絶対弱者
これもホラーでよろしいでしょうか?
私は、自他共に認める「理想の上司」であろうと努めてきた。
怒鳴ることなど論外。
残業はさせない。
部下の体調やメンタルには常に気を配る。
毎朝の挨拶は笑顔で、業務指示は「命令」ではなく「依頼」の形をとる。
それが、令和の管理職の在り方だと信じていたからだ。
だが、中途採用で配属された「彼」――新井が来てから、私の課は地獄に変わった。
「課長。今の言い方は、威圧的でした」
配属初日。
私が「期待しているよ」と声をかけた直後、新井は無表情で手帳を取り出し、何かを書き込みながらそう言った。
「え?威圧的……?」
「はい。『期待』という言葉は、受け手によっては『過度なプレッシャー』となります。プレッシャー・ハラスメントです」
私は驚いたが、すぐに謝罪した。
不快にさせたなら、私の配慮不足だ。
だが、それは序章に過ぎなかった。
翌日、女性社員が新井に業務の修正をお願いした時のことだ。
「先輩。今の溜息、聞こえましたよ」
「え?ごめん、無意識で……」
「無意識なら許されるんですか?不機嫌さを音で撒き散らすのは、サウンド・ハラスメントです。傷つきました。謝罪してください」
新井は、声を荒らげない。
常に冷静で、被害者としての権利を淡々と主張する。
その「正論」という名の暴力に、課のメンバーは次々と口を閉ざしていった。
「おはよう」という挨拶は、「返事を強要する挨拶ハラスメント」。
「進捗どう?」という確認は、「監視によるマイクロマネジメント・ハラスメント」。
飲み会に誘わないのは、「仲間外れにするソーシャル・エクスクルージョン(社会的排除)」。
誘えば、「業務時間外の拘束、アルコール・ハラスメント」。
私の課は、死んだように静まり返った。
誰も喋らない。
新井の顔色だけを窺い、チャットだけで業務を行う。
それでも、新井の手帳には、毎日新しい「被害」が記録されていく。
私は、新井と二人で面談を行うことにした。
もちろん、密室にはしない。
ドアを開け、録音機を置き、人事部の人間も同席させた。
私の発言は、弁護士に相談して作った「完璧な台本」通りに行う。
これなら、どんな言いがかりもつけられないはずだ。
「新井さん。君の主張は理解した。しかし、業務に支障が出ているのも事実だ」
私は、ロボットのように感情を殺して告げた。
新井は、長い間、私をじっと見つめていた。
そして、録音機が回っている前で、ニヤリと笑った。
その笑顔を見て、私は背筋が凍りついた。
それは、弱者の笑顔ではない。
狩りを楽しむ捕食者の笑顔だった。
「課長」
新井は、まるで世間話でもするように言った。
「……今、心の中で、僕のことを『面倒な奴だ』と罵りましたよね?」
「……は?」
「目が語っていましたよ。口では丁寧に言っていますけど、本心では僕を軽蔑している。
そういう『内心の軽蔑』を感じ取らせること……これ、なんて言うか知ってます?」
新井は身を乗り出し、私の耳元で囁いた。
「……『存在否定ハラスメント』ですよ」
「そんな……言いがかりだ!私は何も言っていない!」
私が声を荒らげた瞬間、新井は待っていましたとばかりに、大袈裟に椅子から転げ落ちた。
「ああ!怒鳴った!今、怒鳴りましたよね!?録音されてますよ!怖い!殺される!」
「違う、私は……!」
「人事さん!見てましたよね!この人の目は、僕を殺そうとしていた!精神的苦痛だ!救急車を呼んでください!ハラスメントで殺される!」
新井の絶叫がフロアに響き渡る。
人事の人間が、青い顔で私を見る。
違う、と叫びたいが、喉が張り付いて声が出ない。
私は悟ってしまった。
彼にとって、事実などどうでもいいのだ。
「自分が不快だと言えば、相手は社会的に死ぬ」という、
最強のスイッチを持っていることを、彼は楽しんでいるだけなのだ。
あれから半年。
私は降格され、窓際部署で一人、シュレッダーをかける毎日を送っている。
新井は今、私がいた課の「実質的な支配者」として君臨しているらしい。
誰も彼に逆らえないからだ。
シュレッダーの音が響く中、私は時折、幻聴を聞く。
「課長、そのシュレッダーの音、うるさいですよ」
誰もいないはずの背後から。
あの新井の、粘着質な声が聞こえる。
私は、シュレッダーを止める。息を止める。
心臓の音さえも、彼に聞かれたら「騒音だ」と言われる気がして。
私は、この世で最も恐ろしいハラスメントを知ってしまった。
それは、「正義」という皮を被った、純粋な「悪意」だ。
今日、新しい辞令が出た。
私の新しい上司として、彼が、この部署に異動してくるそうだ。
彼は、私を見て、きっとこう言うだろう。
『あなたが生きていること自体が、僕へのハラスメントなんです』
と。
きっと、私なら辞めます、その会社。




