第2章:地獄第九階層の守護者の誕生
足音が行き交い、子どもたちの笑い声に大人たちの声が混ざっていた。
私は、二つの大きな影の間で、小さな歩幅で歩いていた。
立ち止まり、顔を上げる。
首の長い動物が、目の前に立っている。
「ねえ、あれ。どうして首が長いの?」
ぼやけた顔の男が、微笑みながら上を指さして答える。
「上の木の葉を食べるためだよ、コハル」
「どうして草を食べないの?」
今度は、隣にいる女性がやさしく答えた。
「木の葉のほうが甘いのかもしれないわね」
「でも、どうやって水を飲むの? 水は下にあるのに」
「首を曲げるのよ」
そうして歩き続け、アイスクリーム屋の前に着いた。私は、店員がアイスを作る様子をじっと見ていた。
「コハル、アイス食べる?」
「うん」
「じゃあ、何味にする?」
「チョコレート」
女性はすぐに私を抱き上げ、屋台の前まで連れて行った。
「ほら、早くしてよ、ママ――」
*
新しいクラスメイトが来た。
砂場の近くで、一人で遊んでいる男の子に気づいた。私は友だちと相談して、一緒に遊ぼうと声をかけることにした。
「ねえ、一緒に遊ばない?」
私はにっこり笑って、後ろに立っている友だちを指さした。
彼は私の後ろを見て、こくりと頷いた。
「こっちおいで。一人で遊ばないで、一緒に遊ぼう」
私はその子の手を取って、友だちのところへ連れて行った。
「名前は? 私はコハルだよ」
歩きながら、私は彼に名前を聞いた。
「……カイト」
*
私はクローゼットの中に隠れていた。
ママとパパがキッチンに来たら、驚かせるつもりだった。
でも、突然、外でガラスが割れる音がした。
「私たちのこと、愛してないの、マサト!?」
「愛してないってどういう意味だよ! もちろん愛してる!」
「じゃあ、さっきあの女と何してたの!?」
体が震えた。
膝に顔を埋め、腕で強く抱え込む。
ただ、早く終わってほしいと、それだけを願っていた。
*
「放課後、あなたの家に行ってもいい?」
「え? もちろんだよ。ねえ、コハルちゃん。お父さんが新しい映画を買ってくれたんだ。右手に《黒竜の炎》の力を持つヒーローの話なんだよ」
「ほんと? 面白い?」
「もちろん! 絶対気に入るよ」
「じゃあ、家で待っててね」
「うん」
二人で笑った。
*
「ねえ、約束しない?」
「いいよ」
私は家で見つけた、二本の赤い糸を取り出した。
小指に、それを結ぶ。
「私の言う通りにして、カイトくん」
隣に座り、微笑みながら言う。
「ゆびきりげんまん
うそついたら針千本のーます
ゆびきった!」
「助け合おうね、カイトくん。約束」
「うん、約束」
彼は笑って答えた。
私は瞬きもせず、カイトを見つめていた。
小指は、まだつながったまま。
胸が、じんわりと温かかった。
この約束が、本当に私たちを同じ場所に留めてくれるような気がした。
*
胸の熱が、私を記憶から引き戻した。
私ははっと目を開く。
横になっていた場所は、涙で濡れていた。
ずっと夢を見ていた。
本当に、そこにいたかのように。
「……今のは、何の夢?」
夢というより、ずっと昔の記憶みたいだった。
どれくらい横になっていたのか、わからない。
思い出せるのは、断片だけ。
舌に残る苦味。
遠くから聞こえる母の声。
そして、また闇。
眠る前に起きたことを思い出す。
熱。
燃える感覚。
焦げる匂い。
突然、胃がひっくり返るようにうねり、吐き気がこみ上げた。
必死に、飲み込む。
息をするたび、胸が脈打つ。
内側から掴まれているみたいで、浅い呼吸しかできない。
起き上がろうとしたが、痛みで弾き返された。
