理想の部下
「お前さ、給料泥棒って言葉知ってる?知らないなら辞書引いてこいよ、今すぐ!」
部長の鬼頭の怒号がフロアに響く。
俺、佐藤は、デスクの前で直立不動のまま、ただ頭を下げ続けていた。
書類の些細なミス。
それだけで、もう一時間も人格否定をされ続けている。
(死ね。死ね。死ね。今すぐ心臓が止まればいいのに)
俺は、床のシミを見つめながら、頭の中で呪詛を唱え続けていた。
毎日、毎日。
俺の心は殺意で塗りつぶされていた。
異変が起きたのは、それから一週間後だった。
その日、俺はいつものように朝礼で罵倒される覚悟をしていた。
しかし、鬼頭は現れなかった。
昼過ぎに出社してきた鬼頭は、ひどく顔色が悪かった。
目の下には濃いクマがあり、脂汗をかいている。
そして、しきりに右肩を気にしていた。
「……おい、佐藤。ちょっと」
呼ばれてビクリとする俺に、鬼頭は弱々しい声で言った。
「お前……昨日の夜、俺の家の近くにいたか?」
「え?いえ、真っ直ぐ帰りましたが」
「……そうか。いや、いい」
鬼頭は気味悪そうに俺を一瞥すると、自分の席に戻った。
それから、鬼頭の様子は日に日に狂っていった。
会議中に突然、「すいません、すいません!」と小声で謝りだす。
書類を持つ手が震え、文字が書けない。
そして何より不気味だったのは、あれだけ横柄だった鬼頭が、俺と目が合うと、ひどく怯えるようになったことだ。
一方、俺自身の体調も変化していた。
夜、布団に入ると、泥のように深く眠れるようになったのだ。
夢も見ない。
ただ、朝起きると、ひどい疲労感がある。
まるで一晩中、誰かを殴り続けていたかのような、心地よい倦怠感が残っていた。
ある雨の日の深夜。
俺は残業で一人、オフィスに残っていた。
すると、部長室から「ガンッ!ガンッ!」という、硬いものを叩きつけるような音が聞こえてきた。
鬼頭はまだ残っていたのか。
俺は恐る恐る、部長室のドアに近づいた。
ドアは少しだけ開いている。
隙間から中を覗いた瞬間、俺は息を呑んだ。
鬼頭が、自分のデスクに額を打ち付けていた。
ガンッ。ガンッ。
額からは血が流れ、書類を赤く染めている。
そして、鬼頭は、ブツブツと何かを呟いていた。
「……申し訳ございません。私が無能なばかりに……」
「……死んで詫びます。給料泥棒でごめんなさい……」
「……おっしゃる通りです。私はクズです……」
その言葉。その口調。その怯えきった表情。
それは、普段、俺が鬼頭に言わされていた謝罪の言葉そのものだった。
鬼頭は、俺になっていた。
いや、俺の「念」に、精神を乗っ取られかけているのだ。
俺は恐怖を感じると同時に、昏い喜びが腹の底から湧き上がってくるのを感じた。
(ああ、俺が寝ている間、俺の「生霊」はここに来て、毎晩あいつを指導ていたのか)
その時。
額を打ち付けていた鬼頭が、ピタリと動きを止めた。
そして、ゆっくりと、ドアの隙間から覗いている俺の方へ、顔を向けた。
血まみれの鬼頭の顔。
だが、その表情は、俺が鏡で見る「冷徹な無表情」そのものだった。
鬼頭の口が、ニヤリと歪んだ。
そして、俺の声で、こう言った。
『……まだ、足りないよな?』
翌日、鬼頭は出社しなかった。
精神に異常をきたし、緊急入院したという。
病院では、ベッドの上で「佐藤様、申し訳ございません」と土下座を繰り返しているらしい。
俺は、新しい部長代理として、鬼頭のデスクに座った。
不思議なことに、この席に座ると、右肩がひどく重い。
まるで、誰かがずっと、俺の背中に乗って、耳元で呪詛を囁いているかのような重さだ。
俺は知っている。
入院している鬼頭の生霊が、今度は俺に取り憑いているのではない。
これは、俺自身の生霊だ。
鬼頭を壊し尽くして用済みになった「俺の悪意」が、
「次のターゲット(俺自身)」を求めて、戻ってきたのだ。
俺は、震える手で書類を広げた。
そこには、無意識のうちに、俺の筆跡で、びっしりとこう書かれていた。
『次は、お前の番だ』
人を呪わば穴二つですね。
パワハラは良くないですね。私も切に生霊を飛ばしたいw




