第78話 松竹梅
このお話は大河視点ではなく、松野さん視点となっております。
場所は、桜井家の一室。
窓の向こうには、夜空に瞬く星々が静かに広がっていた。
ここは、春香社長の厚意で借りている自室兼・仕事部屋だ。
僕はデュアルモニターに映る資料を見つめ、キーボードを叩いていた。
一定のリズムで響く打鍵音だけが、部屋に満ちている。
「……ふぅ。少し疲れたな」
だが、集中しているつもりでも、先ほど吉野くんから届いたメッセージが、頭の片隅から離れなかった。
椅子の背にもたれ、ふとスマホに視線を落とす。
表示されている時刻は、二十二時を過ぎている。
「それにしても……梅宮さん……」
画面に残る、吉野くんからのメッセージ。それを再び読み返す。
《それと、これは松野さんにお伝えするかどうか迷いましたが、一応ご報告です。
今日たまたま梅宮さんに会ったのですが、“大切な人”に会っていたそうです。》
その一文は、胸に静かに突き刺さった。
残酷な現実。
けれど同時に、胸の奥のどこかで、妙な安堵が生まれるのを感じていた。
(これで……年甲斐もなく、バレンタインのチョコレートなどに、やきもきせずに済む、か)
誰かを「好きだ」という感情を味わうのは随分と久しぶりで、恋愛というもの自体、アメリカから帰ってきてからは思い出すこともなかった。
だが、僕の立場。
彼女の立場。
そして、この家での関係性――。
諸々を考えれば、何事も起こらないほうがいい。
それが、正解だということは誰に言われるわけでもなく理解できる。
――なぜなら、僕はもう“大人”だからだ。
そう、自分に言い聞かせた――その時。
コンコン――。
静かな部屋に、ノックの音が響いた。
(……ん? こんな時間に?)
「どうぞ」
ガチャ、と扉がわずかに開く。
「……失礼します、松野さん」
「……っ」
顔をのぞかせたのは、同じくこの家に住み込みで働く家政婦、梅宮さんだった。
この時間帯、彼女はいつも自室にいる。
業務時間外に、僕の部屋を訪ねてくるなど、今まで一度もなかった。
(ど、どうしたんだ……?)
思わず、声が少し上ずる。
「う、梅宮さん……?
こんな時間に、どうされたんですか?」
「あ、いえ。まだ明かりがついていたので……。こんな遅くまで、お仕事ですか?」
心配そうな視線が、まっすぐこちらに向けられる。
「ええ……。
ですが、今やっているのは春香社長の案件ではありません。個人的な作業ですから、問題ありませんよ」
「そうですか。この後もですか?」
「はい、もう少し進めたいので」
そして――彼女は、少し間を置いてから静かに言った。
「……あの、松野さん。
もし、よろしければ……一息、入れませんか?」
「……え?」
理解が追いつかず、間の抜けた声が漏れてしまった。
そんな僕を見て、梅宮さんはやわらかく微笑んだ。
* * *
リビングへと降りた僕達。
彼女に言われるがまま、キッチン前のテーブルの前の椅子に腰を下ろす。
梅宮さんは部屋着のままキッチンへ向かい、戸棚から紙袋を取り出した。
「それは……?」
思わず、問いかける。
「実は今日、駅前のショッピングモールに行きまして」
ガサ、と袋の中身を取り出す音。
「……それは、コーヒーですか?」
少し離れた場所で、梅宮さんはパッケージ入りのドリップコーヒーを手にしていた。
パッケージには、はっきりと印字されている。
――“SAKURA COFFEE”。
「はい。この間、陽一様が新商品をリリースして、店舗にも置いているとおっしゃっていたので。見に行ったのですが……つい、たくさん買ってしまって」
彼女は一度、言葉を区切り――
「よければ……
私と一緒に、飲んでみませんか?」
「あ、ああ……。
僕でよければ、もちろん」
そう答えると、梅宮さんは安心したように微笑み、食器の準備を始めた。
カチャカチャと鳴る陶器の音が、静かな夜に心地よく響く。
その音に耳を傾けながら、僕は、沈黙を埋めるために言葉を探していた。
「駅前のモールのサクラコーヒーの店舗は、今月の頭にオープンしたばかりでしたよね?」
何気ない雑談のつもりで、そう口にした。
「はい。お休みだったのもあって、満席でしたよ。“二人”で入ったんですけど、少し待ったくらいに大盛況でした」
二人――。
その言葉が、胸の奥でこだまする。
吉野くんにも聞いていた梅宮さんの“大切な人”。
今日、彼女が会っていた相手。
(……今なら、聞けるのか?)
