第7話 君のいる境界線の向こうへ
自転車をこいで坂を上る。
冷たい風が頬を刺し、街灯の下に桜井家の高い塀が見えてくる。高く、均一に塗られた壁。まるで音を反射しない材質で作られたかのように、そこだけ空気が止まっている。街灯がまばらに続き、照らされた落ち葉がアスファルトの上で音もなく転がっていく。
俺の手の中には、彼女の白いイヤホン。
俺は自転車を止め、門の前に立つ。
指先が冷たくかじかんで、インターホンのボタンを押すまでに少し時間がかかった。
「よし、いくぞ」
ピンポーン――
小さな電子音が、静寂に吸い込まれる。
数秒の間を置いて、スピーカーから低い電子ノイズとともに声が流れた。
門のインターホンを押すと、すぐに母・春香の声が響いた。
『……あなたはもしかして吉野くん? こんな夜に何のご用かしら?』
スピーカー越しの声は、冷たく静かだった。
「桜井さん――いえ、娘さんの忘れ物を届けに来ました」
少しの間をおいて返事があった。
『娘はもう寝ています』
予想していた返事だ。それでも俺は引かなかった。
「ほんの少しでいいんです。これを娘さんに渡したいだけです。彼女の物なんです」
数秒の沈黙。やがて、電子音とともに門が開いた。
「家の前まで来なさい」
玄関の灯りが落ち着いた光を放つ。
桜井さんの母・春香が現れた。微笑を浮かべているが、その瞳は氷のように鋭かった。
リビングへ通される。室内は整然としていて、コーヒーの香りがわずかに漂っていた。
机の上にはタブレット端末と書類の束。生活感のない空気が、この家の静けさを際立たせている。
「あなた、コンビニで夜に娘と会っていたそうね?」
春香の声はやわらかいが、含まれた圧は強かった。
――秘書から報告が入っている。俺はすでにそれを知っていた。
「……はい。でもそれはクラスメイトとして少し話していただけです。危険なことは何もしていません」
「あなたが悪いとは言っていないの。ただ、“身の程”を知ってもらいたいだけ」
その言葉に、胸の奥で何かが鳴った。たぶんこれは怒りだ。
“家庭の格差”を暗に突くような響き。
それでも俺は笑顔を作ったまま言い返す。
「俺は、桜井さんが笑っていた夜を知っています。だから、あの笑顔を奪うようなことはしたくない。
お母さんがやっていることで、彼女が苦しんでいるのを知ってますか?」
春香の指先が、わずかに止まった。
だが、表情は崩さない。
「私はあの子の将来を思ってやっているの。あなたに何が分かるというの? それとあなたは娘の忘れ物を渡しにきたのではなくて? 代わりに私が渡しておくわ」
「これは……俺が直接、本人に渡します」
「……」
言葉がぶつかり、空気が張り詰める。
『娘はもう寝ていると言ったでしょう?』
「そんな、彼女ならまだこの時間は起きてるはずです!」
思わず声が大きくなる。
春香の視線が一層鋭くなり、低い声で告げる。
「何度も言わせないで。それを渡す気がないのならもう帰って。そして、ここへは二度と来ないでちょうだい」
「な! ……聞いてください!」
「これ以上居座るなら、このボタンを押して警備会社の人を呼ぶわよ」
その一言に、拳を握りしめたまま、俺は言葉を飲み込んだ。
春香の静かな声の裏に、決して越えてはいけない線があるのを感じた。
「……失礼しました。――でも、また来ます」
俺は深く頭を下げて、玄関を出る。
冷たい夜風が肌を刺す。
* * *
その頃、桜井家では――
澪はかすかな話し声に気づき、ルームウェアのセットアップ姿のまま階段を下りた。
リビングに入ると、母が右手の親指の爪をかじって難しい顔をしている。
「ねぇ、お母さん。今、誰か来てた? なんだか話し声が聞こえたけど」
「ええ、あなたのクラスメイトの吉野くんよ。こんな時間に来たから、帰るように言ったわ」
「……え?」
「あなたは勉強で忙しいでしょう。それに、あなたをたぶらかそうとするような人とは関わらない方がいいの。あなたの将来のためにもね」
澪の手が震える。
「お母さん、吉野くんは何の用で来たの?」
「さぁ、あなたの忘れ物がどうとか……」
それを聞いた瞬間、澪は踵を返した。
「ちょっと澪! どこへ行くの!?」
「お母さん、ごめん。私、行かなきゃ!」
玄関の扉が開き、冷気が流れ込む。
「澪!」――母の叫びが夜に溶けた。
* * *
「うう、さむ! 仕方ない、今日は帰るか」
坂の上から自転車を押しながら戻ろうとしたとき、背後から誰かの声がした。
「吉野くん!」
振り返ると、息を切らせた澪が街灯の下に立っていた。
ルームウェア姿のまま、髪は乱れて頬は紅潮している。黒ぶちの眼鏡がすこしずれていた。
「桜井さん!? どうして!? それよりそんな恰好で――こんなに寒いのに!」
俺は反射的に着ていた黒いジャケットを彼女に羽織らせた。
「ごめんね……せっかく来てくれたのに、私……ありがとう」
「いや、それはいいけど……」
そのとき、後ろの通りから黒いスーツの男が一人、駆けてくるのが見えた。
息を切らせながら、何かを叫んでいる。
「なあ、あれ誰だ?」
「……秘書さん。お母さんに言われて、私を連れ戻しに来たんだよ」
「マジかよ……! どうする桜井さん?」
桜井さんは振り向きもせず言った。
「もう少し、吉野くんと話したい!」
「よし!」
俺はうなずき、自転車にまたがる。
「後ろ乗って!」
「え……うん!」
「しっかりつかまってろよ!」
「お待ちください、お嬢様!」
背後から秘書の叫び声が響く。
桜井さんがそっと俺の腰に手を回した。指先が俺の服越しに触れる。わずかな体温が伝わってくる。
たったそれだけのことなのに、胸の奥がざわついた。冷たい夜風の中で、そこだけがやけに温かい。ペダルを踏む足に力が入らず、心臓の鼓動がやけに大きく聞こえる。
(余計なことを考えるな俺――)
そう思いながらも、どうしてか顔が熱くなる。
「しっかりつかまってろよ!」
「うん!」
背中に伝わる彼女の息づかい。
その一瞬だけ、夜の風よりも強く、自分の鼓動を感じていた。
ペダルを強く踏み込み、坂を下る。夜風が顔を切るように冷たい。
遠ざかっていく家の灯りが、二人の影を長く伸ばした。
それが、俺と桜井澪が“逃げた”最初の夜だった。