体は諦め、視線だけが彷徨う。
部屋は以前と同じ。
ただ、今は少しはっきり見える。
視線が光の源に向かう。
マットレスの真上にある、換気用の小さな窓。
暗すぎて、壊れたランプの光も弱く、今まで気づかなかった。
換気口からの光が、直接目に入る。
眩しすぎて、顔を背けても、鉄格子の影が視界に残る。
静けさが耳を圧迫し、自分の心臓の音がやけに大きく聞こえた。
私は弱々しく手を上げ、青白い手のひらを見つめる。
やはり、この体は私のものではない。
残された記憶が、細切れに蘇る。
笑い声。足音。誰かが名前を呼ぶ声。
その中で、最もはっきりしていた名前。
コハル。
夢の内容はほとんど覚えていない。
ただ、幼い頃は明るかった少女が、どうしてこんなことになったのか。
換気口の光が白い斑点になり、記憶の中の顔と、視界の鉄格子の影が重なっていく。
何の罪を犯したら、こんな目に遭うのだろう。
帰りたい。
父さん、母さん、壮太、置いてきたすべてが恋しい。
天井を見つめたまま、抗えない痛みに身を委ねる。
部屋を照らす光が、少しずつ強くなっていくまで。
音は、何もなかった。
やがて、扉の外から足音が聞こえる。
一歩、また一歩。
「ねえ、バカ女。もう起きてる?」
あの女の声が戻ってきて、体が一瞬で強張った。
扉が開く。
同じ顔、同じ匂い。
ただ、服だけが違う。
頭が真っ白になる。
心臓の鼓動が鈍くなり、喉に息が詰まる。
首筋から指先まで、冷たいものが走った。
「ずいぶん長く寝てたわね。三日も世話してあげたのよ。私がどれだけ忙しいか、わかってる?」
彼女は、部屋に入るつもりもなく、扉口に立っていた。
「痛い?」
笑みを浮かべる。
「火傷、まだ痛む? 熱い? 内側から刺されるみたい?」
唇の端に貼りついた笑顔。
目は空っぽのまま。
何かを待つように、動かない。
私は何も言えなかった。
ただ見つめる。
涙が、また勝手に溢れた。
数秒の沈黙の後、彼女はポケットに手を入れた。
「これ、何かわかる?」
母は、小さな透明の薬瓶を取り出した。
中には、白い錠剤。
胸が重くなる。
口を開いても、音が出ない。
「……薬」
ようやく、そう言った。
彼女は瓶を弄び、渡そうとしない。
「これを飲めば、胸の焼けるような痛みや、刺すような痛みが和らぐのよ」
それを聞いて、体を起こそうとした。
右胸に、突き刺すような痛みが走る。
喉に息が引っかかる。
無意識にマットレスを掴み、揺れる視界に耐えながら、必死に起き上がる。
背中は強張り、肩が震えた。
「お願い……もう、耐えられない……」
欲しいのは、それだけ。
胸の熱を和らげてくれる、薬。
「でもね、薬は安くないの。代償が必要よ」
「払う……払います」
考える前に、口が動いた。
「どうやって? あなたのものは全部、私のものでしょう? さて、どう払うのかしら?」
彼女の手の中で、瓶が揺れる。
錠剤が、かすかに触れ合う音。
その小さな音が、異様に大きく聞こえた。
私は瓶から目を離せなかった。
マットレスを掴む手に、力が入る。
「……何でもします、母さんのために」
「ふうん。じゃあ、絶対に逆らわないこと。私の言う通りにすること」
私は、ただ頷いた。
視線は、瓶に釘付けのまま。
「……約束します」
「覚えておきなさい」
彼女は、薬を自分の足元に置いた。
「這って取りなさい。約束がどれだけ強いか、見せてもらうわ」
選択肢はない。
体に無理やり命令を出す。
膝と手が、少しずつ前に進む。
膝が床に触れた瞬間、右胸の痛みが弾けた。
焼けた皮膚が、動くたびに引き攣れる。
息が、途中で止まる。
