蠱毒の箱庭【第五話】地下の脈動
頭の中で鳴った「パチン」という音。
それが合図だったかのように、世界から「苦痛」が消え失せた。
呼吸が苦しいはずなのに、息苦しくない。
喉に詰まった黒い花弁が、気管支を通じて肺の奥へと根を伸ばし、酸素とは異なる「何か」を吸収しているのがわかる。
右足から伸びた根は床板を貫通し、地面の湿った土と繋がり、大地の養分を直接血管へと送り込んでいる。
ああ、なんて甘美なんだろう。
人間として生きていた頃の、あの孤独や不安、将来への焦燥感。
それらが全て、泥の中に溶けて消えていく。
私は、リビングの床に根を下ろしたまま、部屋を見渡した。
右目の視界が捉える世界は、もはや以前のそれとは別物だった。
壁紙の裏には、青黒い血管が張り巡らされ、天井のシミは巨大な眼球となって私を見守っている。
この家は、建物ではない。
巨大な「生き物の胃袋」だ。
そして私は、その粘膜に寄生する、愛すべき腫瘍なのだ。
『……キコエル?』
また、声がした。
今度は右目からではない。
床下からだ。
深く、暗い、大地の底から響いてくる、重低音のような思念。
『……オマエハ、ヨイ苗ダ……』
『……強イ……深イ……』
それは、一人の声ではなかった。
何十、何百という意識が溶け合った、巨大な集合体。
私は直感した。
これが、この土地に眠る「本体」なのだと。
あの老婆や村人たちは、この「本体」に奉仕する手足に過ぎない。
彼らは神を崇めているつもりだろうが、実際は、この巨大な地下茎に養分を運ぶ働きアリだ。
私は、その声に答えようとした。
「……あなたは、誰だ?」
口からは言葉が出ない。
代わりに、脳波が直接地下へと伝わる感覚があった。
『……我々ハ、土ダ……』
『……カツテ、人間ダッタモノタチダ……』
ぞわり、と背筋が震えた。
恐怖ではない。
畏敬に近い感情だ。
かつて人間だったものたち。
あのテープの男。
写真の父親。
そして、数十年、数百年前にここで「咲いた」人々。
彼らの意識は死滅せず、この土地の地下で菌糸のように繋がり合い、一つの巨大なネットワークを形成しているのだ。
『……寂シクナイ……痛クナイ……』
『……早ク、コッチヘ……』
『……根ヲ、伸バセ……』
誘惑が、脳を麻痺させる。
そうだ、抵抗なんて無意味だ。
このまま身を委ねれば、私は永遠の安らぎを手に入れられる。
個を捨てろ。
全体になれ。
私の意識が、地下の闇へと沈んでいこうとした、その時。
バキンッ!!
突然、リビングの窓ガラスが砕け散った。
外からの投石ではない。
部屋の中の空気が、何らかの圧力で爆ぜたのだ。
その衝撃で、ふと我に返った。
左目の視界が戻る。
そこにあるのは、血管の走る壁でも、眼球のある天井でもない。
カビ臭く、薄暗い、ただのボロ家だ。
そして、自分の体を見る。
右足はズボンを突き破って肥大化し、皮膚は樹皮のように黒く硬化している。
口からは黒い花弁を垂れ流し、涎と血にまみれた惨めな姿。
「……あ、……う……」
嫌だ。
なりたくない。
土になんてなりたくない。
私は人間だ。
相田という名前の、ただの人間だ!
理性が、最後の抵抗を試みる。
私は、動かない右手ではなく、まだ感覚の残る左手を動かした。
指先が、床に転がっていたカッターナイフに触れる。
あの時、右足を切ろうとして失敗したカッターだ。
刃を出す。
錆びついた刃が、鈍い光を放つ。
切るのか?
足を?
いや、もう遅い。
根は全身に回っている。
なら、どこを切る?
首か?
心臓か?
違う。
元凶を断つのだ。
私に甘美な幻覚を見せ、地下へと誘う受信機。
私は震える左手でカッターを握りしめ、切っ先を「右目」に向けた。
『……ヤメロ』
脳内の声が、焦りの色を帯びた。
『……痛イゾ。苦シイゾ。元ノ世界ハ、地獄ダゾ』
「うる、さい……!」
しわがれた声で、私は唸った。
甘い嘘に騙されるな。
痛みこそが、私が私である証だ。
私は雄叫びと共に、カッターの刃を右目に突き立てようとした。
ガシッ!!
私の左腕が、空中で止まった。
誰かに掴まれたのではない。
床板を突き破って伸びてきた、太い植物の根が、私の左腕に絡みついたのだ。
『……サセナイ……』
『……貴重ナ、花ダ……』
『……傷ツケルコトハ、許サナイ……』
床下から、メリメリと音がする。
畳が持ち上がり、フローリングが弾け飛ぶ。
私の周囲の床という床から、無数の黒い根が噴き出し、私の四肢を拘束していく。
カッターが手から滑り落ちる。
そして、部屋の中央。
私が根を下ろしている場所のすぐそばの床が、大きく隆起した。
腐った木材が砕け散り、床下の暗闇から、「それ」が姿を現した。
それは、巨大な花だった。
だが、花弁の一枚一枚が、人の皮膚でできていた。
中心にある雄しべや雌しべの代わりに、
無数の「人間の顔」が、ブドウの房のように密集して蠢いている。
その中の一つ。
半分溶けかかった、苦悶の表情を浮かべる顔が、私を見た。
あのテープの男だ。
その隣には、写真の父親がいる。
さらにその下には、着物を着た古い時代の女たち。
彼らは一斉に口を開き、合唱した。
「「「「オカエリ」」」」
地下のネットワークの一部が、私を迎えに来たのだ。
物理的に。
彼らの顔の下から伸びる、触手のような根が、私の体に這い上がってくる。
私の右足の根と絡み合い、融合しようとする。
それは、性行為よりも濃厚で、おぞましい結合の儀式だった。
「いやだ……いやだぁぁぁ!!」
私は絶叫した。
だが、その声すらも、彼らには「喜びの歌」として聞こえているようだった。
触手の一つが、私の顔に伸びてくる。
先端が割れ、甘い蜜のような粘液が滴っている。
それは、私の口を塞ごうとしていた。
『……混ザロウ……』
『……一ツニナロウ……』
粘液が唇に触れた瞬間。
私の脳裏に、走馬灯のように、彼らの記憶が流れ込んできた。
生贄にされた恐怖。
埋められた絶望。
土の中で長い時間を過ごした狂気。
それら全てが、私の記憶として上書きされていく。
私は、相田ではなくなる。
私は、「蠱毒の箱庭」そのものになる。
その絶望的な融合の最中。
私は、壊れた窓の外に、「光」を見た。
(続く)




