第88話 月が綺麗
俺は店の赤いテープを貼ってもらった缶コーヒーを手に取って、店を出た。
~♪
自動ドアを抜けた瞬間、夜の空気がふっと肌に触れる。
「ふぅ~。なんだかんだ疲れたな」
青いベンチのほうを見ると――
やっぱり、いた。
(……おや)
桜井さんが、鼻歌を口ずさんでいる。
(鼻歌。めずらしいな)
夜のコンビニで何度も顔を合わせてきたけど、彼女がこんなふうに感情をそのまま外に出しているのは、正直あまり記憶にない。
俺は歩み寄りながら声をかけた。
「ごきげんだなあ」
桜井さんは一瞬だけ肩をすくめるようにして、照れたように笑った。
「最近、ハマってる人の歌があってね」
「へぇー」
何気ない相槌。
それだけで会話が成立する距離感が、もう当たり前になっている。
「大河くん」
「ん?」
「ん」
と短く言って、
彼女は隣のベンチの“余白”を、右手でとんとんと示した。
――ああ。
その仕草を見た瞬間、俺は思い出す。
最初にここで会った夜の桜井澪。
そして、学校で出会う昼の桜井澪。
この二人が、間違いなく“同一人物”だと確信したきっかけ。
それは――右手の甲に書かれていた、あの宿題の小さなメモ書き。
そう。
つまり彼女は左利きだ。
だから、彼女は決まってベンチの向かって右側に座る。
左手にはコーヒーの缶を持っているから、利き手じゃない右手を使って、こうして隣を示す。
「ん」
もう一度、短く。
(……めずらしい)
ここで、彼女のほうから誘うなんて。
俺は示されるままに、ベンチに腰を下ろした。
「どうしたんだ、桜井さん。なんか言いたいことでもありそうだな?」
俺はちょっと笑いながら問う。
「むー」
桜井さんは答えず、左手に持った缶コーヒーを――
ぐいっと、一気に流し込んだ。
缶が小さく鳴り、夜の空気に、コーヒーの匂いが混じる。
俺はその横顔を見ながら、このあと何が来るのかを、静かに待っていた。
プシュ。
俺も自分のコーヒーを開ける。
「大河くん!」
「ん?」
缶を口に運び、ひと口含んだ――その瞬間だった。
「大河くん、ごめんなさい!」
「っ! ――ゲホゲホ!」
予想外すぎるタイミングの謝罪だったせいで、コーヒーが喉の奥の変なところに入り、思い切りむせる。
「ゲホ! な、なんだよ急に……! びっくりするじゃないか……ゲホゲホ」
桜井さんは、申し訳なさそうに視線を落とした。
「今日、休み時間の……ほら、深山くんの……その……あれのことなんだけど」
「……ああ、あれ。ね」
俺の口の周りをコーヒーがつたう中、脳裏に浮かぶ昼間のあの衝撃のシーン。
「私、あんなふうに面と向かって、男の人に“好きだ”って言われたの、初めてだったから」
……まぁ、そうだろうな。いや、桜井さんに限らず、大抵の女子はそうなんじゃないかと思う。というよりはあの状況で勢いもあったろうが、告白なんて強行ができる深山の精神自体も、なかなかに見上げるものがある。同じ男として強くそう思うのだ。
「うん」
「すごく……びっくりしたの」
「わかるよ」
少し間を置いてから、彼女は続けた。
俺は自前のハンカチで口の周りのコーヒーを拭う。
「それで、思ったの……」
「なにを?」
桜井さんは、しばらく言葉を探すように黙り込んでから、ぽつりと口を開いた。
「……私も同じように、大河くんに“好きだ”って言ったけど……」
ドクン――
胸が、少しだけ強く鳴る。
「でもそれって、すごく独りよがりで、自分勝手だったんじゃないかって……反省したの」
夜風が、ふたりの間を静かに抜けていく。
「だから……ごめんなさい」
「……桜井さん……」
「私はね」
彼女は小さく笑った。
「ただ伝えたかっただけだし、それだけで満足してるんだけど……」
でも、と続ける。
「大河くんは、すごく誠実で、真面目だから。そう簡単には割り切れないよね」
「……」
「ホワイトデーのお返しだって、みんなの分、すごく悩んでたし」
――ああ。
なるほど。
深山に告白されたことへの戸惑い。
それと同時に、自分が俺にした告白を重ねてしまったんだ。
だからこその、自己嫌悪。
俺は缶コーヒーを一度ベンチに置いて、夜空を見上げた。
「……桜井さんさ」
「……なに?」
「たぶんだけど、それ、間違ってると思う」
彼女が、はっとこちらを見る。
「桜井さんの告白が独りよがりだったとか、自分勝手だったとか……俺は、少なくともそうは思ってない」
「でも……!」
「確かに、正直に言えば、俺も驚いた」
続ける。
「でもさ、
あんなふうに真っ直ぐ言われて、人として、男として、嫌なわけないだろ」
「……」
「それに、桜井さんの人となりを少しなりとも知ってる人間からすれば、どれだけの勇気を振り絞って言ったものかは痛いほどわかる」
少し照れくさくて、視線を逸らしながら。
「それに、そうまで悩んだのは、桜井さんの気持ちが軽くなかったからだ。……と思う」
桜井さんは、言葉を失ったように俺を見つめていた。
夜のベンチの上。
自販機の光と街灯の明かりの間で。
俺たちは、
それぞれの“好き”の重さを、静かに確かめ合っていた。
「それに、その理論で言うならさ」
俺は苦笑して肩をすくめた。
「俺だって、渚先輩に告白したことを反省しなきゃいけなくなるしな」
「そんなこと……!」
桜井さんが、思わず声を上げる。
「だろ? だからいいんだよ」
空を見上げる。
今日は、月がやけに綺麗に見えた。
「そっか……」
彼女は小さく息を吐いて、
「……よかった……」
「ああ。……だけど、その代わり」
「その代わり?」
桜井さんが、少し身を乗り出して俺の顔を覗き込む。
「この間も言ったけどさ。
しばらくは、待ってもらうことになるぞ?」
「……」
「まだ、渚先輩の送別会も残ってるし」
一瞬の間。
そして桜井さんは、悪戯っぽく口角を上げた。
「あー。私はキープなんだぁ」
「むっ! 違うっての!」
「ふふっ。わかってるよ」
くすくすと笑いながら。
「大河くん、そんなに器用じゃないもんね」
「ったく……。桜井さんがそれを言うのかよ」
そう言いながらも、胸の奥が、少しだけ軽くなっているのを感じる。
「ねぇ、大河くん!」
桜井さんが、急に立ち上がって空を指さした。
「月!」
「おぉ……!」
そうか。
桜井さんも。
雲ひとつない空に、丸く、静かに浮かぶ丸い月。
「月が綺麗だよ! すごい!」
その声は、驚きと、嬉しさと、少しの照れが混じっていた。
俺はベンチから立ち上がり、彼女の隣で、同じ月を見上げる。
「……ほんとだな」
言葉にしなくても、今はそれで十分だった。
夜のコンビニの明かりの外。
静かなベンチの上で。
俺たちはしばらくの間
同じ月を、黙って眺めていた。




