第73話 休日の昼下がり。意外なあの人と二人きり……
今日は土曜日。
俺は今、とある地元のファミリーレストランの席に座っていた。
昼時ということもあって、店内は家族連れの笑い声や食器の音でにぎやかだ。
キッズメニューを開いてはしゃぐ子どもや、隣のテーブルでは夫婦が穏やかにランチを楽しんでいる。
そんな喧騒の中で、一人だけ落ち着いた足取りの男性が、俺の席へと近づいてきた。
「やぁ、吉野くん」
「あ、松野さん。お久しぶりです」
桜井さんのお母さん――桜井春香さんの専属秘書、松野さん。
普段は黒いスーツでがっちり固めて、まさに“仕事の人”という印象しかなかった。
だけど今日の彼は、ブルーのシャツにベージュのチノパンというラフな格好。
どこか年相応の柔らかさがあって、思わず二度見してしまった。
「待ったかい?」
「いえ、僕も今来たところだったので」
「急に呼び出して悪かったね。去年のクリスマスイブの日に、君に“改めてお礼をする”と言っておきながら、そのままにしていたのがね……どうにも気持ち悪くて」
「そんな、気にしなくて良かったのに」
「いやいや。約束は守らないとね。年が明けてから少し仕事が慌ただしくて、なかなか時間が取れなかったんだよ。ようやく少し余裕ができたから……忘れないうちに、と思ってね」
松野さんは丁寧な動作で着席し、メニューを軽く開く。
スーツ姿しか知らなかったから、余計に“普通の大人の男性”に見える。それに、あの時とは違ってオフだからか、敬語ではなく砕けた口調になっていて、より親しみを感じる。
(……にしても、なんだろうな。
松野さんとファミレスで向かい合って座るって、想像したことなかったな)
なんだか不思議な気分だった。
「今日はあの時のお礼だ。なんでも好きなものを頼んでいいよ」
「本当ですか!? ここのハンバーグ、昔食べたことがあるんですけど結構好きなんですよね」
思わず前のめりになってしまった。
普段、うちはほとんど外食をしない。
母親が父親と離婚してから、贅沢は基本NGという家の空気があるからだ。
もちろん、それで不満があるわけではないのだが。
そんな俺の反応がおかしかったのか、松野さんは爽やかに笑った。
「ああ。どれでも構わないよ」
俺はメニューを隅々まで見て、気になっていた新商品――
大きなハンバーグに、とろけるチーズが雪崩れみたいにかかったやつを選んだ。
「じゃあ、僕も同じものでお願いします」
松野さんは時間をかけることなくメニューを閉じながら、さらりと言った。
こういうところが、いかにも“デキる大人”という雰囲気を出している。
「このレストランは僕も仕事の合間に使ったりするんだ。平日の昼過ぎはお客さんも少なくてね」
「へぇ、そうなんですね」
そんなふうに何気ない話をしながら、料理が運ばれてきた。
ハンバーグから立ち上る湯気と、チーズの香ばしい匂い。
空腹だったこともあり、見ただけでテンションが上がる。
松野さんはナイフでハンバーグをきれいに切り分け、フォークを使って上品に口へ運んだ。スーツ姿ではないのに、立ち居振る舞いは完全に“ビジネスマン”のそれだ。
「君があの日、桜井家に割って入ってくれたおかげで……春香社長を含めた桜井家は順風満帆だよ。ビジネスも、もちろんプライベートもね。本当に感謝しているよ」
彼の口調は落ち着いていたが、その言葉には確かな実感がこもっていた。
「それは良かったです。桜井さんを見ていても、そうなんだろうなとは思ってましたけど……松野さんから直接聞くと、余計に安心します」
「それは良かった。あの日、君に頼った僕の“直感”に間違いはなかったということだね」
そう言って、松野さんは柔らかい笑みを見せた。
その後、俺たちは山のように大きかったハンバーグを平らげ、食後のブラックコーヒーを前にしていた。
店内には、昼時の喧騒が少し落ち着いた頃のざわめきが流れている。
そんな穏やかな空気の中。
――松野さんの表情が変わった。
コーヒーカップをそっと置き、俺の方へすっと身体を寄せてくる。
「時に吉野くん。君に……別件で相談があるんだけど、いいかな」
「え? あ、はい。もちろんいいですけど……俺にですか?」
「君にだ。ほかに相談できる相手がいなくてね。君なら、と思った」
その言葉に、俺は思わず姿勢を正した。
今まで穏やかで優しげな松野さんだったが、こんなにも真剣な眼差しを向けてくるのは今日の中で初めてだった。
自然と背筋が伸びる。
「……わかりました。なんでしょう?」
俺はコーヒーカップをそっとソーサーに置き、松野さんへ向き直った。
――胸の奥で、何かが静かに緊張し始めていた。
「実はね……」
松野さんが低い声で切り出した。
ごくり――と、俺の喉が勝手に鳴った。
「は、はい」
「……チョコレートをもらってしまったんだ」
沈黙。
「……はい?」
「だから、その……チョコレートをもらってしまったんだよ。梅宮さんに」
「えーっと、梅宮さんって……桜井さんの家にいる家政婦さん、ですよね?」
「ああ。僕はありがたいことに春香社長に気に入っていただいていてね。梅宮さんと同じく、桜井家に住み込みで働かせてもらっているんだが……その同僚とも言える彼女からチョコレートをもらってしまったんだ」
……理解が追いつくようで追いつかない。
「えーっと。それって、なにか問題でも?」
俺が恐る恐る聞き返すと、松野さんは――
なぜかさらに深刻な顔で身を乗り出してきた。
「問題もなにも……日本では、バレンタインデーというのは“女性が好きな男性にチョコレートを贈る日”なんだろう?」
「え、あ……はい。一応、昔からの意味ではそうなってますけど……それって――」
その瞬間、脳裏に浮かんだ。
(そういえば……桜井さんが言ってたな。
“松野さん、日本の文化にちょっと疎いところがあるんだよね”って……)
いやでも、それにしたって――
「それ、多分……“義理チョコ”なんじゃないですか?」
「ぎ、義理チョコ……? 義理チョコとは、いったいどういうことだい?」
マジかよ。
俺の心の声が、思わず顔に出ていたと思う。
そこから――
俺は土曜日の昼下がりという穏やかな空気のもと、
「義理チョコとは」「友チョコとは」「職場用の世話チョコとは」「本命チョコとは」
……日本のバレンタイン文化を、時系列に沿って、ひとつひとつ丁寧に説明する羽目になった。
(なんで俺、休日のファミレスで大の大人に日本の文化講座やってるんだ……?)
数分後。
「――というわけで、バレンタインデーに女性からチョコレートをもらったからといって必ずしもその人に対して“好意がある”ってわけじゃないんですよ」
「な、なるほど……。いやぁ……危うく重大な誤解をするところだったよ。ありがとう、吉野くん……」
胸を押さえて本気でホッとしている松野さん。
その姿を見て、俺は思った。
(……これ、相談相手、俺で良かったのか? いや、まぁ良かったのかな)




