ハンドルを握る手
完結設定後も読んでいただけているのに、嬉しくなり追加しました
小田島は、会社では「すいません」が口癖の、冴えないサラリーマンだった。
上司には怒鳴られ、部下には舐められ、満員電車では足を踏まれても何も言えない。
そんな彼の唯一の逃げ場は、最近購入した中古の黒いセダンだった。
相場よりかなり安かったその車は、少しカビ臭い匂いがしたが、エンジン音は猛獣の唸り声のように力強かった。
異変は、納車初日に起きた。
交差点で、強引な割り込みをされた時だ。
普段の小田島なら、ブレーキを踏んで譲り、心の中で舌打ちをするだけだっただろう。
だが、その時は違った。
『……殺すぞ、コラァ!!』
自分の口から、聞いたこともない野太い怒声が出た。
小田島は無意識のうちにアクセルを床まで踏み込んでいた。
前の車との車間距離を数センチまで詰め、パッシングを繰り返す。
心臓が高鳴る。
恐怖ではない。
全能感だ。
前の車が怯えて道を譲る様子を見て、小田島は(小田島の中にいる「誰か」)、「ヒャハハハハ!」と狂ったように笑った。
車を降りると、小田島はいつもの気弱な男に戻っていた。
「な、なんだったんだ、今の……」
手の震えが止まらない。
だが、心の奥底で、ドロリとした暗い喜びが渦巻いているのを感じていた。
それから、小田島の人格は徐々に侵食され始めた。
最初は運転中だけだった。
ハンドルを握ると、まるでスイッチが入ったように攻撃的になる。
「遅い!退け!」
「どこ見てんだクソババア!」
暴言は日常茶飯事。
前の車を煽り、恐怖を与えることが、仕事のストレス解消になった。
小田島は気づいていなかった。
ルームミラーに映る自分の目が、運転中は三白眼になり、口角が異様に吊り上がっていることに。
そして、助手席のシートが、誰も乗せていないのに人の形に窪んでいることに。
一ヶ月が過ぎる頃には、侵食は車外にも溢れ出した。
オフィスで上司に小言を言われた時だ。
小田島の右手が、勝手に動いた。
デスクにあった重たいホッチキスを掴み、上司の目の前の机にダンッ!!と叩きつけたのだ。
「……あ?」
小田島は、上司を見下ろして低く唸った。
「うるせえんだよ。轢き殺すぞ」
フロアが凍りついた。
小田島自身も驚愕していた。
(違う、俺じゃない、口が勝手に!)
だが、その心の中で、あの「運転中の人格」が囁いた。
『いいぞ。もっとやれ。俺たちは強いんだ』
その日から、小田島は「狂犬」と呼ばれるようになった。
歩き方も変わった。
肩で風を切り、ぶつかった相手を睨みつける。
食事の好みも変わった。
生肉や濃い味付けを好み、酒を浴びるように飲むようになった。
小田島の意識は、日に日に薄れていった。
一日の大半を「彼」に乗っ取られ、記憶が飛ぶ時間が増えていく。
家よりも、車の中が落ち着く。
夜な夜な高速道路を走り回り、獲物を探すのが日課になった。
『もっと速く。もっとギリギリを。もっと悲鳴を聞かせろ』
霊の欲望は底なしだった。
それは、生前この車で事故死した、走り屋の怨念だったのかもしれない。
そして、運命の夜。
小田島(霊)は、国道で一台の高級車を執拗に追い回していた。
相手が逃げれば逃げるほど、興奮が高まる。
信号無視。
逆走。
時速140キロの狂乱のドライブ。
ウゥゥゥゥゥ――!!
背後からパトカーのサイレンが聞こえた。
一台ではない。複数台だ。
「チッ、邪魔が入ったか」
小田島は舌打ちをした。
だが、その顔は笑っていた。
「いいぜ、ポリ公。カーチェイスと行こうじゃねえか!」
パトカーとの鬼ごっこは、30分にも及んだ。
だが、最後は検問に引っかかり、スパイクベルトを踏んでタイヤがバーストした。
車は激しくスピンし、ガードレールに激突して停止した。
エアバッグが開く。
煙が充満する車内。
遠くから、警官たちの怒声が聞こえる。
「降りろ!手を挙げろ!」
小田島は、薄れゆく意識の中で、ハンドルを強く握りしめた。
(終わった……逮捕される……)
その時だった。
体の中から、フッと力が抜けた。
今まで体を支配していた、あの重く、熱く、攻撃的なエネルギーが、急速に冷めていく。
『……あーあ、面白かった』
耳元で、満足げな男の声が聞こえた。
助手席を見る。
そこには、半透明の男が座っていた。
首が変な方向に折れ、血まみれの顔をした男。
男は、エアバッグに埋もれた小田島を見て、ニヤリと笑った。
『これだけ派手にやれば、俺も未練はないわ。……最高のドライブだったぜ、"相棒"』
男の姿が、スーッと煙のように薄くなり、天井を抜けて夜空へと消えていく。
その顔は、憑き物が落ちたように穏やかで、まさに「成仏」する瞬間の安らぎに満ちていた。
ガチャン!
運転席のドアが乱暴に開けられ、警官たちに引きずり出された。
「痛い!痛い!」
アスファルトに顔を押し付けられる。
小田島は、完全な「元の小田島」に戻っていた。
気弱で、臆病で、暴力なんて振るえない、ただの小田島に。
「公務執行妨害および危険運転致死傷罪で現行犯逮捕する!」
手錠の冷たい感触。
「致死傷」?
小田島は首を回して、自分が激突したガードレールの先を見た。
そこには、自分が追い回していた高級車が横転し、炎上していた。
そして、動かなくなった人の腕が、窓から垂れ下がっているのが見えた。
「ち、違うんです……!」
小田島は泣き叫んだ。
「俺じゃない!霊が……幽霊がやったんです!俺は操られていただけで……!」
警官の一人が、侮蔑の眼差しで小田島を見下ろした。
「薬でもやってるのか?往生際が悪いぞ。ハンドルを握っていたのは、間違いなくお前だっただろうが」
夜空を見上げる。
星が綺麗だった。
あの霊は、今頃どこにいるのだろう。
地獄のようなドライブを楽しんで、スッキリして、天国へ行ったのだろうか。
残されたのは、壊れた車と、奪われた命と、
一生塀の中から出られないであろう、「凶悪なロードレイジ犯」のレッテルを貼られた、抜け殻の男だけだった。
日常がかなり忙しいので、更新できたら、、、いいなぁ




