蠱毒の箱庭【第七話】無菌室の培養
泥の中で意識を手放した私が次に目を覚ましたのは、白一色の世界だった。
天井の無機質なLEDライトが、網膜を刺す。
消毒液と、冷たい金属の匂い。
あの湿った古民家のカビ臭さは、どこにもない。
「……意識レベル、安定しています」
「バイタル正常。しかし、侵食率は推定80パーセントを超えています」
頭上から、抑揚のない声が降ってくる。
私は身じろぎしようとしたが、動けなかった。
手足、胴体、そして頭部までもが、革製のベルトで硬いベッドに固定されている。
視線を動かすと、ガラス張りの壁の向こうに、白衣を着た数人の男女が立っているのが見えた。
彼らはタブレット端末を操作しながら、まるで実験動物を見るような目で私を観察している。
「……ここは」
声を出そうとしたが、口には酸素マスクのような呼吸器が装着されていた。
私は、自分の体を確認しようと首を曲げた。
右足はない。
太ももの付け根から先が、清潔なガーゼで覆われている。
そして、左足。
あの時、泥の中で黒い糸が入り込んだ左足は――
なかった。
膝から下が、巨大な透明なカプセルの中に収められている。
だが、そこにあるのは人間の足ではない。
黒く、艶やかに硬化した「樹木」のようなものが、カプセルの中いっぱいに枝を広げ、脈動しているのだ。
(……嘘だ)
あれからどれくらいの時間が経った?
一日?
二日?
たったそれだけの期間で、私の左足は完全に「別の生き物」に成り果てていた。
ガラスの向こうのスピーカーから、男の声が響いた。
「落ち着きたまえ、相田君。君は保護されたんだ」
白衣の男――初老の、銀縁眼鏡をかけた男がマイクに向かって話している。
その目は、あの燃える家で私を見下ろしていた老婆の目とは違う。
老婆の目には狂気じみた慈愛があったが、この男の目には何もない。
あるのは、知的好奇心と、冷徹な計算だけだ。
「保護……?」
マスク越しに、くぐもった声を漏らす。
「そうだ。あの家は、ある宗教団体が管理していた非合法な実験場だ。
我々はそれを監視し、君のような被害者を救出した」
嘘だ。
救出なら、なぜこんな拘束をする?
なぜ病院じゃない?
「君は非常に貴重なサンプルだ。
右足を切断したことで、体内の『種』が危機感を覚え、爆発的な進化を遂げた。
左足への転移と成長速度は、過去のデータにない」
男は恍惚とした表情で続けた。
「あの植物は、宿主の脳と神経系を共有し、擬似的な不死を与える。
君は今、人類の進化の分岐点にいるんだよ」
「……ふざ、けるな……殺せ……」
「殺す?
とんでもない。
君には産んでもらわなければならない」
男がスイッチを押すと、ベッドが少し起き上がった。
視界が広がる。
私は、自分がいる部屋の全貌を見て、息を呑んだ。
そこは、巨大な体育館のような広さを持つ、地下施設だった。
そして、私が寝ているのと同じようなガラス張りの個室が、奥までずらりと並んでいる。
それぞれの部屋のベッドには、「人間だったもの」が拘束されていた。
ある者は全身が苔に覆われ、
ある者は頭部から巨大なキノコを生やし、
ある者は四肢が木の根となって床と同化している。
彼らは皆、生きていた。
ピクリとも動かないが、モニターの心電図だけが、
彼らがまだ「生物として活動している」ことを示している。
「ここは……」
「『苗圃』だ。
あの家のような不確定な環境ではなく、完全に管理された培養室だよ」
男は冷ややかに笑った。
「あの宗教団体は、恐怖や絶望といった感情を肥料にしていたが、非効率だ。
我々は、もっと直接的な栄養剤と、電気刺激で成長を促す」
その時、私の左足――カプセルの中の黒い樹木が、ドクン!
