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夜のコンビニと君のブラックコーヒー  作者: アキラ・ナルセ
第8章 恋のキューピッド編

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第79話 夜のコンビニと松野さんのブラックコーヒー


 レジの奥で、俺は黙々と作業をしていた。


 手元のビニール手袋が、かすかにカサリと音を立てる。

 今やっているのは、ホットスナックコーナーのケースの清掃だ。


 トングを外し、受け皿を取り出す。

 油汚れをペーパーで拭き取り、洗剤を吹きかける。

 角の部分は特に汚れが溜まりやすいから、専用のブラシで軽くこすって――。


(……こういうの、久しぶりだな)


 最近は生徒会だのホワイトデーだの、あれこれ考えることが多くて、コンビニで働く「いつもの夜」が、少し遠ざかっていた気がする。


 でも、こうして無心で手を動かしていると、不思議と頭の中が静かになる。


 ケースを元に戻し、電源を入れ直す。

 じわり、と温かい空気が立ち上った。


「よし……」


 小さく息をついた、その時だった。


 店の前の駐車場に、一台の車が入ってくるのが見えた。


 黒のセダン。

 無駄のない美しい流線形の車体が、静かに区画に収まる。


(……あれ?)


 あの車を、どこかで見たことがある。


 エンジンが切られ、しばらくしてからドアが開いた。


 現れたのは――


「……松野さん?」


 桜井家の秘書。

 スーツ姿が板についているはずのその人は、今日はどこか覇気がなかった。背筋は伸びているのに、肩が少しだけ落ちて見える。


 ~♪


 松野さんは店内に入ってくると、まっすぐドリンク棚へ向かい、迷いなく缶のブラックコーヒーを一つ手に取った。


 レジに来たとき、俺と目が合う。


「あ……吉野くん」


「松野さん、こんばんは。いらっしゃいませ」


 形式通りにそう言うと、松野さんは小さく会釈を返した。


 会計を済ませると、彼はそのまま店の外へ出ていった。


 向かった先は――

 コンビニ前の、あの青いベンチだった。


 街灯に照らされながら、松野さんは一人で腰掛け、缶コーヒーを開けて、ゆっくりと口をつけているようだった。


「いったい、どうしたんだろう……」


 その背中が、やけに小さく見えた。


 そのとき――


「……吉野くん」

 店長が俺の後ろから小声で言う。


「うおっ!? びっくりした! どうしたんですか?」


 でも、これもどこか久しぶりな感覚だった。


「あのお客さん……。クリスマスイブの日に来た人だよね。ほら、ああいう空気だと、他のお客さんも入りにくくなっちゃうでしょ?」


「そ、そうですかね……?」


「うん。だから」


 店長はにこっと笑って言った。


「ちょっと、元気づけて差し上げてきなさい」


「えっ、俺がですか!?」


「吉野くん、顔見知りなんでしょう?

 大丈夫大丈夫、ほら、行った行った」


 軽く背中を押され、俺はエプロンを外した。

 これは松野さんへの店長からのちょっとした優しさなのだろう。


「……わかりました」


 夜風に当たりながら、青いベンチへ近づく。


「松野さん」


 声をかけると、彼は少し驚いたように顔を上げた。


「吉野くん……どうしたんだい?」


「いや、その……。こっちの台詞っていうか。その、もしかして、あの件ですか?」


 松野さんは一瞬きょとんとしたあと、ふっと苦笑した。


「まぁね。今なら、澪お嬢様の気持ちがわかるよ」


 俺はベンチの端に腰を下ろす。


「桜井さんの? どういうことですか?」


 缶を握る松野さんの指先に、力が入っているのが見えた。


「君から連絡をもらったあの日、梅宮さんと二人で話す機会があってね。そこで彼女の“大切な人”――竹田さんという人の話も聞いたんだ。

 幸せそうに語る彼女の顔を見て、僕は彼女を諦めようと決めたんだが……」


 俺は、その続きを補うように言った。


「諦めきれない。むしろ気になってきてしまっている。一緒の家にいるのが辛くなって、コンビニに逃げこんでしまうほどに」


 直球すぎたか、と思ったが。


 松野さんは、意外にも否定しなかった。


「……はは。やっぱり、若い人……いや君は鋭いね」


 缶を見つめたまま、彼は言った。


「失恋、というほど大げさなものじゃないんだけどね。でも……自分が思っていたより、少しだけ、こたえているみたいだ」


「……そう、ですか」


 俺はうなずいた。


「俺も、ついこの前、振られたばっかりなんで」


「え?」


 松野さんが驚いたようにこちらを見る。


「このコンビニにいた、ずっと好きだった人に、想いを伝えて……それで、ダメでした」


 言葉にしてみると、胸の奥が少しだけ痛んだ。

 でも、不思議と嫌な痛みじゃない。こうして誰かに話せるくらいにはなってきたのだと自覚した。


「だから、その……落ち込む気持ちは、ちょっとだけわかります」


 松野さんは、しばらく黙ってから、小さく笑った。


「そうか……梅宮さんの読みは、外れていたのかな」


「え、今なんて?」


「いや、なんでもない。だが、そうか……君も、同じだったんだね」


「はい」


「それなら、君がここに来てくれたのは、正解だった」


 夜の駐車場に、二人分の静かな沈黙が落ちる。


 松野さんが、ブラックコーヒーを一口含む。


 ――やっぱり、この場所は不思議だ。


 この夜の静寂と、かすかなコンビニが生む音を聞いていると、誰かが立ち止まって、少しだけ弱音を吐いても許されるような気がするのだから。

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