第3章 : 存在してはならない学校
明るい朝の日差しが、希望に満ちた光で校舎を照らしていた。
……けれど、残念ながら、それは私のための光ではなかった。
歩き始めると、周囲の視線が一斉に私に集まった。
彼らが見ているのは私の顔ではない。
首や腕を覆う包帯だった。
反対方向から歩いてくる生徒の中には、足を緩める者もいた。
スマートフォンを見ているふりをする者。
声を潜めることなく、ひそひそ話をする者。
「見て、首も腕も包帯だらけ。何があったの?」
「階段から落ちたんじゃない?」
「なんであんな格好で学校に来てるの?」
「……気味悪い」
私は振り返らず、そのまま歩き続けた。
彼らの囁きを、無視する。
一歩進むごとに、胸の包帯がきつく締めつけられる。
右胸の包帯は、深く息を吸うたび、肩を動かすたびに食い込んだ。
今朝飲んだ薬は、焼けるような感覚を抑えているだけで、完全に消してくれるわけではない。
怪我をしてから、もう二週間が経っていた。
傷は回復の兆しを見せていたし、家にいても何もすることがなかったから、私は学校に来ることにした。
部屋には、マットレスしかなかった。
趣味を示す物は何一つなく、玄関の近くに置かれていたのは、本と文房具の入った通学鞄だけ。
なぜ、そこにあったのかはわからない。
私は無意識に、胸元の名札に触れた。
そこには、こう書かれている。
――夏目コハル 2-B。
その名前は、まだ舌に馴染まない。
けれど、クラスが書いてあったおかげで、探し回らずに済んだ。
私の持つ記憶は、曖昧な断片ばかりで、知らないことだらけだった。
たとえば、この学校がどこにあるのかも知らなかった。
私は、通りがかりの女性に道を尋ねた。
「すみません……神奈川中学校は、こちらで合っていますか?」
彼女は私の首と手の包帯を見てから、顔を見る。
何かを言うのをためらっているようだった。
「……自分の学校の道、忘れちゃったの?」
私は、ぎこちない笑顔で答えた。
「黒竜封印の儀式の後、初めて外に出たので」
私たちは、しばらく黙って見つめ合った。
やがて、彼女が沈黙を破る。
「……よくわからないけど、コスプレみたいなものよね?」
私は、その言葉にただ微笑んだ。
それでも、彼女は正しい方向を教えてくれた。
中二病的な言葉遣いには、まだ慣れていない。
これが初めて使った時だったから、少し恥ずかしかった。
でも、薬を守るためなら、どれだけ恥ずかしくても耐えられる。
廊下をしばらく探し回り、ようやく2-Bの教室を見つけた。
扉を開けた瞬間、教室の中の声が一斉に静まった。
何十もの視線が、同時に私へ向けられる。
耳元で、はっきりと囁き声が聞こえた。
「ほら、来たよ」
「夏目さんだよね?」
「まだあんな感じなの?」
「どれだけひどい事故だったら、あんな包帯になるの?」
私は、しばらく入口に立ったまま、教室を見渡していた。
そのとき、背後から声がした。
「ちょっと、邪魔。通れないんだけど」
驚いて、反射的に脇へ退く。
紫色の長い髪の少女が、私の横を通り過ぎていった。
すれ違いざま、彼女の声が聞こえた。
「……変」
私は、呆然と彼女を見つめたまま、やがて教室に入った。
コハルが普段どこに座っていたのか、わからない。
結局、私は教室の隅に立ち、チャイムが鳴るまで、生徒たちが席に着くのを眺めていた。
時折、誰かがこちらを見るが、視線を返すと、すぐに逸らされる。
……そんなに、私はおかしいのだろうか。
ほとんどの席が埋まった頃、ようやく、最初から目の前にあった空席に気づいた。
そこへ行き、腰を下ろす。
少し遅れて、教師が教室に入ってきた。
彼は私を見るなり、驚いた様子だった。
「夏目さん?」
私は顔を上げる。
「その状態で登校して……大丈夫なのか?」
私は、静かだがはっきりと答えた。
「私の体は、黒竜の炎の呪いを抑えています」
数人の生徒が、くすくすと笑い、罵声を投げた。
「頭おかしいだろ」
「病気の後に壊れたんじゃない?」
「変な女に変な脳みそ。最高の組み合わせだな」
「ははは」
教師は、ため息をついた。
「……何かあったら、保健室に行きなさい」
私は、ただ頷いた。
やがて授業が始まり、教科書を開くよう指示が出る。
*
授業は、いつも通りに進んだ。
それが、妙に不思議だった。
内容は、普通に理解できる。
津丸明夫としての記憶は、完全には消えていなかった。
