第74話 なんだか緊張する君への電話
「そうか……義理チョコというものがあるのだな」
「はい。たぶん今回のは、そういう類だと思いますよ」
俺がそう答えると、松野さんは「そうか……」と小さくうなずき、胸ポケットから黒いスマホを取り出した。
「実はね。これが――その、もらったチョコレートだ」
画面をこちらへ向けてくる。
次の瞬間。
「……え」
俺は、思わず声が漏れた。
スマホの中に映っていたのは――
白い大皿に美しく並べられた、完成度の高すぎるチョコレート。
まるで高級チョコレートブランドの新作発表かと思うほど、繊細なデザイン。
均一な光沢、細かい飾り付け、色の組み合わせ。
素人が作ったとは到底思えないクオリティだった。
「めちゃくちゃ……綺麗ですね」
「そうだろう?」
松野さんは、どこか誇らしげに胸を張った。
いや、誇らしがる立場かは置いといて。
(え、これ本当に手作り!?)
驚きながらも、俺はふと気づく。
一つひとつの形。
模様の付け方。
色のバランス。
どこか――見覚えがある。
(……あれ?)
そうだ。
桜井さんが、俺にくれたチョコレート。
あれと“微妙に似ている”のだ。
まったく同じじゃない。
でも、発想や細工の仕方に共通点が多い。
俺の脳裏に、彼女の発言を思い出す。
――“お母さんと梅宮さんと一緒に作ったの”。
桜井さんはそう言っていた。
つまり。
俺が感動した桜井さんのチョコの裏側には、
この“本職レベルの家政婦さん”の指導があったわけだ。
にしても――
(梅宮さん、想像以上にすごい人じゃないか……)
そのチョコを見つめながら、俺は思わず感心してしまった。
「はぁ」
松野さんは深くため息をついた。
「日本の家庭では、義理といえど皆これほどのものをもらうんだな……」
「いえ、これは一般的ではないかと……」
俺は苦笑するしかなかった。
これを基準に“日本の義理チョコ”を語られたら困る。
一般家庭の高校生代表として全力で否定したいレベルだ。
(ていうか……このクオリティはもう義理とかそういう次元じゃないだろ)
だが、このチョコレートだけを見たら――
本命なのか、義理なのか、俺にも判断がつかない。
むしろ、どちらにも転びうる絶妙なライン。
彼は、生気の抜けたような声で言った。
「……それに吉野くん。実はもうひとつ、悩みがあってね」
「は、はい……なんでしょう」
松野さんはほんの一瞬、迷うように視線を落とし――
「このチョコレートをもらってからというもの……梅宮さんのことが、どうも気になってしまっていてね」
――まさか!
「え。……き、気になるって?」
俺が思わず聞き返すと、松野さんは両手で顔を覆い、肩を落とした。
「無論、それまでは、ただの同僚だと思っていたんだよ。
桜井家で働く者同士、礼儀正しく、節度を守り、淡々とね」
そこで彼は苦しげに続ける。
「だが……チョコレートをもらったその日からだ。
日本のバレンタインの習慣を調べてしまってね。
“女性が好意のある男性に贈る”という記述を見た途端――
つい……彼女を目で追うようになってしまってだな……」
言葉を選ぶように喉を震わせ――
――まさか!?
「どうやら僕は、梅宮さんのことが好きになってしまったのかもしれない」
俺の脳内で警告音みたいなのが鳴り響く。
落ち着け。
整理しろ俺。
松野さんは日本のバレンタイン文化を正しく理解していなかった。なにも知らない梅宮さんは、松野さんには普通に義理チョコとして渡しただけの可能性が高い。
なのに今、どういうわけか“本人の気持ちが傾いてしまった”という展開。
(うわぁぁこれ絶対ややこしいパターンだ……!!)
目の前の松野さんは本気で悩んでいるようだった。
「吉野くん……僕は、どうしたらいいんだろう……?」
俺の胃がきゅっと縮んだ。
「えぇぇ!?」
(ど、どうする俺!! この相談、重すぎる!!)
* * *
その日の夜。
俺は自室の机に向かい、スマホを両手で持って画面をじっと見つめていた。
表示されているのは――
『桜井澪』という名前。
「……引き受けちゃったからには、やるしかないか」
思わず小さく息を吐いた。
そうだ。
恋愛偏差値ゼロの松野さんをあのまま放っておくことなんて、俺にはできなかった。
困り切った顔で相談してきたのを見たら、「なんとか協力します」と言う以外の選択肢はなかったのだ。
とはいえ――
じゃあ“どう協力するのか”となると話は別だ。
松野さんの気持ちが誤解なのか、本物になりつつあるのかすら判断がつかない。何しろ本人にもよくわかってなさそうだからだ。それに加えて梅宮さんの真意もわからない。
まさにお手上げ状態。
(……いや、だからこそ考えられる手段は、現状ひとつしかない)
梅宮さんと一番仲が良くて、
桜井家の内情をよく知っていて、
しかも俺が相談できる人間。
――桜井澪。
彼女しかいない。
問題は……そう。
バレンタインデー以来、まだまともに話せていない、ということだ。
(いや正確には、話してないんじゃなくて……俺が勝手に意識して上手く話せてないだけだ……)
情けない、と心の中で思う。
俺はスマホをそっと机に置いた。
バチンッ!!
「いってぇ!」
思わず声が出た。
両手の平で、自分の頬を思い切り叩いたのだ。
「……よし。落ち着け、俺」
深呼吸して、もう一度スマホを見る。
画面の向こうには、こんな俺に“本命チョコ”を渡してきた彼女がいる。
――それに、松野さんが困ってる以上、やるしかない。
「よし、かけるか」
深呼吸を一度して、俺はスマホの通話ボタンをタップした。
コール音が二回。だけど俺の心臓の鼓動はその何倍も早く動いていたような気がした。
そして――
通話が繋がった。
「あ、もしもし桜井さん?」
俺がそう言った瞬間だった。
ドスン!!
耳をつんざくような衝撃音。
「うわっ!?」
思わず声が出た。スマホを耳から少し離す。
『ご、ごめん大河くん! ちょっとスマホが手から滑っちゃって……!』
スピーカー越しでもわかるくらい、桜井さんは慌てていた。
(俺からの電話に……そんなに慌てるか?)
「い、いや大丈夫。びっくりはしたけど」
『あはは……で、どうしたの? 大河くんから電話なんて珍しいよね』
「あ、ああ。実はな――」
スマホ越しでも、少し緊張する。
それでも――言うしかない。
「ちょっと、相談したいことがあってさ」
『相談? うん、いいよ。どうしたの?』
柔らかい声が耳に落ちてきて、胸の緊張がほんの少しだけほどける。
窓の外からは、丸い金色の月から放たれた光が机に落ちていた。




