第87話 夜のコンビニでやっぱり君はブラックコーヒー
夜の冷たい空気を胸いっぱいに吸い込みながら、俺はコンビニの自動ドアをくぐった。
~♪
お馴染みの電子音。
「おはようございます」
そう言いながらバックヤードのほうへ回ると、いつもと少しだけ様子が違っていた。
机の前に、店長。
そして、その向かい側には――見覚えのない、学生らしき男の子が座っている。
俺とその男の子は一瞬目が合う。
(……おっと、面接か)
「おはよう、吉野くん」
店長がこちらに気づいて、軽く手を上げる。
「おはようございます」
俺はそれ以上何も言わず、軽く会釈だけしてロッカールームへ向かった。
邪魔をするわけにもいかない。
ロッカーを開け、上着を脱ぎ、服に袖を通す。エプロンを腰に巻いて、紐をきゅっと結ぶ。
その一連の動作は、もう体が覚えている。
タイムカードを打刻してから、連絡帳を手に取る。
(えーっと……)
本日の注意事項。
廃棄時間について。
品出しの変更点について。
ホットスナックの補充のタイミングについて。
ひとつひとつ目を通し、頭の中で整理する。
(……よし)
エプロンのポケットから印鑑を取り出し、確認済みの欄に、ポンと押した。
それから、バックヤードの扉を開けて店内へ。
「お疲れさまです」
「あら、おはよう吉野くん。じゃ、引き継ぎね」
レジの向こう側に立っていたのは、パートの柳さんだった。
昼間の時間帯に入ることが多い、三十代後半くらいの女性だ。絶賛子育て中の主婦さんでもあるので、夜遅くの勤務はできないため、俺と入れ違いになるパターンが多いのだ。
「今日は忙しいですか?」と聞くと、柳さんは少しだけ肩をすくめる。
「まあまあ、って感じかな。夕方にお弁当が一気に出たくらいで、あとは落ち着いてるよ」
「了解です」
バーコードリーダーの位置を確認しながら、引き継ぎを受ける。
「あ、あとね」
柳さんが、少し声を落として言った。
「バックヤードで店長が面接してたでしょ?」
「はい。見ましたよ」
「やっぱり新しい子、何人か入れる予定みたい。渚ちゃんが抜けたから、その穴埋めね」
「ですよね……」
そう答えると、柳さんは苦笑した。
「ほんと、時間経つの早いよねぇ。渚ちゃんも、ついこの前まで『若い子だなぁ』って思ってたのに。もう就職だなんて」
「柳さん視点だとそう感じるんですねえ」
「吉野くんも、ずいぶん落ち着いてきて頼りになるけど、あと一年くらいだもんね?」
「……そうなっちゃいますね」
「でしょ?」
柳さんは、少し残念そうに笑った。
「こうなったら、次の新人の子が入ったら教育係は吉野くんね! 次の後継者をバンバン育ててもらわないと!」
「ぼ、僕がですか!?」
「うん! いけるいける」
即答だった。
思わず苦笑する。
「ほら、じゃあレジ代わるね」
「はい。お疲れさまでした」
柳さんは手を振ってバックヤードへ向かった。
バーコードリーダーを手に取り、釣り銭を確認。
レジに立った瞬間、俺も仕事モードへと脳内のスイッチが切り替わる。
「いらっしゃいませ」
いつもの声。
いつもの場所。
――やっぱり、この空気は落ち着く。
だけど。
バックヤードのほうで、かすかに聞こえる会話の気配が、今日は少しだけ、気になっていた。
(……新人、か)
渚先輩がいなくなって。
そして、また新しい誰かが入ってくる。
(今度は俺が誰かを……)
このコンビニも、少しずつ変わっていく。
俺はレジに立ちながら、そんなことを、ぼんやりと考えていた。
* * *
数時間後。
レジに立ちながら、俺はなんとなく――
本当に、なんとなくだけど、感じていた。
(……今日は、たぶん来るな)
もちろん確証はない。
ラインが来たわけでも、約束をしたわけでもないからだ。
ただ、そういう日がある。
最近はなんとなく。
夜のコンビニは相変わらず静かで、
有線のBGMに最近話題のライバーのタイアップ広告が耳に流れ込む。
ホットスナックのチキンを補充して、棚の前出しをして、レジに戻る。
いつもの動線。
いつもの夜。
時計を見ると、二十一時を少し回っていた。
ちょうどその時――
~♪
自動ドアの開閉音。
「いらっしゃいませ」
反射的にそう言って顔を上げる。
そして。
(……当たった)
そこに立っていたのは、見慣れたグレーのスウェット姿――桜井さんだった。少し大きめのマフラーを首に巻き、耳にはあの白いイヤホン。
目が合う。
彼女は小さく、でも確かに笑った。
それだけのやり取りなのに、胸の奥が、すっと落ち着く。
桜井さんはいつもの棚へ向かい、桜印のブラックコーヒーを一つ手に取る。
やがて、桜井さんはレジの前に立った。
バーコードを読み取る。
ピッ。
「ポイントで支払いたいです」
「はい、かしこまりました。では、こちらへタッチをお願いします」
画面を示すと、桜井さんは慣れた手つきでスマホをかざす。
気心は知れている。
それでも――レジ越しでは、ちゃんと敬語。
この距離感が、俺たちにはちょうどいい。
「ありがとうございました」
「はい」
桜井さんは軽く会釈して、店を出ていった。
ガラス越しに見える背中は、迷いなく、やはりというべきか――外の青いベンチへ向かっていく。
外の空気は、少しずつ柔らかくなり始めていた。
真冬とは違って、夜風に当たるのも、それほど苦じゃない。
この時期になると、あのベンチに腰掛ける時間も、自然と長くなる。
それにしても――
人間ってやつは、
一つ悩みが解決しても、すぐに次の悩みを作り出す生き物だ。
俺が今、新しい不安や迷いを抱えているように。
桜井さんもまた、きっと別の何かを胸の内に抱えている。
このコンビニの、この夜の時間。
それが、彼女にとっての“逃げ場”であることは、きっと今も変わっていない。
悩みの質は、前とは違っているかもしれないけれど。




