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夜のコンビニと君のブラックコーヒー  作者: アキラ・ナルセ
第8章 恋のキューピッド編

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第75話 好きな人のことを諦めるってさ


「ちょっと、相談したいことがあってさ」

『相談? うん、いいよ。どうしたの?』


 俺は、その日の朝に松野さんと会っていたこと――

 松野さんが梅宮さんからチョコレートをもらったこと――

 そして彼が妙にそれを気にしてしまっていることまで、全部話した。


 桜井さんは途中で茶々を入れるようなことはせず、ただ小さく相槌を打ちながら、最後まで真剣に聞いてくれた。


「――というわけでさ。俺も“考えてみます”とは言ったものの……どうしたもんかなって」


『そうだったんだ……松野さんが……』


「ああ。松野さん、自分でも言ってたけどアメリカ暮らしが長かったみたいだし、恋愛は奥手というか……。

 桜井さんなら、あの家で梅宮さんとも松野さんとも一緒に住んでるだろ? 

 だから、何かいい案がもらえるかなと思ってさ」


『うーん……』


 少し考え込むような沈黙。


「桜井さん?」


 呼びかけると、彼女はゆっくり口を開いた。


『あのね大河くん。梅宮さんなんだけど……多分、好きな人がいると思うの』


「ええ!?」


 衝撃。


 それが本当なら――松野さんがもらったチョコレートは、紛れもない義理チョコということになる。


「そ、そうなのか?」


『……うん。

 私も直接そうだって本人から聞いたわけじゃないんだけどね』


 そう前置きをしてから、桜井さんは続けた。


『梅宮さんに教わって、私が大河くんに渡したあのチョコレート……』


 そこまで言ったところで――

 桜井さんの言葉がぴたりと止まった。


 と同時に、俺の思考も止まった。


 ……あ、これは。


 桜井さんは、梅宮さんの話をしようとして――


 でも、その流れで必然的に“自分が俺に手作りチョコを渡した日のこと”が浮かぶ。

 そりゃそうだ。俺も浮かんだ。


 そして、脳裏に勝手に再生される。


『……私、大河くんのことが好きだもん』


(……ッッッ!!)


 破壊力が強すぎる。


 俺、たぶん桜井さんもだけど――

 左右に首をぶんぶん振って、その記憶を一旦、追い払おうとした。


『ご、ごめんね大河くん!! 話を続けるね!!』

「あ、ああ!! 頼む!!」


 お互いテンパりながらも、強引に本筋へ戻す。


 そして桜井さんは、二月十三日の夜――

 つまりチョコ作りをしていた日の梅宮さんの様子について語り始めた。


『えっと、あの日はね――』



 * * *



 その日――


 私たちが梅宮さんの“チョコレートづくり実習”を終え、バレンタイン本番を迎える前日の夜のこと。


 エプロンの紐をほどいて一息つく梅宮さんに、私は思わず頭を下げた。


「梅宮さん、今日は長い時間、私たちに付き合ってくださってありがとうございました!」


 それに続くように、お母さんも微笑む。

「ほんとよ。お菓子作りって、こんなに大変だったのね。改めて、梅宮さんには感謝しなくちゃ」


 すると梅宮さんは、耳まで赤くしながら首を振った。


「い、いえ……そんな。お二人に喜んでいただけて、私の方こそ嬉しいです。それに……私自身のプライベート用のチョコレートの材料も、春香社長が分けてくださいましたし」


 ガラッ


 私は気になって、もう一度冷蔵庫の中を覗き込む。


 そこには、私とお母さんが作ったものとは段違いに完成度の高い――

 まるで宝石みたいに仕上げられたチョコレートが並んでいた。


「それにしても……本当に綺麗ですよね、梅宮さんのチョコレート。これ、誰に送るものなんですか?」


 私が問いかけたその瞬間。


「そ、それは家族と……お友達。それから――」


 梅宮さんはぴたりと動きを止め、めずらしく視線を下に落とした。

 白い頬が、ふわっと赤く染まっていく。


 一度、深呼吸するみたいに胸が上下する。


「……その。私にとっての“大切な人”に、です……」


 “大切な人”。


 その言葉だけが、妙に澄んだ音を立てて私の胸に落ちてきた。


 私はそれが誰なのか、とても興味はあった。

 けれど――

 あまり深く立ち入るのは失礼だと思って、それ以上は聞けなかった。



 * * *



「なるほどなぁ。確かにその話の流れだと……その“相手”が松野さんのことじゃなさそうだよな」


 俺がそう言うと、電話越しに桜井さんの声が届く。


『うん。

 梅宮さんと松野さんって、普段から顔を合わせることが多いし……。

 もしお互いに特別意識してたら、もっと態度に出ると思うの』


「確かに。

 クリスマスイブに俺が押しかけた時もあの二人、気楽に会話してる感じだったもんな。

 ――ってなると、チョコレートを渡すくらい好きな人が“別にいる”ってことになるよな」


『……うん。そうだと思う』


「ってことは……松野さんの恋、もう暗礁に乗り上げたってことかあ……」


『うーん……』


 その後もお互いに答えが出ないまま、沈黙が落ちた。


「とりあえず、色々教えてくれてありがとな。松野さんには俺から連絡してみるよ」


『うん。……頑張ってね、大河くん』


 そこで通話は途切れた。


「ああ。おやすみ桜井さん」

「うん、おやすみなさい大河くん」



 * * *



 翌日――


 俺は改めて松野さんに電話をかけ、昨夜の桜井さんの話をそのまま伝えた。


『うーん……』


 電話の向こうで、松野さんが重い唸り声を出す。


『つまり吉野くん。

 梅宮さんには、すでに“想い人”がいる可能性が高い……ということなんだね?』


「残念ですけど、今のところは……そういうことみたいです」


 俺の返答に、松野さんはしばらく黙り――

 やがて、静かに息を吐いた。


『時間をかけさせてすまなかったね。

 もうわかった。――この件のことは、考えないことにするよ』


 通話越しの松野さんの声は、どこか寂しさを感じる。


「……はい。それじゃ」


 俺はスマホからそっと指を離し、通話を切った。


 胸の奥が、じりじりと痛い。


 誰かを好きな気持ちを諦める――あれほど苦しいことはない。


 俺は、それをもう知っている。


 そして同時に、

 諦めずに進んだ先が必ずしも明るいとは限らないことも、よく知っている。


 だからこそ思う。


 松野さんと梅宮さんは“大人同士”だ。

 同じ家で働く同僚に近い関係で、距離を誤れば生活にすら支障が出るかもしれない。


 今の、つかず離れずの距離感――それこそが一番いいのかも。


 それが“大人の対応”というものだ。


 そんなこと、高校生の俺にだって容易に想像がつく。


 ――だけど。


 だけど。


 どうしても、胸のどこかがざわつく。


 諦めるという言葉を、あんなに静かに口にした松野さんの声が、

 耳から離れてくれなかった。


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