蠱毒の箱庭【第二話】苗床
雨音と、壁を這う無数の足音に包囲された夜。
私は恐怖に突き動かされ、玄関へと走った。
こんな家に一秒たりともいられない。
財布と車の鍵だけを掴み、サンダルを突っ掛け、重い引き戸を乱暴に開けた。
「はぁ、はぁ……!」
外は漆黒の闇だった。
車のヘッドライトが届く範囲しか見えない。
私は自分の車――中古の軽自動車へと駆け寄ろうと、雨に濡れた地面に右足を踏み出した。
激痛が走った。
「ぐあっ!?」
足首を捻ったのではない。
右足の親指からふくらはぎにかけて、まるで焼きごてを差し込まれたような熱と痛みが駆け抜けたのだ。
私は泥の中に無様に転倒した。
痛みに悶えながら、右足を見る。
街灯もない暗闇の中だが、車のルームランプの明かりで、それは見えた。
私の右足の皮膚の下。親指から侵入したあの「黒い糸」が、今まさに、足首の方へと這い上がっていたのだ。
ミミズ腫れのように皮膚が隆起し、それが脈打つたびに、杭を打ち込まれるような痛みが走る。
『……デナイデ……』
脳内に、直接響くような声がした。
あのテープの男の声ではない。
もっと甲高い、複数の声が重なったような不協和音。
それは、私の足の中から聞こえていた。
『……ココデ、ソダテテ……』
私は悲鳴を上げ、這いつくばって家の中へと戻った。
外に出ようとすると痛む。
家の中に戻ると、痛みは嘘のように引く。
まるで、この家という「箱」から出ることを、体内の「それ」が拒絶しているようだった。
玄関に鍵をかけ、チェーンを二重にかける。
私はリビングで救急箱を探し出し、カッターナイフと消毒液を取り出した。
もはや、病院へ行く余裕などない。
今すぐに、こいつを取り出さなければならない。
「くそっ、くそっ!」
私は震える手で、右足の親指、爪の生え際にある侵入孔に刃を当てた。
躊躇っている時間はない。
私は意を決して、皮膚を切り裂いた。
鮮血が溢れ出す。
だが、痛みよりも恐怖が勝っていた。
傷口を指で押し広げる。
肉の間から、黒い糸の端が見えた。
私はピンセットを突っ込み、その黒い端を掴んだ。
感触がおかしい。
髪の毛ではない。
もっと弾力があり、生温かい。
「捕まえた……!」
私は力を込めて引っ張った。
ズルリ、と数センチほど抜ける。
だが、次の瞬間。
ギチチチチ!!
黒い糸が、私のピンセットを振り払うように激しく暴れた。
そして、あろうことか、自ら傷口の奥へと潜り込み、猛烈なスピードで足首のさらに上、脛の方へと移動したのだ。
「うわあああああ!」
私はカッターを放り投げ、床を転げ回った。
体の中を、異物が這いずり回る感覚。筋肉をかき分け、血管を締め付けながら、それは確実に「心臓」へと近づいている。
膝のあたりまで上がったところで、ようやく動きが止まった。
そこには、硬いしこりのようなコブができていた。
私は荒い息を吐きながら、悟った。
もう、切開して取り出せる深さではない。
私は、取り込んでしまったのだ。
呆然としたまま朝を迎えた。
一睡もできないまま、私は再びあの「遺品」の部屋へと向かった。
この状況を打破するヒントが、あの記録にあるはずだ。
散乱した大学ノートを拾い上げる。
『観察記録』と書かれたノートをめくる。
そこには、狂気じみた筆跡で、奇妙な実験の経過が記されていた。
『虫毒とは、壺の中に毒虫を入れ、共食いをさせて最後に残った一匹を呪術に使うものだ』
『だが、虫では弱い。人の怨念には勝てない』
『この土地は、湿気が多い。怨念が腐らずに発酵する』
『壺の代わりに、この家を使う。虫の代わりに、人間を使う』
ページをめくる手が震える。
『最初の検体は、失敗した。逃げ出したからだ。逃げれば、中のモノは餓死する』
『中のモノには、餌が必要だ。餌とは、宿主の「負の感情」だ』
『恐怖、絶望、焦燥。それらを吸って、モノは育つ』
『育て。育て。そして、完成した暁には、俺の望みを叶えろ』
そこまで読んで、私はハッとした。
昨夜の恐怖。
痛み。
逃げられないという絶望。
それらすべてが、体内の「それ」への「給餌」だったとしたら?
私は、自ら肥料を与えてしまっていたのか。
その時。
ピンポーン
古びたインターホンが鳴った。
心臓が跳ね上がる。
こんな山奥に、誰が?
私は足を引きずりながら、玄関のモニターを確認した。
白髪の、小柄な老婆が映っていた。
手には回覧板のようなものを持っている。
近所の住人だろうか?
「……はい」
恐る恐るインターホン越しに応答する。
「あら、新しい方ね?
回覧板を持ってきたのよ。
この辺りは班長がいないから、隣の私がね」
人の良さそうな声だった。
私は少しだけ安堵し、チェーンをかけたままドアを少し開けた。
隙間から、湿った森の匂いと、老婆の顔が見える。
老婆は、シワだらけの顔で優しく微笑んでいた。
「引っ越し早々、大変でしょう。
この辺は虫も多いし、湿気もすごいから」
「あ、はい……どうも」
私は回覧板を受け取ろうと手を伸ばした。
その時、老婆の視線が、私の右足に注がれた。
包帯を巻き、血が滲んでいる右足に。
老婆の目が、スウッと細められた。
優しげだった表情が、一瞬にして消え失せる。
まるで、熟れ具合を確認する農家のような、値踏みする目。
「あらあ……」
老婆は、嬉しそうに呟いた。
「もう、根付いたのねえ」
「え?」
「早いこと。前の人は、馴染むのに一ヶ月かかったのに。
あなたは相性がいいのね」
私は言葉を失った。
この老婆、知っているのか?
私が何か言おうとする前に、老婆は隙間から手を突っ込み、私の手首をガシリと掴んだ。
老婆とは思えない握力だった。
「逃げようとしちゃダメよ。
逃げると、花が咲く前に枯れちゃうから」
「は、な……?」
「そうよ。
あなたは、選ばれたんだから」
老婆はニタリと笑うと、掴んでいた手を離し、懐から小さな包みを取り出して、ドアの隙間から放り込んだ。
「これ、お近づきの印。……栄養をつけてね。二人分」
老婆はそのまま、足音もなく去っていった。
私は急いでドアを閉め、鍵をかけた。
床に落ちた包みを見る。
新聞紙に包まれた、重たい何か。
嫌な予感がした。だが、確認しないわけにはいかない。
震える指で、新聞紙を開く。
中に入っていたのは、
生の、赤黒い、レバーのような肉塊だった。
動物のものか、それとも……。
強烈な獣臭さが部屋に充満する。
吐き気を催したその時、
私の右足の膝のあたり。
あの「コブ」が、ドクン!と大きく脈打った。
『……タベル……』
膝の中で、何かが蠢いた。
それは、恐怖ではなく、食欲だった。
私の意志ではない。
私の体の中にいる「それ」が、目の前の肉塊を見て、涎を垂らすように、歓喜しているのだ。
私は理解した。
私は、この家の住人ではない。
私は、この家という巨大な壺に入れられた、「餌」であり、「苗床」なのだと。
(続く)




