ。あの舞踏会のすぐあとに発表され、すでに幾度もダンスを共にしている。今さら何を恐れることがあると言うのだ。
「だ、だって、今日はヘラクレア様がいるんです! 下手なダンスをしたらきっと笑われます……」
「そんなもの、気にする必要はない」
「でも……」
先ほどヘラクレアに会ってから何度も繰り返されたやり取りに、ついに苛立ちが爆発する。
「しつこいぞ! いつも通りの其方であればよいのだ!」
ちょうど女王夫妻のダンスが終わり、怒声は拍手でかき消された。しかし、すぐ向かい合っていた者には当然届き、そして、さらに萎縮する。
ヘローティスをエスコートし、中央部へ向かう。準備が出来たのを見計らい、曲が流れ始めた。
「ッ、」
初めの一歩目から、既に二人の歩みは噛み合わない。普段通りを装うユピテリスと、緊張で歩幅が狭くなってしまったヘローティス。合うはずがないのだ。
動きの強ばるヘローティスを何とか無理やり踊らせる。リード、というよりも、引っ張っているのに近い動きに、見ている者たちの表情は固まった。
これが、王太子。次代の王。
誰も言葉にはできないが、静かな落胆が広がっていた。
踊りの終わった二人を待っていたのは、お情けのような拍手である。次に踊る予定の隣国の王子たちとその相手が会場に出ると、まるで何もなかったかのように拍手は引いた。
今までにない、屈辱である。ヘラクレアと踊る際は、互いに社交慣れしていたこともあり、歩幅など気にするまでもなく揃っていたというのに。
しかし、ヘローティスの涙が見え、慌てて声をかけた。
「な、泣くな、ティス。其方なりに一生懸命踊っていたではないか!」
静かに首を振って泣くヘローティスを、抱きしめる。背中を撫で、頭頂に口付けを落とし、優しく囁き、懸命に慰める。
ここが個室なら、問題はありつつも、見過ごされる範囲だっただろう。しかし、女王の祝賀会の最中の、人の目も数多くある中だ。初めは驚きを示していた周囲も、徐々に冷たいものに変わっていく。
侍従に密かに告げられ、二人を見たグラディオの心中はいかなるものだったか。怒髪天を衝くという言葉にふさわしいような、そんな表情である。
本来なら、すぐさま二人を控え室にでも送り込んだだろう。しかし今は、他国からの使節のダンス中である。王配の指示で止めに入ろうとした侍従も、周囲の注意を引くような大きな動きはできない。自国の恥は隠したいが、そのために騒ぎ、視線を集めたら意味がないのだ。
「……ありがとう、ございます、ユピテル様」
ぽつり、と呟いたヘローティスの背を再度撫でる。ようやく、と、よかった、が綯い交ぜになった内心を明かすことはない。
落ち着いたか、と尋ねかけ、視界の端を通った、風に揺れる白百合のような優雅な歩みに目を奪われた。見慣れた姿に、見慣れない色合いのドレス。
その手を取るのが自分ではないことに、わずかの違和感を覚える。しかしそれ以上に、揃った歩みに、呼吸に、気圧されてしまった。
どこからか、ほぅ、と漏れた感嘆の吐息が聞こえてくる。会場中の視線が、二人に釘付けになっていた。
会場の中央で一礼した二人は、曲に合わせ、動き始める。
無様な足音など、聞こえない。
無理なリードも、ありえるはずがない。
ふわ、と揺れる裾捌き。一定の身体の距離。止まり、動き出すタイミング。
どれも一欠片の瑕疵すら見つけられない。
時折目を合わせ、恥ずかしげに頬を染める姿が初々しく、近寄り難い完璧さを、血の通ったものにしていた。
曲が終わり、礼をした二人に向けられるのは万雷の拍手である。どちらが王太子か、わかったものではない。
次の者たちのため、中央から離れても二人から注目の視線は外れない。周囲の貴族たちも小さく囁きを交わす。流石殿下、流石オルシーニ侯爵令嬢、と讃える声が至る所で聞こえてくる。
過去に共に踊ったときより、ヘラクレアはのびのびと、相手のリードに任せていたような、と過ぎったが、周囲の囁きにかき消された。
「ドレスや新しい装飾品も、流行りの繊細な模様がお美しいですわ」
「それだけではなくってよ。殿下のお袖をご覧になって」
「まぁ! もしやあれは揃いで……?」
「なんて素敵なのかしら!」
興奮したさえずりに、周囲の視線もついついそこへ向かう。
金の耳飾りと、金のカフス。色だけでなく、似た輝きを返すそれに、周囲の熱がさらに上がる。先ほどの頬を染めていた姿や、揃いの装飾品に、ただの代替の政略ではなく、もしや思いの通った関係では、と。
以前ミネルウァは、新たな流行を女性だけのものとせず、男性貴族にも広げていた。ヘラクレアもまた、異なる方法で広めようとしているのだ。
王族へ嫁ぐ女性として、流行の創造は外すことの出来ない能力である。流行を生むことで国内の産業を活気づかせ、経済を回すことは、民に支えられている王族の大切な役目の一つであった。