それが、大いに助けになっている。
チャイムが鳴り、昼休みになった。
教師は授業を終えると、すぐに教室を出ていく。
途端に、教室は騒がしくなった。
談笑する者。
一緒に昼食を取ろうと誘う者。
机をくっつけて弁当を広げる者。
私は、隅からそれを眺めていた。
誰一人、知らない。
記憶の断片には、中学校の光景がほとんどなかった。
コハルに親しい友人がいたのかもわからない。
そして、誰も私に話しかけてはこなかった。
私は、学食へ行くことにした。
この体になってから、家の外で食事をするのは、たぶん初めてだ。
学食は、生徒の流れについて行けば、すぐに見つかった。
中は、人で溢れていた。
空のトレーを持ち、長い列に並ぶ。
トレーが、やけに重く感じられた。
まだ、体調が万全ではないのだろう。
数分間、空席を探して歩く。
クラスの生徒も何人か見えたが、誰も知らないので通り過ぎた。
やがて、隅の席から立ち上がる生徒を見つける。
私はすぐにそこへ向かい、トレーを置いた。
トレーの上には、味噌汁、白ご飯、焼き魚、炒め野菜、牛乳。
私は箸を取った。
味噌汁から、薄く湯気が立ち上っている。
焼き魚と炒め野菜の匂いが、一気に鼻を満たした。
なぜか、胸が締めつけられる。
私は、しばらくトレーを見つめていた。
家では、冷めたお粥や、母が置いていった残り物しか食べていなかった。
でも、今目の前にある食事は違う。
量も多く、色も豊かで、匂いが強い。
「大丈夫……ただの昼ご飯」
小さく呟く。
まず、白ご飯を取ろうとした。
米粒が、いくつもくっついて見える。
箸が触れた瞬間、手がわずかに震えた。
口に運ぶ。
温かく、淡白な味。
噛む。
噛む。
いつ、飲み込めばいいのかわからなくなる。
粒が舌の上でばらばらになり、一つにまとまらない。
顎が痛くなるまで噛み続け、ようやく飲み込む。
喉が、きつく締まった。
途中で、何かに引っかかるような感覚。
私は口を手で覆い、俯いた。
胸が重い。
圧迫されるようで、息苦しい。
無理に飲み込もうとすると、胃が不快になる。
浅く、短い呼吸。
周囲を見る。
皆、普通に食べ、笑っている。
私だけが、うまくいかない。
……どうして、私だけ?
……何がおかしいの?
視線を戻す。
焼き魚は脂で光っていた。
匂いが、強すぎる。
箸で身をほぐす。
小さな一切れを口に近づけた瞬間、魚の匂いが鼻を突いた。
「……っ」
息を止める。
喉が、また締まる。
酸っぱい味が舌の奥に込み上げる。
慌てて箸を置き、口を閉じた。
数秒、じっとして、治まるのを待つ。
「落ち着いて……ここで吐かないで……」
テーブルの端を握る。
少し落ち着いた後、今度は炒め野菜を試す。
柔らかく、油で湿っている。
魚の油の匂いが、嗅覚を刺す。
無理やり一口入れる。
一回。二回。
……止まった。
鋭い苦味が、口の中で弾けた。
油の匂いが、息とともに込み上げ、喉を締めつける。
間に合わなかった。
短い一度の反動で、口の中のものがトレーに戻った。
私は前かがみになり、息を荒くする。
これ以上は無理だ。
無理に続ければ、全部出てしまう。
箸を持ったまま、ほとんど手を付けていない食事を見つめる。
そうして、三十分が過ぎた。
頭がふらつき、体が軽い。
手が冷たい。
続けられない。
口に入れるたび、体が拒絶する。
家では、こんなことはなかった。
「……どうして……」
頭がズキズキする。
立ち上がろうとすると、脚が震えた。
トレーを持ち、返却口へ向かう。
他の生徒たちは、躊躇なく残り物を大きな容器に捨て、金属音を立ててトレーを重ねる。
私は、下を向いた。
残飯が落ちる音が、やけに大きく聞こえる。
誰かに見られている気がした。
怒りではない。
ただ、静かな視線。
私は、いつもより早く手を動かした。
トレーは、軽くなった。
胃は、空っぽのまま。
胸が、落ち着かない。
「……食べ物を無駄にした……」
理解できない自分が、怖かった。
振り返らず、その場を離れた。
足早に向かったのは、教室ではなく、トイレの廊下。
吐き気ではなく、じわじわとした恐怖が胸を締めつける。
ポケットの中の黒い薬瓶だけが、現実のすべてだった。
まだ五分ある。
私は、ほとんど走るように向かった。
トイレに入った瞬間、洗面台の前にいた女子生徒たちとぶつかりそうになる。
会話が止まり、視線が集まる。
「来たよ」
「夏目さんでしょ」
