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夜のコンビニと君のブラックコーヒー  作者: アキラ・ナルセ
第8章 恋のキューピッド編

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第84話 揺れる心


 一瞬、桜井さんが俺のほうを見てから改めて、梅宮さんに向き直った。


「……じゃあ、梅宮さんの言ってた“大切な人”っていうのは……」


 その問いに、梅宮さんは小さく息を吸い、ゆっくりとうなずいた。


「はい……」


 少しだけ俯きながら、けれど逃げずに言葉を紡ぐ。


「竹田さんは、私がこの仕事を辞めようかと考えていた時に、一番親身になってくださった方です」


 リビングに、静かな声が響く。


「お休みの日にも時間を作ってくださって、仕事のこと、心構えのこと……たくさん、教えてくださいました」


 そして、はっきりと。


「竹田さんは私の恩人であり……ずっと、憧れの人なんです」


「……そ、そうだったんですか」


 桜井さんが、ほっとしたように息を漏らす。


 俺は――

 その瞬間、自然と視線が松野さんへ向いていた。彼の表情は、驚きから戸惑い、そして――安堵へと、はっきり変わっていく。


(……とりあえず、よかったですね)


 そう思ってしまうのは、きっと俺だけじゃないと思う。


 その空気を受け取ったように、竹田詩織さんが一歩、梅宮さんのほうへ歩み寄った。


「そう言ってもらえるのは、とても嬉しいわ」


 やさしい声。


「でもね、梅宮さん。

 あなたはもう――

 自分に自信を持っていい頃よ」


「……っ」


 梅宮さんの瞳が、揺れる。


「……はい……」


 そして、堪えていたものが、ついに溢れた。


「本当に……今まで、ありがとうございました……!」


 涙声のまま、深く頭を下げる。


 詩織さんは何も言わず、

 そっと梅宮さんのそばまで行き――


 その手を、包み込むように取った。


 そして、静かに微笑む。


 春香さんは、二人の様子を見て、ふっと柔らかく微笑んだ。


「……そう。詩織は、ずっと陰で支えてくれていたのね」


「そういうこと」


 竹田さんは肩をすくめる。


「まあ、梅宮さんに関して言うなら――

 業務のことより、どちらかというと恋愛相談のほうが――」


「ちょ、ちょっと竹田さん!!

 なにを言おうとしてるんですか!」


 梅宮さんは、涙目のまま慌てて竹田さんの口をふさいだ。


「むぐっ……!」


 一瞬の静寂。


 桜井家のリビングにいる全員が、そろって言葉を失う。


 互いに顔を見合わせ、困ったような、そしてどこか安心したような空気が流れた。



 * * *



 その後。


 夜も更けてきたということで、俺だけ先にお暇することになった。


 竹田さんも終電が近いらしかったが、春香さんが「私が自宅まで送る」と言っていた。


 昔からの友人同士、積もる話もあるのだろう。


(東京……か。渚先輩といい、なんか、大人の世界だな)


