表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
短編連作 ほら~www  作者: あさき夢みがち


この作品ページにはなろうチアーズプログラム参加に伴う広告が設置されています。詳細はこちら

23/28

蠱毒の箱庭【第四話】開花前夜

 右目の中に、異物がいる。


 瞬きをするたびに、まぶたの裏側で、ぬるりとした感触が擦れる。


 痛みはない。あるのは、脳髄を直に撫で回されているような、耐え難い不快感だけだ。




 私は洗面所の鏡の前から動けずにいた。


 左目で見れば、ただの充血した目だ。

 

 だが、右目で鏡を見ると、世界は一変する。

 

 

 

 鏡に映る私の顔。

 

 その周囲に、黒い粒子のようなものが漂っているのが見えるのだ。

 

 それは埃ではない。

 

 人の形をした、おぼろげな影。

 

 

 私の背後、天井、そして床下から、無数の「それら」が私を取り囲み、じっと観察している。




 『……モウ、スコシ……』




 右目の奥から響く声が、幻覚を見せているのか。

 

 それとも、これが「本来見えないはずのもの」が見えている状態なのか。





 私は洗面台に水を溜め、顔を突っ込んだ。


 冷水で感覚を麻痺させたい。

 

 だが、水の中で目を開けると、排水口の奥から、あの老婆のしわがれた顔が、ニタリと笑ってこちらを見上げている幻影が見えた。




「うわあっ!」




 顔を上げ、濡れたまま後ずさる。


 水などない。

 

 ただの排水口だ。

 

 だが、私の精神は限界に近かった。

 

 正常と狂気の境界線が、あの「黒い糸」によって食い破られ、曖昧になっている。





 私はふらつく足取りで、再びあの遺品の部屋へと戻った。

 もはや、すがれるのは過去の記録しかなかった。

 

 あの男――前の住人は、この段階でどうなったのか。

 

 散乱したノートの中から、最後の一冊と思われるものを見つけ出した。

 

 表紙には『開花』とだけ記されている。




 ページを開く。


 文字は、もはや判読不能なほど乱れていた。

 

 ミミズがのた打ち回ったような線の羅列。

 

 だが、所々に、正気を取り戻した瞬間に書かれたと思われる文章があった。





『右目が見せる世界が、本当の世界なのだ』


『村人たちは、人間ではない。彼らは世話係だ。我々という「鉢植え」を管理する庭師だ』


『花が咲けば、どうなるか。私は見た』


『脳が割れる。頭蓋骨が開き、そこから極彩色の花弁が溢れ出す』


『痛みはない。あるのは、無限の幸福感と、個の喪失』





 個の喪失。


 つまり、死だ。それも、肉体的な死以上の、魂の消滅。




 私は恐怖に震えながら、ページをめくった。


 最後のページに、押し花のように何かが挟まれていた。


 それは、乾燥した「人間の耳」だった。



「ひっ……」



 私はノートを取り落とした。


 耳だ。

 

 干からびて、茶色く変色しているが、間違いなく人間の耳だ。


 その耳の穴から、細い植物の根のようなものが伸び、ノートの紙繊維に食い込んでいた。





 その時、家の外で車のエンジン音が聞こえた。


 私の車ではない。

 

 もっと重い、トラックのような音。

 

 私は這うようにして窓に近づき、カーテンの隙間から外を覗いた。


 

 

 右目で見る外の景色は、地獄絵図だった。

 

 

 空は赤紫色に淀み、杉林の木々は、苦悶の表情を浮かべた人間の手足のようにねじれている。

 

 その異様な風景の中、家の前に一台の軽トラックが停まっていた。


 

 降りてきたのは、昨日の老婆と、数人の男たちだった。

 

 男たちは皆、無表情で、手には農具を持っている。くわかま、そして大きな園芸用のハサミ。

 

 彼らの体からも、あの黒い粒子が立ち上っていた。


 

 老婆が、私の部屋の窓を見上げた。

 

 右目で見る老婆の顔は、皮膚の下で何匹ものむしが這い回っているように波打っていた。

 

 老婆は、窓越しに私と目が合うと、口を大きく開けて笑った。その口の中には、舌の代わりに、真っ赤な花の蕾があった。




「……収穫の準備だよ」




 ガラス越しなのに、老婆の声が脳内に直接響いた。



「肥料は足りたかい?


恐怖も、絶望も、十分に食べたかい?」





 男たちが、家の周りを取り囲むように散らばっていく。


 ある者は床下の通気口を塞ぎ、ある者は窓に板を打ち付け始めた。


 コン、コン、コン。


 釘を打つ音が、私の心臓を打つ音と重なる。


 閉じ込められる。


 ここで、私が「咲く」のを待つ気だ。




「やめろ!

開けろ!」




 私は窓を叩き、叫んだ。


 だが、声が出ない。


 喉の奥に、何かが詰まっている。


 指を突っ込んで吐き出そうとする。


 ゴボッ、と吐き出したのは、大量の黒い花弁だった。




 胃の中からではない。


 肺からだ。


 気管支の中で、植物が成長している。


 息をするたびに、花弁が喉を塞ぐ。



 ヒュー、ヒュー、という喘鳴ぜんめいが、笛の音のように聞こえる。



 『……サア、ウタオウ……』




 右目の奥の声が、歓喜に震えている。



 『……コノ家ノ、モットモ美シイ花ニ……』




 私は、床に散らばる黒い花弁を見つめながら、理解した。


 これは病気でも、寄生虫でもない。


 これは、「変態メタモルフォーゼ」だ。


 人間という種から、彼らの望む「何か」へと作り変えられる過程なのだ。




 床下から、ドンドンドンと突き上げる音がする。


 天井裏から、ガサガサと這い回る音がする。


 壁の向こうから、村人たちの読経どきょうのようなハミングが聞こえる。




 逃げ場はない。


 私の肉体は、もはや私の言うことを聞かない。



 右足は木の根のように床に根付き、両手は枝のように硬直して動かない。




 ただ、意識だけが鮮明に残っている。


 それが一番の恐怖だった。


 自分が自分でなくなっていく様を、最前席で見せつけられる恐怖。




 ふと、右目の視界の隅に、あの「写真の父親」が立っているのが見えた。


 部屋の隅で、頭部が巨大な花となって咲き乱れている男が、私を手招きしている。




 『……痛クナイヨ。早ク、オイデ……』




 男の花弁が揺れるたびに、甘い、腐ったような香りが漂ってくる。


 その香りを吸い込んだ瞬間、私の脳内で、何かが「パチン」と弾ける音がした。




 それは、理性の切れる音か。


 それとも、蕾がほころぶ音か。


(続く)

評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

↑ページトップへ