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第1章 : どうしてすべてがこうなってしまったのだろう

居間のドアを開けた瞬間、暖かい空気が私を迎えた。壮太の大好物であるハムのグリルの香りが、部屋いっぱいに広がっている。


「今帰ったの?」


キッチンの方から、母の声がかかった。


「うん。今日は秋祭りの後片付けで、クラスがすごく忙しくてさ。いろんなところから借りた備品を、学級委員と一緒に返しに行かなきゃいけなかったんだ」


そう答えながら、私は居間の空いているソファへ向かい、体を休めようとした。そこには、スナック菓子を食べながらテレビでアニメを見ている壮太が座っていた。


私はそのまま柔らかいソファに横になり、今日一日の活動で疲れた体を休めようとした。


「わかった。もう少し待ってね。これが終わったらご飯にするから。四十分後に庭にいるお父さんを呼んできて。どうせまた庭いじりで忙しいんでしょう」


「ええー、まだあの庭作り続けるつもりなの? 虫が家に入ってくるだけじゃない?」


私の隣に座っていた壮太が、そう言い返した。


「お母さんにも、なんであんなに庭にこだわるのかわからないわ。ネットで誰かがやってるのを見てから、急に啓示でも受けたみたいになっちゃって」


母は、父の頑固な行動について不満をこぼした。


私は母と弟の会話をただ聞いているだけだった。最初からどこかおかしかった父の行動について、わざわざ加わって愚痴る気にはなれなかった。


居間には、スポンジ・ボブのアニメの音と、キッチンで母が野菜を切る音が混ざり合って響いていた。


私はポケットに手を入れ、携帯電話を取り出した。小説投稿サイトを開き、昨夜気になっていた小説をすぐに検索する。


それは、風早カイトという名前のハーレム系主人公が、多くの好意を寄せる少女たちに囲まれる、どこにでもありそうな小説だった。人助けが好きで、心優しく、平均的に見ても整った容姿を持つ、熱血系の青年。


ありふれた内容に見えるはずなのに、昨夜それを見つけたとき、読まなければ一生後悔するような、強い引力を感じてしまった。


結局、母の料理が終わるまでの間に、今日読んでみることにした。


物語は、高校に入学したばかりの風早カイトから始まる。彼は数人の友人と、同じ高校――花弁学園に通う約束をしていた。


花弁学園は、成績さえ維持していれば表現の自由が認められる、比較的名門の学校だ。教師たちは、生徒が悪事や犯罪に手を染めない限り、行動を制限しない。多くの生徒が、有名大学へと進学していく。