この空気、この距離、このタイミング。
もしかすると、こんな機会はもう二度とないかもしれない。
けれど――
もし、真実を知ってしまったら。
その時に傷つくのは、他でもない僕自身だ。
「……そうですか」
結局、それ以上の言葉は続かなかった。
梅宮さんはポットを手に取り、静かな所作でお湯をカップへと注ぐ。
湯気がふわりと立ち上り、コーヒーの香りがゆっくりと広がっていく。
その穏やかな時間の中で、僕は自分の胸の内だけが、少し騒がしいことに気づいていた。
やがて、僕の目の前にコーヒーが置かれた。
「さ、どうぞ。松野さんはブラックでしたよね」
「ええ。ありがとうございます」
湯気の立つカップを受け取りながら、向かいを見ると、梅宮さんも席に腰を下ろしていた。
「梅宮さんは、このあとお休みになるんですよね。
遅い時間にコーヒーを飲んでも、大丈夫なんですか?」
「大丈夫です。私のはカフェインレスのものですので」
「それなら良かった」
そう言って、僕はカップを持ち上げる。
「では、いただきます」
「はい」
一口、口に含む。
ふわりと鼻に抜ける香り。
苦味は穏やかで、それでいて芯がある。
「……とてもいい香りですね。味も美味しい。かなり、陽一さんのコーヒーの風味を再現できていると思います」
そう伝えると、梅宮さんは少しほっとしたように微笑んだ。
そして、彼女も自分のカップに口をつけてから言う。
「陽一様も、この商品の開発にはかなり苦労されたと仰ってましたから」
この家で働く者として、そして“あのコーヒー”をよく知る人としての言葉。
「そういえば……」
ふと、梅宮さんが思い出したように言った。
「今日は、サクラコーヒーを出たあとに吉野さんに久しぶりにお会いしましたよ」
「え、それは奇遇ですね」
もちろん、僕はそれを知っている。
だが、悟られないよう、できるだけ自然な調子で返した。
「はい。しかも、澪お嬢様とご一緒だったんです」
「え……! 澪さんも?」
それは知らなかった。
思わず、素の反応が声に出てしまう。
「なんでも吉野さんからのお誘いで、
ご友人たちに渡すホワイトデーのお返しを、一緒に選んでほしいとのことだったようです」
そう語る梅宮さんの表情は、先ほどまでの落ち着いたそれとは少し違っていた。
どこか柔らかく、年相応の――いや、それ以上に無邪気な微笑み。
「いいですよね。あのお年頃の恋愛って。なんというか……とても純粋で」
「……あの二人は、もうお付き合いをしているんですか?」
気づけば、そんなことを聞いていた。
「いえ。そういうわけではないようですけど……」
梅宮さんは一度言葉を切り、それから、確信めいた口調で続けた。
「でも、きっと時間の問題だと思いますよ」
「……そういうものですか?」
「はい。きっと、そういうものです」
あまりにも迷いのない言い方に、僕は苦笑しながら尋ねた。
「梅宮さんが、そこまで言い切るなんて珍しいですね。何か根拠でもあるんですか?」
「いいえ」
彼女は、カップを両手で包んだまま、さらりと言った。
「勘です。女の」
彼女は言い放った。
「な、なるほど」
「あ、せっかくなので……お菓子でも出しますね」
そう言って、梅宮さんは立ち上がり、キッチンへ向かった。
冷蔵庫を開ける音、引き出しの擦れる音。
やがて、小さな白い皿を手に戻ってくる。
皿の上には、こんがりと焼き色のついたクッキーが数枚並んでいた。
「これは……クッキーですか?」
「ええ。今日、お会いした人からのホワイトデーのお返しなんです」
その言葉に、僕は一瞬だけ言葉を探した。
「ホワイトデーというと……まだ、バレンタインが終わったばかりですよね。ずいぶん、気が早いようにも思えますが……」
梅宮さんは、クッキーに視線を落としたまま、少しだけ微笑んだ。
「はい。その方は、来月にはお仕事の関係で、少し離れた場所へ住まいを移すそうで……。だから、今のうちに、ということみたいです」
「その方は……梅宮さんにとって、ずいぶんと大切な人なんですね――」
そう言いながら、僕は何気なくクッキーを一口かじった。
「こ……これは! 美味しいですね!」
思わず声のトーンが上がってしまう。
「それに……多分ですが、これ、市販品ではないですよね?」
甘さの奥に、手作り特有のやわらかさがある。バターの香りも強すぎず、素材の輪郭がはっきりしている。
その反応に、梅宮さんもぱっと顔を明るくして言った。
「で、ですよね!? やっぱり竹田さんはすごいなぁ」
――竹田さん。
それが、彼女にとっての“大切な人”の名前。
「竹田さん、ですか」
「あ……すみません。つい」
梅宮さんは少し照れたように笑った。
「はい。このクッキーを作ってくださった方のお名前です」
「どんな方、なんですか?」
気づけば、僕は一歩踏み込んでいた。
勇気を振り絞った、というより――
純粋に知りたくなったのだ。
こんなクッキーを作る男が、どんな人物なのかを。
「竹田さんは……私がこの仕事に続けるきっかけになった方です」
梅宮さんは、カップを両手で包みながら語り出す。
「当時は、私、何をやっても上手くいかなくて……
もう辞めようかって、本気で思っていた時期があったんです」
「……そうだったんですか」
「はい。でも、その時に竹田さんが、仕事の基礎から、心構えから……本当に全部、叩き込んでくださいました」
その声には、尊敬と感謝が滲んでいた。
「今の私があるのは、あの方のおかげです。私は……ただ憧れて、必死に背中を追いかけてきただけで」
「驚きました。正直、梅宮さんほど何でもできる方にも、そんな時期があったとは……」
「とんでもないです」
梅宮さんは、静かに首を振る。
「私は、あの方に比べたら、まだまだです。それでも……あの人に認めてもらえるようになりたくて、ここまで来ました」
そう語る彼女の表情は、幸せに満ちていた。
(なるほど……)
胸の奥で、すとん、と腑に落ちる。
これは少なくとも、僕が割って入れる類のものではない。
憧れ。
恩。
そして、人生を変えてくれた存在への、深い敬意。
――つけ入る隙など、最初からなかった。
だが同時に、
不思議と胸は穏やかだった。
失恋に似ていて、でもどこか、納得のいく結末。
僕は、残りのクッキーをそっと口に運んだ。
その優しい甘さが、今の気持ちには、よく合っていた。