しかし、揃って輝く金色は、ユピテリスの目には眩しすぎた。
「痛ッ、」
「っ! すまない、」
悲鳴を上げたヘローティスに、ユピテリスは慌てて謝る。無意識に手にこもった力は何故か、考えることはなかった。
「ユピテリスの容態は?」
昼下がりに届いたのは、婚約者との逢瀬を楽しんでいたユピテリスが倒れたという知らせだった。駆けつけた侍医らが手当をし、命に別状はないと報告を受けていたが、治療をした当人からの話を聞くまでは分からない。
「先ほど意識は戻られましたが、酷く衰弱なさっております」
報告はいいものとは限らない。
予断を許さない知らせに、宰相メティオスも厳しい顔である。
「何においても殿下の回復が最優先だ。手を尽くせ」
「承知いたしました」
深く頭を下げた侍医を行かせ、メティオスはひとつ、ため息をついた。
「陛下、いかがなさいますか」
「干ばつの兆し。北のヴァルホルムのきな臭さ。先日の祝賀会での言動。今この国を揺らすことは許されぬ」
「では……」
「致し方がない。ユピテリスにはしばしの静養が必要であろう」
実の子が毒で倒れ、容態も安定しないというのに、その表情は落ち着き払っていた。凪いだ湖面のような、常と変わらぬ様子である。
また、メティオスも先ほどの厳しい気配は消え失せ、動揺の欠片もみられない。
まるで、今日不幸が起こることを予見していたようである。
「回復に専念できるよう、落ち着いた環境をすぐにでも整えさせましょう」
出歩くと治りが遅くなるやもしれぬゆえ、行動範囲を制限し。
多くの者と会うと消耗するだろうから、会える相手を制限し。
心安らかでいるため、外の情報を制限し。
あぁ、異変に気付けるよう、部屋の外には人を常駐させねば。
『落ち着いた環境』で、ユピテリスに残る自由はいかほどなのか。
「そうだな……。あぁ、ユピテリスの政務はパルシアスに回せ。ヘラクレア嬢とであれば滞ることはないだろう」
王妃となるべく、足りぬ王の補佐を学んできた少女である。経験の少ないパルシアスの良き支えとなるだろう。
また、共に政務を行う中で、徐々に互いを知ることもできる。
王侯貴族の婚姻はほとんどが政略であり、そこに愛は必要ない。女王夫妻のような、相手に欠けらも気持ちのないような、そんな夫婦もゼロではない。
王族の婚約者は、本来ならば幼い頃から適正や相性を見つつ、慎重に選ばれるものだ。しかし、父に疎まれたパルシアスはその機会を得られなかった。後ろ盾を得て、ユピテリスの立場を脅かすことのないように、と。
「念の為、前セウェルス伯に目付を指示されてはいかがかと存じます」
「フォボスか……王太子教育の一環として受けてくれるとよいが」
博識で名高い前宰相には、ミネルウァ自身、即位後に大いに助けられたものだ。立場としては上であるが、その意志を無視して命じるなど、とてもではないができたものではない。
ユピテリスの王太子教育も、礼を尽くし、頼み込んでようやく受けてもらえたのだ。交渉の余地はあるだろうか。
「当家の蜜酒を幾本かお持ちしました。よろしければお納めください。あぁ、一本はパルシアス殿下に」
「……其方は本当にそつがない」
「お褒めに預かり光栄です」
アウレリウス公爵領の蜜酒は、その華やかな香りで非常に人気が高いものである。その中でも最高級のものは、甘やかな香りと鮮烈な味わいで、一口飲んだら忘れられないとまで言われていた。年に十本も作れぬゆえに幻と呼ばれるそれは、無類の酒好きとしても有名なフォボスを頷かせるだけの力があるだろう。
また、蜜酒は滋養強壮によく、そして古来より、子宝を願って飲まれることも多い。これから忙しくなるパルシアスにも、良い贈り物となるに違いない。
武よりな性質のグラディオには望むべくもない、細やかな配慮である。
「……其方があと五年早く生まれていれば、な」
「仮定の話ほど無意味なものはありません」
「他では言わぬ、捨て置け」
「いえ、私の心の内に、確かに」
共犯者になった彼らにとって、仮定の話は意味がない。もし年回りが良ければ、と有り得なかった過去を夢見ても、現実を突きつけられるだけだ。
病める時も健やかなる時も、共に過ごす相手は互いではない。
空気を変えるように、冗談めかして問いかける。
「あぁ、メティオス、其方自身でパルシアスを見極めなくてよいのか?」
「血は水より濃いと申します。至上の土壌に比類なき種ですから」
「抜かせ」
ふ、と小さく零れた息には笑みの色がある。
二十年近く前のあの夜が、きちんと男の中に根付いていることが無性におかしかった。今まで、欠片でさえ匂わせることのなかったメティオスも、あの夜を忘れることはなかったのだ。
