第91話 さようなら。そして、
「だから、俺は先輩のことを、好きだと思ったんです」
「……そっか」
少しの間。
静かな時間が二人の間を流れる。
「それだけじゃあ、ないんでしょ。大河?」
やっぱり、お見通しだ。
俺はこの人には――きっと、一生敵わないのだろう。
「……はい」
だからこそ、ここで逃げない。
ちゃんと、けじめをつける。
「俺のその“好き”って気持ちは……先輩からしたら、ただの子供っぽい依存心でしかなかったんだって、わかったんです」
「大河……」
「俺は、先輩からもらうばっかりでした。
一緒に立って、対等でいることはできませんでした」
一度、拳を握ってから、言葉を続ける。
「だから……振られて当然だったって、今ならわかります」
渚先輩は、何も言わずに聞いていた。
「あ、あっ! でも!」
俺は慌てて言葉を足す。
「別に、卑下してるわけじゃないですよ! 最近は、生徒会の活動も忙しいですけど、ちゃんとやりがいがありますし。勉強も、ただの義務じゃなくて楽しくなってきましたし」
言葉が、自然と溢れてくる。
「家族とも、前よりちゃんと話せるようになりましたし……友達とも、良い距離感でいられるようになりました」
あれ?
「それから――」
なんでここで、桜井さんの顔が浮かぶんだ。
「それから?」
「……なんだか、あぶなっかしくて放っておけない人も、いますし」
一拍。
「あはは!」
先輩は、今日一番の笑顔で声を上げた。
「なにそれ! 急に!」
「めっちゃ笑うじゃないですか……」
「だってさぁ!」
渚先輩は、目尻に涙を浮かべるほど笑っている。
「一番あぶなっかしかった大河が、誰かの心配だなんて!」
「あははは!」
「いいでしょ別に!」
「ごめんごめん!」
笑い声が、夜に静かに溶けていく。
彼女が少し落ち着くのを待ってから、俺は最後の話をした。
「……あと、進路のことなんですけど」
「うん」
「東大を目指すって言ってたのも……正直、東京に行きたいって言ってた先輩の影響でした」
先輩は驚かず、ただ静かに聞いていた。
「だから、もう一度、ちゃんと考え直そうと思ってます。自分が、本当はどうなりたいのか。どこへ向かうべきなのか」
渚先輩は、やさしく微笑んだ。
「やっとだね」
「え?」
「やっと、本当の意味で成長した」
その言葉に、息を呑む。
「今この瞬間、自分の足で歩き始めたんだよ。大河は」
――ああ。
この人は、最後の最後まで。
俺を“導く側”でいてくれたんだ。
「……はい」
胸の奥が、すっと軽くなる。
「もう大丈夫です」
俺は、まっすぐに言った。
「だから、安心して東京で頑張ってください。
俺も――俺の場所で、ちゃんと頑張ります」
渚先輩は、満足そうにうなずいた。
「うん。そう言ってもらえるなら、安心して行けるよ」
俺の心と赤いベンチに、もう未練は残っていなかった。
――その時。
ガタン。
コンビニの角の向こうから、なにかがぶつかったような小さな音がした。
先輩が、はっと顔を上げる。
「……え?」
「あ、いえ。大丈夫です」
俺は反射的にそう答えた。
(……思ったより、早く着いてたのかな)
今の話、聞かれちまったかな。
……まあ、いいか。
変に誤魔化す必要も、もうない。
「もう俺の話は終わったからいいよ、桜井さん」
「……え?」
その声に応えるように、
コンビニの角から、ひょこっと姿を現したのは――
夜の姿の、桜井澪だった。
もう説明はいらないと思うけど一応。
グレーのスウェットのセットアップ。
この時間、この場所でしか見ない彼女。
「澪ちゃん!?」
先輩が驚いたように声を上げる。
「どうして、ここに……?」
「えへへ。お久しぶりです、渚さん」
澪は少し照れたように笑いながら、
赤いベンチの前――俺たちのところまで歩いてくる。
左手に下げていた袋から、取り出したのは――サクラコーヒーの缶コーヒーだった。
「……え、それ」
「私からのプレゼントです」
そう言って、桜井さんは一本を渚先輩に差し出す。
「みんなで、一緒に飲みませんか?」
「……ありがとう!」
先輩は、少し驚きながらも、素直に受け取った。
そして、彼女はもう一本を――俺に差し出す。
「はい、大河くんも」
「ありがとうな、桜井さん。寒かったろ」
「ううん」
首を横に振る。
「渚さんには、前にここでお世話になったし……私からも、ちゃんとお礼を言っておきたかったから」
俺はうなずく。
三人分の缶コーヒーが、赤いベンチの前に揃う。
「そっか。
大河が送別会の時から、やけにスマホ触ってたのは――澪ちゃんに連絡してたからかー」
渚先輩は、どこか楽しそうにそう言った。
「はい、正解です」
桜井さんは胸を張る。
「今日が送別会なんだって話をしたら、もしできるなら、渚さんに会いたいって言い出してきかなくて……」
「ちょっと大河くん、私をきかん坊みたいに言わないでよ!」
「悪い悪い。冗談だって」
俺が焦りながら桜井さんをなだめていると――
先輩は、静かに笑っていた。
「よし……」
「なにが“よし”なんですか先輩?」
「なんでもないよ」
桜井さんが次に言う。
「だって、ちゃんと渚さんに会って、言いたかったんです」
「なにを?」
先輩が、優しく促す。
「お礼です。ずぶ濡れになった私のことを気遣ってくれたこと。そして何より、大河くんをここまで連れてきてくれたのは、間違いなく渚さんだと思ってるから」
一瞬、空気が静かになる。
桜井さんは両手で缶コーヒーを持ったまま、深呼吸してから言った。
「だから……ありがとうございます。私からもそれを伝えたくって」
その言葉を受けて、渚先輩はしばらく何も言わなかった。
ただ、夜空を見上げて――
そして、ぽつり。
「……うん」
短いけど、はっきりした返事。
「ありがとう、澪ちゃん」
それから、ちらっと俺の方を見る。
そして、桜井さんには聞こえないように耳打ち。
「ほんと、いい友達……ううん。いい“あぶなっかしくて放っておけない人を持ったね”。大河」
先輩はくすっと笑って、缶コーヒーを軽く掲げた。
「ちょ! なに言ってんですか!?」
「?」
桜井さんは首を傾げていた。
「じゃあさ」
プシュ。
先に開けた音。
「送別会の二次会――
このベンチで、三人でってことで」
「はい!」
「はい!」
桜井さんと俺は同時に返事をした。
そして缶を開ける。
プシュ。
二つの音は重なっていた。
その後、俺たちは――
コーヒーが空になるまで、しばらくの間、他愛もない会話を楽しんだ。
何を語り合ったのかは、あえて書かない。
きっと、それは今ここで言葉にするものじゃない。
またいつか。
語る時が来るかもしれないし、来ないかもしれない。
ただ、はっきりと言えることがあるとすれば――
この夜に飲んだコーヒーは、やっぱり苦かった。
けれど、もう冷たくはなかった。
そして――
この日以降、渚先輩が俺の頭をくしゃくしゃにすることはもう二度となかった。
それがどういう意味なのか。
それだけはなんとなくわかります。
ありがとうございました。
そして、さようなら渚さん。




