第89話 花咲く送別会
座敷の大部屋は、すでにすっかり温まっていた。
長机の上には、刺身の舟盛りに天ぷらの盛り合わせ、鍋の湯気。
ジョッキがぶつかる音と、笑い声が絶え間なく行き交っている。
「いやあ、今日は飲むぞ~!」
顔を赤くした黒藪さんが、すでに二杯目か三杯目かわからないビールを掲げる。
「黒藪さん、もうその顔は出来上がってますよ」
隣で柿田さんが真っ赤な顔で苦笑しながらも、自分のグラスに日本酒を注いだ。
「いいじゃねぇか。今日は渚ちゃんの送別会だぞ? しかも初めての“全体食事会”だ」
「“全体”って言っても、全員じゃないですけどね」
誰かがそう突っ込むと、「確かに」と笑いが起きる。
在籍十九人。
今日ここに集まっているのは、そのうちの十六人。
それでも、この店にとっては十分すぎる人数だった。
本来、二十四時間営業のコンビニで、これだけの人数が同じ時間に集まることはほとんどない。それはシフト制で店舗を営業しているからだ。早朝、昼、夕方、深夜――シフトは細かく分かれ、誰かが集まれば、必ず誰かが抜ける。
だが、今日だけは例外だった。
冷凍・冷蔵ケースの入れ替え工事と、配電盤周りの配線の調整。
重なった作業の都合で、店はほぼ丸一日営業を停止することになった。
その“ぽっかり空いた時間”を、店長は見逃さなかった。
枝垂渚の送別会。
どうせやるなら、できるだけ多くの顔が揃う日に。
彼女が卒業旅行から帰ってきたタイミングも重なり、
結果として――
いつもは交差するだけのメンバーが、こうして一つの場所に集まることになった。
座敷の中央。
枝垂渚は、店長と柳さんに挟まれるようにして座っていた。
「ほんとに辞めちゃうのねえ」
柳さんが、少し名残惜しそうに言う。
「はい。春からは、ちゃんと社会人ですから」
渚はそう答えて、穏やかに笑った。
そして店長。
「しかも東京だなんて。本当に寂しくなるなあ。僕も夜勤の時は良く話を聞いてもらってたなぁ」
「店長の愚痴を聞くのも私の仕事でしたもんねー」
「ちょっと店長! 若い子に愚痴だなんて」
「いやはや、面目ない」
渚と柳さんは顔を見合わせて笑う。
店長は、渚のグラスが空きかけているのを見ると、すっと瓶を傾けた。
「枝垂さん、今日は遠慮しないでね」
「ありがとうございます、店長」
そう言って、渚はグラスを受け取る。注がれているのはオレンジジュース。
ふと、彼女は座敷を見渡す。
笑っている人。
飲み過ぎている人。
真剣に話し込んでいる人。
――そして。
自然と、その席に目が向いてしまう。
吉野大河。
けれど、渚はすぐに視線を戻した。
期末テスト前。
あの子がどれだけ時間を削って、どれだけ真面目に取り組むか。
それを、渚は誰よりもよく知っている。
だから、急遽彼が欠席でここに来ないことに驚きはなかった。
悲しいとも、思わない。
ただ、対面での最後の別れが“あの夜”が最後であることに、少しの思い残しがあることは否定できなかった。
それだけ。
「枝垂さん」
店長が、ふと声をかける。
「ほんとによく頑張ったね」
「……ありがとうございます」
「この店で学んだことは、どこに行っても無駄にはならないよ。僕が保証する」
渚は、静かにうなずいた。
「はい。ここで働けて、本当によかったです」
その言葉に、また拍手と声が上がる。
ざわざわとした笑い声と、食器の音。
座敷いっぱいに広がる、いつもとは違う“職場の顔”。
――その、ちょうど中央にあるふすまが。
すっと、静かに開いた。
渚を含めた皆の視線が一斉にそちらへ向く。
「え、うそ」
そこには吉野大河の姿。
* * *
緊張。
その言葉に尽きる。
この送別会よりも少し前の日のこと。
俺は店長に呼ばれて、バックヤードで話をしていた。
「――という流れだけど、吉野くんにお願いしたいんだ」
店長はそう言って、厚みのある寄せ書きを俺に差し出した。
「当日はお店の人に言って花束を預かっといてもらうから、それと一緒に入ってきてね」
「結構な大役じゃないですか」
正直な感想をそのまま口にすると、店長は笑顔で言う。
「そうかもしれないね。でも――」
少しだけ、声のトーンを落として続けた。
「彼女にとっても、君にとっても。それが一番いいんじゃないかなと思って、そう決めたんだ」
店長は、こういうところがある。
普段はどこか飄々としていて、細かいことに頓着しないように見えるのに、肝心なところでは、やけに人の関係性をよく見ている。
「君を一人前にしたきっかけの大部分を担ったのは、枝垂さんだろう?」
そう言われて、胸の奥が少しだけ熱くなった。
「だからこそ、吉野くんに渡してもらいたい。そこに反対する人も、いないだろうさ」
俺は一度、寄せ書きに視線を落としてから、顔を上げた。
「……はい」
自然と、背筋が伸びる。
「僕でよければ。もちろん、やらせてください」
店長は、満足そうにうなずいた。
「頼んだよ」
――そして、今。
俺は、両腕いっぱいに花束と寄せ書きを抱えたまま、座敷の中へ足を踏み入れた。
畳の匂いと、料理とアルコールの匂いが一緒に鼻に届く。
視線が、一斉にこちらへ向いたのがわかる。
「え、うそ」
最初に声を上げたのは、渚先輩だった。
一瞬、何が起きたのかわからない、という顔。
それから、花束と寄せ書きに気づいて――
「なに、これ……」
言葉が、途中で止まる。
俺は一歩、前に出て、少しだけ気恥ずかしさを誤魔化すように言った。
「みんなからです。
……渚先輩、今までお疲れさまでした」
誰かが、くすっと笑って。
誰かが、「やっと来たか」と茶化して。
その中心で。
渚先輩は、両手で花束を受け取りながら、困ったように、でもどこか嬉しそうに笑っていた。
「……もう。
こういうの、反則じゃん。みんな、ありがとね」
その声は、ほんの少しだけ震えていた。
俺はその様子を見て、ようやく気づく。
(ああ――引き受けて良かった)
この顔を一番近くで見ることができて。