それでも、這い続けた。
わずかな動きで、熱が肩まで広がる。
手は震え、視線は足元の瓶だけを追う。
床の冷たさが、体の灼ける感覚と対照的だった。
ようやく、瓶が目の前に来た。
震える手で掴み、落としそうになりながら蓋を開ける。
錠剤を口に入れ、水もなしに飲み込んだ。
「ほら、ちゃんと従えるじゃない」
彼女は私の頭を撫でた。
私は、ただ彼女の足元を見ていた。
恐怖で、顔を上げることができなかった。
「あなたには、まだ返すべき借りがたくさんある。だから、ちゃんと用意してあるのよ」
そのとき初めて、彼女が薬箱を持っていたことに気づいた。
私は、小さな瓶しか見ていなかった。
母は、扉の前にいる私の横を通り過ぎ、薬箱をマットレスのところへ運んだ。
「戻ってきなさい。這って。汚い体の包帯、替えてあげるかもしれないわ」
私は顔を上げないまま、向きを変えた。
胸の焼ける感じは和らいだが、腕に力が入らず、頭がふらつく。
熱は引き、鈍い痛みが残る。
体を支えるたび、手が滑った。
ゆっくりと、マットレスへ向かって這う。
「学校には、事故で休むって伝えておいたわ」
彼女は言った。
「ほら、いい母親でしょ。感謝しなさい」
私は顔を上げた。
満足そうな表情。
「……あ、ありがとう……」
無理に、笑おうとした。
彼女の目が、冷たくなった。
「気持ち悪い顔。汚い顔を向けないで」
私はすぐに俯き、そのまま彼女の前まで進んだ。
背筋を伸ばして座る。
視線は床に固定。
もう、顔を上げなかった。
彼女は私の前に座り、薬箱を床に置く。
中身はわからない。
小瓶や金属が触れ合う音が、静かな部屋に響く。
彼女は手を伸ばした。
掌が頬に触れ、撫でる。
次の瞬間、口を掴まれた。
「二度と死のうなんて考えないこと。許さないから。
次に同じことをしたら、傷じゃなくて、顔に押し当てるわ」
瞳が揺れた。
思わず深く息を吸い、胸にまた痛みが走る。
私は何度も頷いた。
頭が、くらくらする。
「ごめんなさい……ごめんなさい、お母さん……もうしません……」
彼女は乱暴に手を離した。
何も言わず、胸の包帯を外し始める。
ゆっくりと布が剥がされ、赤く、不均一な皮膚が露わになる。
「見て、この傷。気持ち悪いでしょう?」
彼女は、わずかに笑った。
「これは、あなたがしたことへの罰。誰にも言っちゃだめよ」
そばに置かれた薬瓶を指さす。
「言ったら、もう薬はあげない」
胸が締め付けられた。
やっと痛みが引いたところなのに。
「どう隠そうが構わない。誰にもバレなければね。
明日からは、自分で処置しなさい。私は忙しいから」
私は、黙って頷いた。
彼女は、傷の手当てを始める。
触れ方は不安定で、速かったり、途中で止まったりする。
胸に何かが触れるたび、熱湯を浴びせられるような痛みが広がった。
「……っ」
「静かにしなさい」
私は息を止め、歯を食いしばる。
彼女の手は、また動き、また止まる。
彼女にとっては短い時間でも、私には永遠のようだった。
一度、目を閉じ、また開く。
何をしているのか、どこから触れるのか、いつ止まるのか。
明日は、自分でやらなければならない。
その考えが、体をさらに硬くした。
痛みは波のように押し寄せ、時折、勝手に体が震える。
何をされているのかは、わからない。
ただ一つだけ、はっきりしている。
――すべてが終わるまで、黙って覚えていなければならない。
やがて、包帯が胸に巻かれた。
彼女は何も言わず、部屋を出ていった。
床には、薬箱だけが残された。
閉まった扉を見つめ、視線を胸の包帯に落とす。
しばらくして、また足音。