カイトの初日は、同じ制服を着た少女が自転車を修理しているところに出くわす場面から始まる。彼はそのまま放っておけず、壊れたチェーンを直すのを手伝った。


やがて二人は、学園へ向かって一緒に歩きながら、自然と知り合いになる。


気づけば、三十分も経っていた。


「本当に、タイトル通りの量産型ストーリーだな」


私は小さく呟いた。


携帯の時計を見ると、まだ十分ほど時間が残っている。昨夜遅くまで起きていたせいか、少し目が疲れていた。


「壮太、十分後に起こして。ちょっとだけ目を閉じたい」


隣の壮太にそう言う。


「んー、いいけど。その代わり、起こしたら庭のお父さん呼んできてよ」


膝の上のスナックを食べながら、壮太は答えた。


「はいはい」


そう言って、私は携帯をテーブルに置き、ソファに横になって目を閉じた。



目を閉じた瞬間、奇妙な感覚が走った。


胸の奥から、急に熱が込み上げてくる。居間で流れていたアニメの音が、耳に届かなくなった。部屋に満ちていたハムの匂いも消えている。


目を開けようとしたが、まぶたが異様に重い。


「あああああ――」


胸が突然締め付けられ、声が勝手に漏れた。空気を乱暴に吸い込み、途切れ途切れに呼吸をする。


私は思わず体を折り、胸に手のひらを押し当てた。圧迫すれば楽になると思ったのに、今度は鋭く、細く、奥深くを刺すような痛みが走る。


息をするたび、胸に鋭い痛みが走り、満足に息を吸うことができない。膝から力が抜け、体は前のめりになり、ひれ伏すような姿勢で床に落ちた。


視界が狭まっていく。


数秒が過ぎたのか、それとももっと長かったのか。やがて痛みはわずかに引いた。消えたわけではない。ただ、息ができる程度に緩んだだけだ。


顔の筋肉が強張り、頭からの信号が遅れて届いているような感覚がある。


私は目を開けた。


そこには、闇しかなかった。


やがて、頭上に壊れかけのランプの薄暗い光があることに気づく。何もはっきり照らせないほど弱い光。


周囲をゆっくり見回すと、断片的な形がぼんやりと見えた。


狭い。寒い。


ソファはない。窓もない。本来あるはずのものが、何もない。


湿った空気に、酸っぱい匂いが混じっている。


床には灰色のマットレスが敷かれ、茶色い染みが広がっていた。その上には、長く使われて潰れたような、薄い枕が置かれている。


マットレスの横には、お粥の容器があった。表面には、食べ残された魚の骨がいくつも突き出ている。スプーンが、容器の横に傾いて落ちていた。


容器も、お粥も、スプーンも、黒ずんだ液体で汚れている。


私はそれを、しばらく呆然と見つめていた。


容器の近くから、何か光るものへ向かって、小さな線が伸びている。ガラスのようなそれにも、同じ黒い液体が塗りつけられていた。


何かがおかしい。


「……何が起きたの? ここはどこ……?」


私は冷たい床に両手をつき、体を支えた。床は滑りやすい。立ち上がろうとしたが、腕が震え、すぐに崩れ落ちる。


まるで、力がすべて流れ出ていくようだった。


手のひらを見る。湿っている。薄暗い光の下で、それは黒く見えた。


床で擦っても、汚れは消えない。それどころか、広がっていく。


短く息を吸った。胸が重い。


長い間、私は黙ったまま、それがどこから来たのか考えようとした。この部屋には、私以外誰もいない。音もない。聞こえるのは、自分の不規則な呼吸だけ。


最後の記憶は、ソファで本を読みながら眠りに落ちたことだった。


「ねえ、何してるの? どうしてそんなにうるさいの?」


部屋の扉の向こうから、声がした。少し掠れた、大人の女性の声。


誰……?


