午前2時22分の客
深夜のコンビニバイトは、慣れれば天国だ。
客はまばら。ただ、ぼんやりと蛍光灯の光を浴びながら、時間が過ぎるのを待つだけ。
「それ」が始まったのは、この店で働き始めて一ヶ月ほど経った頃だった。
毎晩、必ず、午前2時22分。
店の古びた壁掛け時計の秒針が、12の数字と重なった瞬間。
「ピンポーン」
と、気の抜けた入店チャイムが鳴る。
入ってくるのは、いつも同じ男だった。
よほど古いのか、型崩れしたスーツを着ていて、季節に関係なく、髪も服も、じっとりと湿っている。
男は店員(俺)には目もくれず、店の一番奥、ドリンクコーナーへと直進する。
そして、必ず一番安いブラックの缶コーヒー(冷たいもの)を一本だけ手に取り、レジに来る。
男は一言も喋らない。
ただ、青白い、水膨れしたような手で、トレーの上に「108円」を、ぴったりと置くだけ。
「……ありがとうございました」
俺がそう言っても、男は返事もせず、商品を受け取ると、ゆっくりと店を出ていく。
正直、気持ちのいい客ではなかったが、害はない。俺はただの「ルーティン」として処理していた。
あの日までは。
その夜も、午前2時22分。チャイムが鳴った。
男が入ってくる。
(ああ、またか)
俺はレジカウンターに肘をつき、ぼんやりと防犯モニターに目をやった。
(……え?)
俺は、自分の目を疑った。
モニターの中。自動ドアが、開いていない。
男は、閉まったままのガラスの扉を、すり抜けるようにして入店してきていた。
「カッ…」
男が、缶コーヒーをレジカウンターに置く音で、俺は我に返った。
目の前には、いつもの男が、うつむいて立っている。髪の毛からは、床にポタポタと、汚れた水滴が落ちている。
(見間違いだ。疲れてるんだ)
俺は震える手で、必死にレジを打った。
男が、トレーに小銭を置く。
「チャリ……」
その時、男の手が、俺の手に、ほんの少し触れた。
「ッつめた!!」
まるで、ドライアイスを素手で握ったかのような、突き刺すような冷たさだった。
俺は思わず手を引っ込めた。
男は、ゆっくりと顔を上げた。
初めて、目が合った。
その目は、濁った水たまりのように、焦点が合っていなかった。
そして、顔の右半分は、まるで何かに強く打ち付けられたかのように、赤黒く崩れていた。
男は、水を含んだような、しわがれた声で、初めて言った。
「……サムイ……」
(まずい、これ、人間じゃない)
本能が警鐘を鳴らす。
俺は恐怖で硬直しながらも、必死で営業スマイルを作った。
「あ、ありがとうございました……!」
男は、コーヒーを受け取ると、ゆっくりと出口に向かった。
そして、自動ドアの手前で、ピタリと止まった。
(頼むから、早く出て行ってくれ……)
男は、閉まったドアに向かったまま、首だけを、ギギギ…と、錆びた機械のように、俺の方に向けた。
「……オマエモ、サムイダロ……」
「ひっ…!」
「……アタタメテヤルヨ……」
男はそう言うと、向き直り、レジに向かって歩き出した!
さっきまでの緩慢な動きじゃない。明らかに、俺を「認識」して、こちらへ向かってくる!
「来るな!」
俺はレジ横の非常ブザーに手を伸ばした。
だが、男の方が早かった。
男は、レジカウンターを「掴んだ」。
青白く、腐敗しかけた男の手が、カウンターの天板に、メリメリとめり込んでいく!
「うわああああっ!」
男がカウンターを乗り越え、俺の腕を掴んだ!
焼けるような冷たさ。腕の感覚が、一瞬で麻痺する。
「……オイテイクナ……!」
男が、潰れた顔を俺の目の前に突き出してきた。
口から、腐った水と、泥のようなものが溢れ出す。
「……オレヲ、マタ、ヒトリデ、オイテイクノカ……!」
男は、俺の首に、その冷え切った手を回してきた。
(殺される!)
俺は最後の力を振り絞り、もう片方の手で、男の顔を突き飛ばした。
「グチャッ」
俺の手に、熟しすぎた果物を握り潰したような、最悪の感触が残った。
男は、一瞬怯んだように後ずさった。
その瞬間、
「ピンポーン」
朝刊の配送業者が入店してきた。
「おー、お疲れさ……どうした!?」
俺の姿を見て、業者が叫ぶ。
俺が、ハッと男がいた場所を見ると、そこには誰もいなかった。
ただ、床に、泥水と、黒ずんだ数枚の硬貨が散らばっているだけ。
俺は、その場に崩れ落ちた。
俺の腕には、男に掴まれた跡が、凍傷のように青黒く、くっきりと残っていた。
俺は、あの夜以来、深夜のバイトはしていない。
だが、今も、時折思い出してしまう。
あの男が、最後に俺を掴んだ時、
その濁った瞳の奥に、一瞬だけ、
見覚えのある「誰か」の面影が、浮かんだような気がしたことを。
同じルーティンの人っていますよね
もしかして、死んでからも同じルーティンをしているのでは・・・




