第79話 夜のコンビニと松野さんのブラックコーヒー
レジの奥で、俺は黙々と作業をしていた。
手元のビニール手袋が、かすかにカサリと音を立てる。
今やっているのは、ホットスナックコーナーのケースの清掃だ。
トングを外し、受け皿を取り出す。
油汚れをペーパーで拭き取り、洗剤を吹きかける。
角の部分は特に汚れが溜まりやすいから、専用のブラシで軽くこすって――。
(……こういうの、久しぶりだな)
最近は生徒会だのホワイトデーだの、あれこれ考えることが多くて、コンビニで働く「いつもの夜」が、少し遠ざかっていた気がする。
でも、こうして無心で手を動かしていると、不思議と頭の中が静かになる。
ケースを元に戻し、電源を入れ直す。
じわり、と温かい空気が立ち上った。
「よし……」
小さく息をついた、その時だった。
店の前の駐車場に、一台の車が入ってくるのが見えた。
黒のセダン。
無駄のない美しい流線形の車体が、静かに区画に収まる。
(……あれ?)
あの車を、どこかで見たことがある。
エンジンが切られ、しばらくしてからドアが開いた。
現れたのは――
「……松野さん?」
桜井家の秘書。
スーツ姿が板についているはずのその人は、今日はどこか覇気がなかった。背筋は伸びているのに、肩が少しだけ落ちて見える。
~♪
松野さんは店内に入ってくると、まっすぐドリンク棚へ向かい、迷いなく缶のブラックコーヒーを一つ手に取った。
レジに来たとき、俺と目が合う。
「あ……吉野くん」
「松野さん、こんばんは。いらっしゃいませ」
形式通りにそう言うと、松野さんは小さく会釈を返した。
会計を済ませると、彼はそのまま店の外へ出ていった。
向かった先は――
コンビニ前の、あの青いベンチだった。
街灯に照らされながら、松野さんは一人で腰掛け、缶コーヒーを開けて、ゆっくりと口をつけているようだった。
「いったい、どうしたんだろう……」
その背中が、やけに小さく見えた。
そのとき――
「……吉野くん」
店長が俺の後ろから小声で言う。
「うおっ!? びっくりした! どうしたんですか?」
でも、これもどこか久しぶりな感覚だった。
「あのお客さん……。クリスマスイブの日に来た人だよね。ほら、ああいう空気だと、他のお客さんも入りにくくなっちゃうでしょ?」
「そ、そうですかね……?」
「うん。だから」
店長はにこっと笑って言った。
「ちょっと、元気づけて差し上げてきなさい」
「えっ、俺がですか!?」
「吉野くん、顔見知りなんでしょう?
大丈夫大丈夫、ほら、行った行った」
軽く背中を押され、俺はエプロンを外した。
これは松野さんへの店長からのちょっとした優しさなのだろう。
「……わかりました」
夜風に当たりながら、青いベンチへ近づく。
「松野さん」
声をかけると、彼は少し驚いたように顔を上げた。
「吉野くん……どうしたんだい?」
「いや、その……。こっちの台詞っていうか。その、もしかして、あの件ですか?」
松野さんは一瞬きょとんとしたあと、ふっと苦笑した。
「まぁね。今なら、澪お嬢様の気持ちがわかるよ」
俺はベンチの端に腰を下ろす。
「桜井さんの? どういうことですか?」
缶を握る松野さんの指先に、力が入っているのが見えた。
「君から連絡をもらったあの日、梅宮さんと二人で話す機会があってね。そこで彼女の“大切な人”――竹田さんという人の話も聞いたんだ。
幸せそうに語る彼女の顔を見て、僕は彼女を諦めようと決めたんだが……」
俺は、その続きを補うように言った。
「諦めきれない。むしろ気になってきてしまっている。一緒の家にいるのが辛くなって、コンビニに逃げこんでしまうほどに」
直球すぎたか、と思ったが。
松野さんは、意外にも否定しなかった。
「……はは。やっぱり、若い人……いや君は鋭いね」
缶を見つめたまま、彼は言った。
「失恋、というほど大げさなものじゃないんだけどね。でも……自分が思っていたより、少しだけ、こたえているみたいだ」
「……そう、ですか」
俺はうなずいた。
「俺も、ついこの前、振られたばっかりなんで」
「え?」
松野さんが驚いたようにこちらを見る。
「このコンビニにいた、ずっと好きだった人に、想いを伝えて……それで、ダメでした」
言葉にしてみると、胸の奥が少しだけ痛んだ。
でも、不思議と嫌な痛みじゃない。こうして誰かに話せるくらいにはなってきたのだと自覚した。
「だから、その……落ち込む気持ちは、ちょっとだけわかります」
松野さんは、しばらく黙ってから、小さく笑った。
「そうか……梅宮さんの読みは、外れていたのかな」
「え、今なんて?」
「いや、なんでもない。だが、そうか……君も、同じだったんだね」
「はい」
「それなら、君がここに来てくれたのは、正解だった」
夜の駐車場に、二人分の静かな沈黙が落ちる。
松野さんが、ブラックコーヒーを一口含む。
――やっぱり、この場所は不思議だ。
この夜の静寂と、かすかなコンビニが生む音を聞いていると、誰かが立ち止まって、少しだけ弱音を吐いても許されるような気がするのだから。




