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夜のコンビニと君のブラックコーヒー  作者: アキラ・ナルセ
第8章 恋のキューピッド編

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第82話 私が私じゃなくなるみたい


 夜のコンビニは、昼間とはまるで別の顔をしている。


 レジ前にはお客さんもおらず、店内には有線から流れる落ち着いたBGMと、冷蔵ケースの低い駆動音だけが響いていた。


 俺はレジの内側で、備品がしまわれている戸棚から新しいレジ用の感熱紙を取り出す。印字されるレシート用の感熱紙の両端がピンク色になったら、それを交換する簡単な作業だ。


(今日は……静かだな)


 こういう夜は嫌いじゃない。

 考え事をしても、ぼーっとしても、誰にも咎められない時間だ。


 今日は店長は休みだから、後ろから驚かされることもないし。


 ま、だからといってサボるわけじゃあないんだけどな。


 (そういえば今日の桜井さん、ちょっと変だったな)


 ――その時だった。


 ~♪


 自動ドアの開閉音とBGM。


「いらっしゃいませ」


 いつもの癖でそう言いながら顔を上げる。


 だが、次の瞬間。


(……え?)


 入ってきたその人は、店内を見回すこともなく、一直線に、まるで目的地が決まっているかのように俺の方へ歩いてきた。


 年の頃は……三十代後半から四十代前半くらいだろうか。

 落ち着いた色合いのコートに、整えられた髪。遠回りせずに表現するのなら美人である。

 どこか品のある佇まいで、コンビニには少し不釣り合いな印象だった。


 彼女は、レジの前でぴたりと足を止める。


 商品は持っていない。


 俺が戸惑っていると、女性は一度小さく会釈してから、はっきりとした声で言った。


「お仕事中すみません」


「え、あ、はい」


 思わず背筋が伸びる。


「一つ、お尋ねしたくて……」

 彼女は少しだけ視線を下げ、それから俺をまっすぐに見て続けた。

「この辺りに、“桜井”という名前のお宅があると思うのですが、ご存じありませんでしょうか?」


 ――よく知っている聞き馴染みのある名前だった。


 しかも、こんな時間に。

 こんな雰囲気の女性が。


「……桜井、ですか」


 俺は一拍置いて、そう繰り返した。


 さて――

 これは、ただの道案内で終わる話なのか。


 それとも。


 そんな予感を、俺は拭いきれずにいた。


「あ、えっと……失礼ですが、どちら様でしょうか?」


 俺は一度、深呼吸してから聞き返した。

 時間も時間だし、仮に道案内だとしても、素性くらいは確認しておきたい。


「あ、これは失礼しました」


 彼女はそう言うと、仕立ての良さが一目でわかるコートの内ポケットに手を入れ、一枚の名刺を取り出した。


 俺はそれを受け取る。


「え?」


 名刺に書かれていた名前を目にした瞬間、思わず声が漏れてしまった。


「どうかされましたか?」


「あ、いえ……。でも、もう大丈夫です」


 俺は慌てて首を振る。


「桜井家の場所なら、よく知っていますよ。

 あの家には、僕のクラスメイトが住んでいるので」


「そうでしたか。それは良かった」


 彼女は少しだけ目を丸くして、すぐに納得したようにうなずいた。


「そういえば……春香の娘さんが、ちょうどそれくらいの年でしたね」


(春香……)


 桜井さんのお母さん――桜井春香。

 名前をそのまま呼ぶということは、やはり相当近しい関係なのだろう。


「でも、どういったいきさつで今日はここへ?」


 俺がそう尋ねると、彼女は少し苦笑いを浮かべた。


「実は今日は、ナビに従って電車を使ってここまで来たのですが……スマホの充電を忘れてしまって」


「ああ……」


 スマホは日々進化して、人々にとってなくてはならないデバイスと化した。だが、その性能と比例していまいち進化しないのがバッテリーの持ち時間である。これは現代人にとって切っても切れない悩みの種なのである。


「なにせ、ここに来るのも少し前ぶりなもので。

 記憶だけを頼りに歩いていたら、案の定、道に迷ってしまって」


 なるほど。

 それでコンビニに立ち寄った、というわけか。


(しかし……)


 名刺に書かれていた名前。


 さて、これはどうなることやら。


(……これは、松野さんにとって、かなり重要な人物なんじゃないか?)


 俺はレジ越しに彼女を見ながら、静かに次の言葉を選んでいた。



 * * *


 その頃――桜井家では。


 私の家のリビングには、コーヒーのいい香りが満ちていた。


 テーブルの中央に置かれているのは、《SAKURA COFFEE ドリップバッグ》と書かれたパッケージ。桜井陽一による徹底監修という裏面の触れ込みは、お父さんが絶対に入れてくれと頼み込んだものらしい。


 淡い桜色を基調にしたそのデザインは、お母さんが手がけたものなの。カフェ店内での販売を主眼に置いているため、これまでとは違って女性にも手が伸びやすいデザインになっていてとっても可愛らしい。


「……やっぱり、いい香りね陽一さん」


 母がカップを両手で包み込みながら、満足そうに言う。


「香りは妥協しなかったからな」


 向かいに座るお父さんは、いつものように一口飲んで、静かにうなずいた。


「家庭でも手軽に店の味を味わってもらえるように時間をかけたからな。商品化までは時間がかかったけどね」


「さすが、徹底監修」


 私はくすっと笑いながら、自分のカップに視線を落とす。


「それでいうと、君のこのパッケージデザインも私たち男性陣では思いつかないものだよ。すでに女性のお客さんの間で話題になっているみたいだしね」


「昔も今も口コミの力は侮れないわ。特に若い人達にアプローチするのなら、SNSにあげたくなるようなデザインは必須よ」


「さすが、お母さん!」


 やっぱりお父さんとお母さん、二人の力が揃ったら無敵だよね。


 そして―― 


 家族三人で、こうして同じコーヒーを飲む時間。


 少し前までは、当たり前じゃなかったこの光景が、今は胸の奥にじんわりと染みてくる。


(……幸せだな)


 何気ない夜。


 でも、だからこそ大切な時間。


「やっぱり、春香がいてくれないとダメだな」


 お父さんが少しだけ照れたように笑う。


 お母さんも嬉しそうにうなずいていた。


 ――その光景を見ながら、私は昼間のことを、ふと思い出してしまう。


(……大河くん)


 あのとき、私は――


(……ちょっと、冷たかったよね)


 私と大河くんは別に、付き合っているわけでもない。


 私が勝手に好きだって宣言しただけ。


 私が大河くんを責める権利なんてあるわけでもない。


 それなのに、あんな態度をとってしまった自分が、今さらになって恥ずかしくなる。


(私、なにやってるんだろ……。誰かを好きになるって、なんだか“私が私じゃなくなる”みたい)


 カップの中で、コーヒーの表面が静かに揺れた。


 家族と過ごす、この穏やかな時間の中でさえ、彼のことを考えてしまう自分に、ため息が出そうになる。


 そのときだった。


 ――ピンポーン。


 リビングに、インターホンの音が響く。


 三人同時に顔を上げる。


「こんな時間に、誰かしら?」

 お母さんが首をかしげる。


「宅配にしては遅いな」

 お父さんが言いながら、モニターの方へ視線を向けた。


 私も、なぜか胸がざわついて、無意識に息を詰める。


(……まさか)


 次の瞬間。


「――え?」


 モニターに映ったその姿を見て、思わず声が漏れた。


 そこに立っていたのは――


 大河くんと、その後ろに私が知らない女性の姿。


「た、大河くん!?」

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