皿が床に置かれ、私を見ることなく、扉が閉まった。
私は、その皿を遠くから見つめていた。
その場から、動かなかった。
聞こえるのは、自分の呼吸だけ。
薬と包帯、かすかに残る食べ物の匂いが混ざり、頭がぼうっとする。
床の皿から、目を離せない。
中身は見えない。
私のためなのか、残り物なのか、わからない。
また、空腹を感じた。
でも、すぐには動けなかった。
次は、何が起こるかわからない。
結局、空腹が勝った。
傷が開くのが怖くて、這うことはせず、体を少しずつ引き寄せた。
動くたび、胸の包帯が引っ張られ、消えきらない痛みを思い出させる。
手を伸ばすのをためらい、ようやく皿を引き寄せる。
中身は、少し冷めたお粥。
上には、小さな魚の身。
前は骨だけだったから、まだましだと思った。
震える手で、スプーンを取る。
静かな部屋に、金属が触れる小さな音。
一口、食べる。
薄味で、舌にかすかな温かさだけが残る。
数口で、胸が重くなり、喉が締まる。
止めた。
スプーンが手から滑り、皿に戻る。
それを見つめ、視線を扉へ向ける。
誰もいない。
もう一度、スプーンを取る。
一口。
また一口。
飲み込むたび、胃が不快になる。
手が、震え始めた。
壁にもたれて座る。
お粥は、半分残ったまま。
これ以上、無理だった。
意識は、先ほどの記憶の断片へ戻る。
誰か別の人のものみたいなのに、胸に温かく、痛みを残す。
私は、目を閉じた。
明日からは、自分でやらなければならない。
*
数日後、私は立てるようになった。
ただ、右手を動かすたび、胸から肩へ痛みが走る。
母がくれた薬がなければ、ここまで動けなかっただろう。
鏡の前で、視線が止まる。
青白い肌の、細い少女が映っていた。
その顔は、空虚だった。
胸から首にかけて包帯が巻かれ、両腕もぐるぐるに包まれている。
手のひらだけが露出していた。
包帯の下には、まだ薄く痣が残っている。
数日前の出来事の名残。
これが、今の私の体。
元の体に何が起きたのかはわからない。
ただ、後で見つけた家族が、ショックを受けないことを願った。
ポケットから薬瓶を取り出し、水も飲まずに飲み込む。
喉は乾いたが、もう慣れていた。
手の中で、黒く塗った薬瓶を見つめる。
母の言葉が、蘇る。
「これは罰よ」
「誰にも言うな」
「言ったら、もう薬はあげない」
「誰にもバレなければいい」
私は鏡の中の自分を見て、笑おうとした。
そして、言った。
「私は、もう津丸明夫じゃない」
「私は、夏目コハル」
「魔王城を守る、地獄第九階層の守護者」
「右手に《黒竜の炎》の力を封じたカプセルを、魔王から授けられた存在」
静かな部屋で、自分の声が奇妙に響いた。
嘘は馬鹿げている。
でも、理由を説明する少女でいるより、地獄の守護者でいるほうが、ずっと楽だった。
この物語があれば、誰の質問にも答えなくて済む。
私は、ガラスに映る微笑む顔を見つめていた。
こんにちは……作者です。更新が遅れてしまって、すみません。
とても優しそうなお母さんですね。でも、これはフィクションです。忘れないでください。
この出来事は現実ではありません……はい、本当に現実ではありません。
そして、物語のメインは学校が舞台です……。
今回は、彼女の過去を少しだけお見せしているだけです。
すでに下書きは書いてありますが、すべてを描写する必要はないと判断しました。
ところで、キャラクターを区別しやすくするために、
他のキャラクターにも髪の色を設定したほうがいいでしょうか?
物語に影響するわけではなく、ただの外見設定なのですが……。