聞いたことのない声だった。でも、その言葉が耳に届いた瞬間、体の奥が一気に緊張した。


無視できないほど、あまりにも慣れ親しんだ感覚。


カチリ、と音を立てて扉が開く。


金髪の女が現れた。露出の多い、派手な服装。鼻を突くほど強烈な香水の匂いが、吐き気を催させる。


その姿を見た瞬間、全身が震えた。


思考より先に、体が反応した。目の前の人物を恐れろと、大音量の警告が鳴り響くように。


突然、大きな音が女の口から炸裂し、私の意識を無理やり引き戻した。


「このバカ女! 何してるの! 真夜中に叫んで、どういうつもりだ!」


頭が真っ白になった。体は動かず、その場に留まる。視線だけが彼女を見上げるが、反応するには体が重すぎた。


女は数歩で私に詰め寄ると、すぐに私の体に付着した黒い液体に目を向けた。


そして、叫んだ。


「きゃああ! 何してるの、このバカ女! 血だらけじゃない!」


髪を掴まれ、乱暴に引き上げられる。無理やり顔を上げさせられた。


女の視線が部屋中をさまよい、床に散らばるガラス片で止まった。そこにも、同じ液体が付着している。


「自殺しようとしたの!?」


右頬に、灼けるような衝撃が走った。


平手打ちで頭が横に弾かれ、体もその方向へ倒れる。


「この恩知らず! 役に立つ前に死のうとするなんて! 私がどれだけ苦労して育てたと思ってるの! あんたに使った金を全部返す前に死ぬつもり!?」


蹴りが飛んできた。


理解するより早く、馴染みのある痛みが広がる。体はうまく反応せず、何かが動く命令をすべて抑え込んでいるみたいだった。


蹴りは、何度も、何度も続いた。


私は無意識に体を丸め、痛みが全身に広がるのを耐えた。


「ごめんなさい、ごめんなさい、ごめんなさい……」


小さな声が、勝手に口から漏れた。


突然、頭に鋭い痛みが走り、意識が引き戻される。


髪を掴まれた。


女は容赦なく引きずり、暗い部屋の外へと私を連れ出す。頭皮が引き裂かれるようで、何本もの髪が一度に抜け落ちる感覚。


床を引きずられながら、少しでも引っ張られる力を弱めようと、無意識に体を動かす。それでも、わずかな動きで頭の痛みが走り、懇願の言葉が考える前に口をついて出る。


「やめて……やめて……お願い……髪を引っ張らないで……何でもするから……お願い……お母さん……!」


母?


言葉が、勝手に口から滑り落ちた。


この女の顔を知らないはずなのに、舌は正しい呼び方を知っていた。


引きずられながら、違和感を覚える。


髪が、長すぎる。記憶よりも、明らかに。


数瞬後、体は壁に叩きつけられた。


衝撃と同時に髪が強く引かれ、何本も抜け落ちる。頭皮がひりつき、温かい何かで濡れた。


痛みが爆発し、思わず叫ぶ。


「……っ」


「役立たず! 見なさい、その汚い血! 後で全部掃除させるからね! 跡が残ってたら覚悟しなさい!」


母と呼んだ女は、再び私を蹴った。


私は座り込み、両手で頭を庇い、震える体で次の攻撃に備えた。


母は台所の方へ向かう。


引きずられて初めて、そこがキッチンだと気づいた。


引き出しを開ける音、物がぶつかる音が、異様なほど耳に響く。


防御の姿勢のまま、私は自分の腕を見た。


細すぎる。不自然なほど青白い肌。あちこちに散らばる痣。


この体は、どんどん自分のものではないように感じられた。


無意識に髪に触れる。鈍い感触。肩まで伸びている。


こんな髪、覚えがない。


引き出しを乱暴に開ける音が、その思考を遮った。


「どこに置いたっけ……あのクソみたいなやつ……」


母は苛立たしげに呟く。


「生きてるだけで金食い虫のくせに」


引き出しを無秩序に開け閉めし、探し物があると確信している様子だった。


「……あった」


コンロの上の棚から、三角形の金属製の物体を取り出す。鈍く光るそれをテーブルに置き、コンセントに差し込んだ。


「服を脱ぎなさい」


「……え?」


「脱げって言ってるでしょ、このバカ女!」


私は動けなかった。


次の瞬間、蹴りが飛ぶ。


準備する間もなく体が横に倒れ、息が詰まる。


彼女は近づき、血と埃で汚れた服を掴んだ。布を乱暴に引き裂くように引っ張る。


私は抵抗しなかった。


したくないのではない。体が、命令を聞かなかった。


服が剥ぎ取られ、冷気が肌を打つ。


私は床で丸まり、反射的に腕で体を覆った。呼吸が荒れる。


母は服を握り潰し、振り返りもせずテーブルへ投げ捨てた。


私は黙ったまま、混乱する頭で自分の体を見下ろした。


体の正面に、開いた傷がある。


血が、まだゆっくりと流れている。温かく、粘つく。


今まで気づかなかった。起きた出来事を追うことで、頭がいっぱいだったから。


でも、一番おかしいのは傷だけじゃない。


体の形が、記憶と合わない。


これは……私の体じゃない。


じゃあ、私は誰の体にいる?


そして、今の私は……誰?