「あの者はいかが致しますか?」
メティオスの言葉に互いの柔らかな気配は消え去った。
王族が倒れる直前に食事を共にしていたのだ、当然その身柄は押さえてある。まだ尋問は始まっていないと思われるが、それも時間の問題だ。
彼女は一向に罪を認めないだろう。傍から見た際にどう思われるかも考えずに。
彼女の無実を知る者は二人以外にはいない。
「役を終えた者は舞台には要らぬ」
「ならば、神の御元か程近くに」
言葉通り、興味はない。
グラディオの調えた磐石の婚約を壊す決定打になったことは、欠片ほど感謝はしている。しかし、だからといって駒に配る心はない。
軽く手を振り、メティオスに処遇を任せる。
「王族の毒味法も確認いたします。また、此度のように食器を狙われては困りますから」
「そう急くな。まだ、あの者は口を割っていないのだから、な」
「失礼致しました。尋問官も勤勉でしょうが、一昼夜経っても口を割らないならば、私も様子を見に伺います」
メティオスが行けば、間違いなく、毒を盛った方法がわかるに違いない。牢から出てきたメティオスが証言すれば、彼女があとから、何も言っていないと『発言を翻し』ても無駄だ。毒を盛った方法をメティオスが『聞き出せ』て、証拠も上がるのだ。
暗殺犯は彼女になる。
「ふ、其方の勤勉さも報いたいほどだ」
「ならば、お傍に侍る栄誉でもいただけますか?」
時が止まったような数瞬ののち、どうにか絞り出す。
「……其方、」
メティオスは社交用の笑顔だが、ほんの僅かに後悔の苦さが滲んでいた。二十年前ならば。あるいは、パルシアスがいなければ。
根拠のない噂程度とはいえ、血統に疑惑のある中で、パルシアスは王太子の代行をせねばならない。政務に慣れたヘラクレアもいるが、けして楽なものではないだろう。パルシアスと同じ色を持つ男が王家に近づけば、よけいな雑音で政務に差し障りが出る可能性がある。
瞳を伏せたメティオスは、そして、迷いを断つように言う。
「戯れが過ぎました。処罰なら如何様にも」
「……いや、我も、心の内のみに」
どこまでいっても唯の共犯者であり、互いの唯一になることはない。花の盛りはとうに過ぎ、新芽の芽生えを願う二人に許されるのは、共にパルシアスを守り導くことのみである。
「あぁ、あの方にも、身体に良いものを召し上がっていただきましょう。せめて、次代が落ち着くまでは」
「万が一は起こさせぬが、な」
「ええ、あくまで静養のために」
静養には、滋養に満ち、臓腑に優しい食事が欠かせない。肉や魚より野菜中心の粥の方が向いているだろう。飽きたなどと文句をつけられぬよう、慎重に手筈を整えねば。
これからはアレがパルシアスの代替品だ。
御輿が崩れたことで、かの派閥も多少は大人しくなるだろうが、まだ油断はできない。少しでも力を削げるよう考えていかねばならぬ。現在の武よりの『強さ』を尊ぶ者からは、その力を削ぐことが肝要だ。
言外の部分まで指示書に記す筆記具が、メティオスの手の中で銀に光る。細工師に指示した通り、王家の紋章と、メティオス、と名のみが細かな筆致で描かれている。虹に煌めくその紋は、武骨な男より、この男の方が遥かに似合っていた。
あの頃は、互いに、一人分を受け入れる余地もないほど、抱え込んだもので腕が埋まってしまっていた。そしてそれは、どれも投げ捨てるわけにはいかないものばかりだった。
つくづく惜しいが、他に手はなかった。そして今も、これからも、交わることはない。
ただでは捨てられぬ望みを僅かばかり、他者に察されない程度に示すことしかできないが、この男には十分に伝わるだろう。二人の間では、それ以上は望み得ない。
服の下で揺れる、ミネルウァを守る銀細工は、筆記具とよく似た虹色の光を返していた。
カタン、という音で、ふと現実へと引き戻された。戸につけられた窓が開き、昼食が差し込まれた音である。日に三度届けられるそれは、ユピテリスへの母の最後の愛であった。
魔法の盛んな隣国や科学の発展した他国では、青い薔薇は「神の祝福」や「夢叶う」といった意味があるらしい。しかし彼は、魔法の奇跡も、科学の恩恵も、何一つ持ってはいなかった。
再び見上げた空は鋼に切り取られ、確かに彼に相応しい青い色をしていた。
第二王子パルシアス:逆境を跳ね除け、全てを手に入れた。
侯爵令嬢ヘラクレア:常に努力した彼女の元には、青薔薇が咲き誇った。
第一王子ユピテリス:幸せな夢を見たまま、全てを失った。
男爵令嬢ヘローティス:歌劇の主人公にはなれなかった。
王配グラディオ:自分の油断から後手に回り、血を分けた子には二度と会えなくなった。
宰相メティオス:全てはあの方の御心のままに。
女王ミネルウァ:次代の憂いを全て除き、ようやく一人の人間に戻ることができた。