 そんなことを考えながら、俺は桜井家の広い敷地を後にした。


 俺の住んでいるアパートとは、あまりにも対照的な静けさと広さ。


 門を抜けた、その時だった。


「大河くん!」


「……え?」


 聞き覚えのある声に振り返る。


「桜井さん!?」


 ピンク色のダウンジャケットを着込んだ桜井さんが、小走りでこちらへ向かってきていた。


「はぁ……はぁ……」


 門の前で、二人きりになる。


 住宅街はすっかり静まり返っていて、街灯のやわらかな光と、夜空の星だけが周囲を照らしている。


 ひどく、落ち着いた夜だった。


 そんな夜とは対照的な桜井さんは少し息を整えてから、俺を見上げる。


 その表情は、どこか言葉を探しているようで――


「少しだけ、ついていってもいい?」


「……まぁ、寒いし、少しだけな」


「うん」


 俺たちは並んで歩き出した。


 俺が引いている銀色の自転車が、前に進むたび、チェーンがかすかな音を立てる。それに重なるように聞こえてくる、桜井さんの呼吸の音。


 夜の住宅街は静かで、その二つの音だけが、やけにはっきりと耳に残っていた。


「ねぇ、大河くん」


「ん?」


「竹田さんって、“恋のキューピッド”みたいじゃない?」


「恋のキューピッド? ……確かに。今日あの人が来て、いい意味でかき乱したことで松野さんと梅宮さんの距離感もまた変わりそうだもんな」


「うん、ほんとは私たちがそれをやるつもりだったのにね」


 桜井さんは、ふっと笑った。


「でもさ。キューピッドにはなれなかったかもしれないけど、キューピッドの矢にはまだなれるんじゃないかな」


「キューピッドの矢?」


「そう。奥手なあの二人の背中を押す役割くらいはできるかもってさ」


「……そうだね! うん、そうかも!」


 その横顔を見ながら歩いていると、ふいに、見覚えのある場所に差しかかっていることに気づく。


「あ、この公園」


 俺がそう言うと、彼女も足を止めた。


「去年以来だね。ねぇ、ちょっとブランコ、やってかない?」


「ブランコ?」


 俺が苦笑すると、桜井さんは迷いなく、青いブランコの一つに腰を下ろした。


 次の瞬間、勢いよく地面を蹴って、ブランコは前後に大きく揺れ始める。


 俺はその横に立ち、自然と彼女を見守る形になった。


「桜井さん、危ないし、あんまり無茶は――」


 俺がそう言いかけると、彼女はブランコに腰を下ろしたまま、にっと笑った。


「大丈夫」


 そう言って、勢いよく地面を蹴る。


 きぃ……、きぃ……。


 鎖が夜の空気を切る音が、公園に静かに響く。

 街灯の明かりに照らされて、桜井さんの影が大きく揺れた。


 ブランコが前後に揺れるたび、あの時のことが、否応なく思い出される。


「あの時は、桜井さんとここへ逃げてきて、大騒動だったよな」


「あはは。あの時は、ありがとね」


「いえいえ」


「ね……」


 前を向いたまま、桜井さんが口を開いた。


「今日の昼のことなんだけど……」


 やっぱり、その話題になるか。


「……ごめんね」


 ブランコが止まる。


 彼女は足を地面につけたまま、鎖を軽く握りしめていた。


「あの時の私、ちょっと冷たかったよね」


「……」


「私は大河くんと付き合ってるわけでもないのに、勝手にムッとして……」


 桜井さんは、自嘲するように小さく笑った。


「ほんと、子どもだなって思った」


 俺は少しだけ考えてから、言う。


「でもさ、わかるよ」


 彼女が顔を上げる。


「俺も、この前までそうだったからさ……」


「大河くん……」


「人を好きになるとさ、なんか、いつもの自分が自分じゃなくなって、つい感情的になったり、思ってもいないことを言って相手を傷つけたり、あげくの果てには一人だけで突っ走ったりさ……」


 一瞬、桜井さんの目が揺れた。


「……大河くんって、普段は少し鈍感さんなのに、急にそういうこと、さらっと言うよね」


「なんだそりゃ」


「気にしないで」


 くすっと、小さく笑う。


 そして、言った。


「私、やっぱり大河くんのことが好き」


「……うん。ありがとう」


 夜の公園に、その声が静かに溶けていった。


「桜井さん」


「……うん」


 俺は彼女の目を見た。


「ごめん……。

 もう少し。

 もう少しだけ、俺に時間をくれないか? 

 また俺が恋愛に向き合えるようになるまで。

 もう、少しだけ」


「うん。わかった。私、待ってるから」


 桜井さんはブランコから降り、ふっと空を見上げる。


「……ね」


「ん?」


「また、来ようね。こういう夜に」


「……ああ」


 俺はうなずいた。


 ブランコは、もう揺れていない。


 だけど――


 彼女の言葉は、今も俺の心を揺らしていた。

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