と大きく跳ねた。
激痛ではない。
また、あの甘美な痺れだ。
血管を通じて、何らかの薬液が注入されたのだ。
『……ココハ、イイ……』
脳内に声が響く。
あの家の地下で聞いた、多数の怨念の声ではない。
もっと若く、純粋で、そして機械的な響きを持つ、新しい「個」の声。
『……栄養ガ、タクリサン、クル……』
『……考エナクテ、イイ……』
『……タダ、増エレバ、イイ……』
左足の樹木から、無数の管が伸び、私の血管に侵入してくる。
それは、私の血液を吸い上げ、代わりに「種子」を含んだ体液を循環させているのだ。
「ああ、適合率が上がっているな。素晴らしい」
白衣の男がタブレットを見て頷く。
「相田君。
君のその左足には、あの土地の『オリジナル』の因子が強く残っている。
君から採れる種子は、最強の生物兵器になるだろう」
生物兵器。
それが目的か。
私は、自分が世界中に恐怖を撒き散らすための「親株」にされようとしていることを理解した。
「嫌だ……!」
私は暴れた。
拘束ベルトが軋む。
だが、暴れれば暴れるほど、心拍数が上がり、薬液の循環が早まるだけだった。
ふと、ガラスの反射越しに、自分の顔が見えた。
右目は、あの時のまま、赤く充血していた。
だが、今度は左目にも異変が起きていた。
左目の瞳孔が、緑色に発光しているのだ。
そして、私は気づいてしまった。
私の隣の個室。
そこに寝かされている「検体」と目が合った。
それは、全身の皮膚が樹皮化し、もはや性別もわからない塊だったが、
その目だけは、見覚えがあった。
あの、テープの男だ。
彼は死んでいなかった。
あの家から「収穫」され、ここに運ばれ、
何十年もの間、こうして生き地獄を味わい続けていたのだ。
男の目が、私を見て、微かに動いた。
口元の樹皮が裂け、声にならない声で、私に語りかけてきた。
『……逃ゲ……ロ……』
脳内に直接届く思念。
『……奴ラハ、制御……デキテ、イナイ……』
『……ココハ、管理サレタ、箱庭ジャ、ナイ……』
『……爆弾、ダ……』
男の視線が、床に向けられた。
この施設の床。清潔な白いタイルの下。
私は、強化された「植物の感覚」を使って、床下の気配を探った。
コンクリートの厚い層のさらに下。
そこには、あの家の地下よりも遥かに巨大で、濃密で、そして飢えた気配が渦巻いていた。
この施設全体が、巨大な根の上に建っている。
いや、違う。
ここに集められた何百体もの「検体」たちの根が、床下で密かに繋がり合い、
コンクリートを食い破り、一つの巨大な意思を持って、反逆の時を待っているのだ。
『……王ヨ……』
どこからともなく、声が聞こえた。
それは、隣の男の声でも、私の左足の声でもない。
施設中の全検体、そして床下の巨大な根からの呼び声だった。
『……王ガ、来タ……』
『……器ハ、満チタ……』
白衣の男たちは気づいていない。
モニターの数値しか見ていない彼らは、足元で静かに進行している
「真のパンデミック」
に気づいていない。
私の左足のカプセルに、亀裂が入った。
ピキッ。
小さな音だったが、静寂な無菌室には大きく響いた。
「ん?
カプセルの内圧が上昇している?
なぜだ、鎮静剤を投与しろ!」
白衣の男が慌てて指示を出す。
だが、遅い。
私の体内を巡る液体が、熱く沸騰する。
それは、あの家で味わった「個の喪失」への恐怖ではない。
もっと暴力的で、攻撃的な衝動。
破壊しろ。
食い尽くせ。
この無機質な白い箱を、緑と赤の地獄に変えろ。
私の右目の「赤」と、左目の「緑」が、混ざり合う。
視界が、黄金色に輝き出した。
「……相田君!何をしている!
バイタルが異常だ!止まれ!」
私はマスクの下で、ニタリと笑った。
もはや、私は相田ではない。
私は、彼らが待ち望んでいた「王」だ。
私は、心の中で、床下の「臣民」たちに命令を下した。
『……食事の時間だ』
その瞬間、施設全体を揺るがす警報音が鳴り響いた。
(続く)




