蠱毒の箱庭【第四話】開花前夜
右目の中に、異物がいる。
瞬きをするたびに、瞼の裏側で、ぬるりとした感触が擦れる。
痛みはない。あるのは、脳髄を直に撫で回されているような、耐え難い不快感だけだ。
私は洗面所の鏡の前から動けずにいた。
左目で見れば、ただの充血した目だ。
だが、右目で鏡を見ると、世界は一変する。
鏡に映る私の顔。
その周囲に、黒い粒子のようなものが漂っているのが見えるのだ。
それは埃ではない。
人の形をした、朧げな影。
私の背後、天井、そして床下から、無数の「それら」が私を取り囲み、じっと観察している。
『……モウ、スコシ……』
右目の奥から響く声が、幻覚を見せているのか。
それとも、これが「本来見えないはずのもの」が見えている状態なのか。
私は洗面台に水を溜め、顔を突っ込んだ。
冷水で感覚を麻痺させたい。
だが、水の中で目を開けると、排水口の奥から、あの老婆のしわがれた顔が、ニタリと笑ってこちらを見上げている幻影が見えた。
「うわあっ!」
顔を上げ、濡れたまま後ずさる。
水などない。
ただの排水口だ。
だが、私の精神は限界に近かった。
正常と狂気の境界線が、あの「黒い糸」によって食い破られ、曖昧になっている。
私はふらつく足取りで、再びあの遺品の部屋へと戻った。
もはや、縋れるのは過去の記録しかなかった。
あの男――前の住人は、この段階でどうなったのか。
散乱したノートの中から、最後の一冊と思われるものを見つけ出した。
表紙には『開花』とだけ記されている。
ページを開く。
文字は、もはや判読不能なほど乱れていた。
ミミズがのた打ち回ったような線の羅列。
だが、所々に、正気を取り戻した瞬間に書かれたと思われる文章があった。
『右目が見せる世界が、本当の世界なのだ』
『村人たちは、人間ではない。彼らは世話係だ。我々という「鉢植え」を管理する庭師だ』
『花が咲けば、どうなるか。私は見た』
『脳が割れる。頭蓋骨が開き、そこから極彩色の花弁が溢れ出す』
『痛みはない。あるのは、無限の幸福感と、個の喪失』
個の喪失。
つまり、死だ。それも、肉体的な死以上の、魂の消滅。
私は恐怖に震えながら、ページをめくった。
最後のページに、押し花のように何かが挟まれていた。
それは、乾燥した「人間の耳」だった。
「ひっ……」
私はノートを取り落とした。
耳だ。
干からびて、茶色く変色しているが、間違いなく人間の耳だ。
その耳の穴から、細い植物の根のようなものが伸び、ノートの紙繊維に食い込んでいた。
その時、家の外で車のエンジン音が聞こえた。
私の車ではない。
もっと重い、トラックのような音。
私は這うようにして窓に近づき、カーテンの隙間から外を覗いた。
右目で見る外の景色は、地獄絵図だった。
空は赤紫色に淀み、杉林の木々は、苦悶の表情を浮かべた人間の手足のようにねじれている。
その異様な風景の中、家の前に一台の軽トラックが停まっていた。
降りてきたのは、昨日の老婆と、数人の男たちだった。
男たちは皆、無表情で、手には農具を持っている。鍬、鎌、そして大きな園芸用のハサミ。
彼らの体からも、あの黒い粒子が立ち上っていた。
老婆が、私の部屋の窓を見上げた。
右目で見る老婆の顔は、皮膚の下で何匹もの蟲が這い回っているように波打っていた。
老婆は、窓越しに私と目が合うと、口を大きく開けて笑った。その口の中には、舌の代わりに、真っ赤な花の蕾があった。
「……収穫の準備だよ」
ガラス越しなのに、老婆の声が脳内に直接響いた。
「肥料は足りたかい?
恐怖も、絶望も、十分に食べたかい?」
男たちが、家の周りを取り囲むように散らばっていく。
ある者は床下の通気口を塞ぎ、ある者は窓に板を打ち付け始めた。
コン、コン、コン。
釘を打つ音が、私の心臓を打つ音と重なる。
閉じ込められる。
ここで、私が「咲く」のを待つ気だ。
「やめろ!
開けろ!」
私は窓を叩き、叫んだ。
だが、声が出ない。
喉の奥に、何かが詰まっている。
指を突っ込んで吐き出そうとする。
ゴボッ、と吐き出したのは、大量の黒い花弁だった。
胃の中からではない。
肺からだ。
気管支の中で、植物が成長している。
息をするたびに、花弁が喉を塞ぐ。
ヒュー、ヒュー、という喘鳴が、笛の音のように聞こえる。
『……サア、ウタオウ……』
右目の奥の声が、歓喜に震えている。
『……コノ家ノ、モットモ美シイ花ニ……』
私は、床に散らばる黒い花弁を見つめながら、理解した。
これは病気でも、寄生虫でもない。
これは、「変態」だ。
人間という種から、彼らの望む「何か」へと作り変えられる過程なのだ。
床下から、ドンドンドンと突き上げる音がする。
天井裏から、ガサガサと這い回る音がする。
壁の向こうから、村人たちの読経のようなハミングが聞こえる。
逃げ場はない。
私の肉体は、もはや私の言うことを聞かない。
右足は木の根のように床に根付き、両手は枝のように硬直して動かない。
ただ、意識だけが鮮明に残っている。
それが一番の恐怖だった。
自分が自分でなくなっていく様を、最前席で見せつけられる恐怖。
ふと、右目の視界の隅に、あの「写真の父親」が立っているのが見えた。
部屋の隅で、頭部が巨大な花となって咲き乱れている男が、私を手招きしている。
『……痛クナイヨ。早ク、オイデ……』
男の花弁が揺れるたびに、甘い、腐ったような香りが漂ってくる。
その香りを吸い込んだ瞬間、私の脳内で、何かが「パチン」と弾ける音がした。
それは、理性の切れる音か。
それとも、蕾がほころぶ音か。
(続く)