母はテーブルに近づき、三角形の金属を手に取った。


よく見ると、見覚えがある気がして、胸がざわつく。


「テレビで見たのよ」


彼女は言った。


「昔の戦争で、傷をすぐ塞がないと血が止まらなくて、焼いて止血することがあったんだって。跡は残るけど、生き延びられる」


最後の言葉が、頭の中で鳴り響く。


彼女の手にあるそれと、不要な記憶が重なった。


ただの鉄じゃない。


――熱した、アイロン。


私は、まだ血を流している胸の傷と、彼女の手元を見比べた。


理解してしまった。


息が荒くなる。恐怖が一気に押し寄せ、思考が白くなる。


動きたい。逃げたい。ここにいたくない。


でも、体が動かない。


自分で自分を殴ってでも、動かしたいと思った。


母は近づき、胸を庇っていた私の手を掴む。強く引き剥がし、熱した鉄を近づけてくる。


表面から、細い蒸気が立ち上る。


触れる前から、空気が変わったのがわかる。


私の手は激しく震えたが、彼女の力は緩まない。


「……お母さん……」


言葉は、喉で途切れた。


鉄が、ゆっくりと降りてくる。


遅すぎるほど、ゆっくりと。


距離が、少しずつ縮まるのが見える。


無意識に息を止めた。時間が止まることを、願うように。


そして、熱が肌に触れた。


考える前に、叫び声が飛び出した。


自分の声なのに、知らない誰かのものみたいだった。


体が強張り、背中が反り返る。抵抗しようとするが、手は押さえつけられている。


匂いが、鼻を突いた。


腐ったような、重く、刺激的な匂い。


肉が、体の一部であることを忘れ、別のものに変わってしまったような。


鼻に入り、喉に絡み、吐き気を催す。


熱は、皮膚だけじゃない。


押し込まれてくる。


骨に触れ、内側に侵入してくる感覚。


息ができない。自分が息をしているのかさえ、わからなかった。


「あああああああ……」


叫びは途中で途切れ、嗚咽に変わる。


涙が止まらない。視界が激しく揺れる。


世界が、胸の一点に収束する。


鉄は、すぐには離されなかった。


一秒一秒が、異常に長い。


近すぎる。熱すぎる。


ようやく離されたとき、空気が触れ、痛みが一気に突き抜けた。


胸が内側から殴られるように鼓動する。


短く、浅い呼吸しかできない。


焼けた匂いが、まだ鼻と喉と頭に残っている。


胃の中のものが、警告もなく込み上げた。


間に合わない。


熱く、酸っぱい液体が、食べかすと一緒に床へ吐き出された。


「何してるの、このバカ女! 床を汚すんじゃない!」


母の怒鳴り声が聞こえたが、届かなかった。


痛みが、すべてを覆い尽くしていた。


体が激しく痙攣する。


一点に積み重なった痛みが、思考を壊す。


周囲の音が、分厚い沈黙に包まれたように遠のく。


私はまだ座っていた。背中に硬いものを感じる。


手が制御できず震え、頭が軽く、視界が滲み始める。


息が詰まる。


胸が、うまく膨らまない。


焼けた匂いが、また吐き気を呼び起こす。


体から、少しずつ力が抜けていく。


座った姿勢を保てず、横へと滑り落ちる。


遠くから、歪んだ母の声が聞こえた。


「ちょっと、起きなさいよ。なんでそんなにぐったりしてるの……こんなはずじゃ……気絶するなんて聞いてないわ」


言葉は、通り過ぎるだけだった。


痛みはまだ内側で脈打っていたが、意識が耐えられない。


視界の端から、闇が侵食してくる。


頭が、垂れ落ちた。


そして、すべてが消えた。

こんにちは……読者の皆さん。作者です。

これは、文章力向上のための練習として書き始めた新作小説です。

ですが、気づけばそのまま書き続けることになってしまい、しばらくの間は文章力を磨くため、この作品の執筆に集中することにしました。そのため、『Tridia』の方は一時休載とさせていただきます。

ご安心ください。あらすじにも書いてある通り、この作品のメインストーリーは過度な暴力描写が中心ではありません。血の描写が苦手な方でも、比較的安心して読める内容になっています。

それと、この作品もふざけて書いているわけではなく、真剣に執筆しています……。

どうか、温かく見守っていただけると嬉しいです。

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