蠱毒の箱庭【第一話】 湿った遺品
山間の集落を抜けた先、杉林に囲まれたその平屋は、常に湿気を孕んでいた。
築六十年。
元は村の有力者が隠居のために建てたというが、その後、幾人かの住人を経て、ここ数年は空き家になっていた物件だ。
フリーランスの映像編集者である私、相田にとって、この隔絶された環境は好都合だった。
都内の喧騒を離れ、締め切りに追われるだけの生活を送るには、静寂こそが必要だったからだ。
家賃は驚くほど安かった。「荷物が残ったままでよければ」という不動産屋の奇妙な条件も、掃除の手間を考えれば些細なことに思えた。
引っ越し初日の夜。
私は、前の住人が残していったという「荷物」の整理を始めた。
それは、北側の、最も日当たりの悪い六畳間に押し込められていた。天井まで積み上げられた段ボール箱。その数、三十箱以上。
箱の側面には、黒のマジックで殴り書きがされていた。
『昭和五十八年 観察記録』
『昭和六十年 検体A』
『平成元年 失敗』
「なんだこれ……研究者か何かか?」
私は埃っぽい空気に咳き込みながら、手近な箱を開けた。
中に入っていたのは、大量のカセットテープだった。ラベルには日付と場所、そして奇妙な記号が記されている。
興味本位で、私は仕事道具のデッキを取り出し、一本のテープを再生してみた。タイトルは『接触 初期』とある。
『ザーーーーー……』
スピーカーから流れたのは、単調なホワイトノイズだった。
録音レベルは低い。
ただ、部屋の空気音のようなものが延々と続いている。
「何も入ってないじゃないか」
停止ボタンを押そうとした、その時だった。
『……入った』
テープの向こうで、男の低い声がした。
続いて、ガサガサという衣擦れの音。
そして、男は独り言のように呟き始めた。
『四月四日。湿度、高い。壁のシミが広がっている。
……昨日は、人の顔に見えたが、今日はただのシミに戻っている。
奴らは、まだ気づいていない』
私は眉をひそめた。
今日の日付は、奇しくも四月四日だった。
テープの男は続ける。
『この家は、呼吸をしている。床下の通気口。あそこが気管だ。
……おい、聞こえているんだろう?』
ドキリとした。
男が、まるで「再生している私」に話しかけているような口調だったからだ。
『お前だよ。今、それを聞いているお前だ』
背筋に冷たいものが走る。偶然だ。ただの独白だ。
だが、男の次の言葉が、私の思考を凍り付かせた。
『お前、右足の親指、痒くないか?』
私は反射的に自分の右足を見た。
痒い。
先ほどから、無意識に右足の親指を、左足の踵で擦り合わせていたことに気づいた。
虫刺されか、あるいは水虫かと思っていたが、確かに猛烈に痒い。
『……そこからだ』
テープの男が、低く笑った。
『そこから入るんだよ。
……まずは皮膚の下へ。
そして、血管を通って、脳へ。
……俺は失敗した。
痒くて仕方がない。
掻きむしって、肉を削いだが、もう遅かった』
私は慌てて停止ボタンを叩いた。
バチン、という乾いた音が、静まり返った部屋に響く。
心臓が早鐘を打っている。
ただの偶然だ。
テープの内容と、私の足の痒みが一致しただけだ。
だが、右足の親指の痒みは、治まるどころか、熱を持ったように脈打ち始めていた。
私は靴下を脱ぎ捨て、親指を確認した。
虫刺されのような腫れはない。
ただ、爪の生え際あたりに、針で突いたような、極小の赤い点が一つだけあった。
「……なんだ、これ」
目を凝らして見る。
その赤い点は、ただの傷ではなかった。
皮膚の薄皮一枚下を、赤い糸のようなものが、うねうねと動いているように見えたのだ。
錯覚か?
目を擦り、もう一度見る。
動いていない。
ただの赤い点だ。
「……疲れすぎだ」
私はテープを箱に戻し、その場を離れようとした。
その時、背後の棚に置いてあった別の箱が、ゴトッと音を立てて崩れ落ちた。
中から、数冊の大学ノートと、古びた日本人形が転がり出た。
日本人形は、両目が黒く塗りつぶされ、胴体には無数の釘が打ち付けられていた。
そして、開いたノートのページには、ページを埋め尽くすほどの小さな文字で、こう書かれていた。
『見つかった』
『見つかった』
『見つかった』
『次は、お前の番だ』
私は恐怖に駆られ、部屋の電気を消して寝室へと逃げ込んだ。
布団を頭まで被る。
この家は何かおかしい。
明日にでも不動産屋に連絡して、荷物を撤去してもらおう。
いや、引っ越そう。
違約金を払ってでも出るべきだ。
そう決意して、無理やり目を閉じた。
だが、眠りは訪れなかった。
静寂の中、どこからともなく音が聞こえてくるからだ。
カリ……カリ……カリ……
それは、ネズミが柱を齧る音に似ていた。
だが、音の発生源は、天井裏でも床下でもない。
私の、右足の親指の中から、
骨を削るような音が、微かに、しかし確実に、頭の中に響いてくるのだ。
カリ……カリ……
……ハイッタゾ……
私は飛び起きて、右足の親指を鷲掴みにした。
激痛が走る。
見てしまった。
親指の爪の間から、黒い、髪の毛のような細い糸が、スルスルと皮膚の下へと潜り込んでいくのを。
それは、幻覚ではなかった。
この家にある「遺品」は、ただのゴミではない。
これは、前の住人が遺した、「感染源」だったのだ。
外では、いつの間にか雨が降り始めていた。
杉林を叩く雨音に混じって、家の外壁を、ペタ、ペタと、濡れた素足で歩き回るような音が聞こえ始めた。
一か所ではない。
東西南北、すべての壁から、その足音は聞こえてくる。
私は、包囲されていた。
(続く)