「薬臭い」
「黒竜に取り憑かれてるって噂?」
「気持ち悪」
「近づかないほうがいいよ」
「目、完全におかしい」
「夏目より、ナツボンのほうが似合うんじゃない?」
笑い声。
天気の話でもするみたいに、軽い言葉。
胸が、ぎゅっと締まる。
私は何も言わず、個室に入り、鍵をかけた。
熱が胸から肩へ広がる。
油と苦味の感覚が、また口を満たす。
薬瓶を取り出すが、汗で指が滑り、錠剤を一つ床に落とした。
泣きそうになりながら拾い、すぐに口へ放り込む。
飲み込むと、胸の熱がゆっくり引き、油と苦味が嘘のように消えた。
私は壁にもたれ、しばらく動かなかった。
全身に、安堵が広がる。
そのとき、チャイムが鳴った。
私は慌てて立ち上がり、ドアを開けようとした。
……開かない。
凍りつく。
「……え?」
安心感が、一瞬で消え、冷たい恐怖に変わる。
引く。
開かない。
もう一度、強く引く。
息が荒れる。
「開いて……お願い……」
返事はない。
外は、異様なほど静かだった。
このまま出られなかったら――
思考が止まる。
胸が、また締めつけられる。
最後の力で、もう一度引いた。
蝶番が、軋んだ。
扉が、突然開いた。
バランスを崩し、後ろによろめく。
濡れた床で足を滑らせ、個室の中へ倒れ込んだ。
腰から背中へ、痛み。
唇を噛み、声を殺す。
震える手で立ち上がる。
トイレには、誰もいなかった。
制服を整え、急いで出る。
……遅刻して、教室に戻った。
扉を開けると、ざわめきが消えた。
視線が、また集まる。
胸が、さらに重くなる。
「夏目さん」
教師が呼ぶ。
「どこへ行っていた?」
数秒、立ち尽くす。
理解されない言い訳しか、思いつかない。
「……すみません」
小さく言った。
「黒竜の炎の封印が、浄化室で不安定になっていました」
笑い声。
「またか」
「完全にイカれてる」
教師は眉をひそめた。
「意味がわからない」
一瞬見つめ、席を指す。
「座りなさい。騒ぎを起こさないで」
ぎこちない足取りで、席に戻る。
脚は震え、手にはトイレの石鹸の匂い。
舌には、薬の苦味。
私は机を見つめ、何事もなかったふりをした。
*
教師の話は、何一つ頭に入らなかった。
窓の外で走る生徒たちを眺める。
笛や叫び声が、別の世界の音みたいに遠い。
トイレでの出来事が、頭から離れない。
最初に目覚めたときの記憶――
血まみれで、暗い部屋で、耐え難い痛み。
もし、今がこうなら……
彼女は、どうやって生きてきたのだろう。
この二週間は、あまりにも長かった。
チャイムで、時間が過ぎていたことに気づく。
すぐに、また扉が開いた。
次の授業ではない時間。
入ってきたのは、別の教師だった。
「夏目さん、体調はどう?」
私は、わずかに頷いた。
彼女は紙の束を掲げる。
「今日は来られてよかったわ。これを配ります」
机に紙が置かれる。
「卒業後の進路についての、簡単なアンケートです。三年生の試験前までは変更できます」
机の上の紙を見る。
進路希望調査。
適当に書こうとして、ある名前が目に留まった。
「……花弁学園?」
息が止まる。
それは、コハルの記憶ではない。
この体に入る直前、私自身の記憶。
風早カイトが通っていた、あの学校。
手が震え、紙がくしゃっと音を立てる。
はっきり書かれている。
偶然なはずがない。
もし、入れ替わりが本当なら。
包帯の下で、胸が脈打つ。
恐ろしい繋がりが、頭の中で形を成す。
もし……
学校が存在するなら。
物語が存在するなら。
――一番怖いのは、
夏目コハルは、その物語に登場するのか?
私は、指先が白くなるほど、紙を握りしめた。
こんにちは、作者です……。
ここ一週間ほど少し忙しくて、更新が遅れてしまい、すみません。空いた時間を使って、少しずつアイデアを書き留めていました。
昨日、ようやく原稿を書き終えて、そこから少し推敲をして、先ほど完成しました。
未熟な書き手で本当に申し訳ありません……ふふふ。どうかお許しください。
今後は、最低でも週に2話投稿できるよう、スケジュールを改善していくつもりです。
1話を書くのに3日ほどかかってしまいます。頭の回転が他の作家さんほど良くないのと、あくまで趣味で書いているためです。
次の章から、いよいよ物語の本編――
**「花弁(Hanabira)」**へと入ります。
ついに、Happinessです。やったー。




