第72話 必殺・不意打ちチョコレート
俺が家の玄関を開けて家に入った直後だった――
「……ちょ、ちょっとお兄ちゃん!? なにその量!!?」
リビングにいた瑞希が、目をまん丸にして固まった。
そりゃそうだ。
俺の両腕には、紙袋が二つ。
中身は全部、今日もらったチョコレート。
「お、おかえり……って言う前にツッコミさせて。
……なに? なんなの? 今日はいったい何があったの?」
瑞希が紙袋の中身を見ながら言う。
「正直言って俺も状況を整理しきれてないよ」
「え……なにそのモテ男みたいな返答……。
でも……お兄ちゃん、なんか、よかったね」
「あぁ、まぁな」
瑞希の横を通り過ぎて、自分の部屋に向かおうとしたその時――
「待って、お兄ちゃん」
「な、なんだ?」
瑞希は少しだけ視線を落として、ぽつりと言った。
「……澪さんからは、何もなかった?」
ドキッ――と心臓が跳ねた。
(なんでまた桜井さんの名前がそこで出てくるんだよ……)
「なんでそこで桜井さんが?」
「うーん、なんとなく。勘、かな?」
さすがに鋭い。
瑞希が首をかしげた瞬間。
――ポトン。
俺のジャケットのポケットから、何かが落ちた。
「あ」
床に落ちたのは――
桜井さんからもらった、手作りチョコレートの入ったタッパー。
瑞希の視線が、それに吸い寄せられる。
「……なにこれ。手作り?」
「いや、その……」
「……ってことは、本気のやつじゃん。
え、ちょっと待って……これ、もしかして澪さん?」
「……まぁ、うん」
瑞希はゆっくりと俺の顔を見た。
その目は驚きと、興味と、ほんの少しだけ嬉しさが混じった複雑な色をしていた。
「……お兄ちゃん」
「な、なんだよ」
「“状況を整理しきれてない”ってそういう意味だったの?」
「……かもしれない」
瑞希は、ふっと小さく笑った。
それは冷やかしじゃなくて――
なんというか、“安心した人”の表情に近かった。
「そっか」
「……なにがだよ」
「ううん、なんでもない。
でもね――」
瑞希は落ちたタッパーを拾い上げ、そっと俺に渡す。
「大事にしなよ。
……それ、すごく大切なものだと思うから」
その一言が、やけに胸に残った。
「……ああ、わかってるよ」
俺はタッパーを受け取り、階段の方へ歩き出す。
背中に、瑞希の声が追いかけてきた。
「ねぇ、お兄ちゃん」
「ん?」
振り返ると、瑞希はキッチンの入口で すちゃっと腕を組んでいた。
「はい、これ」
差し出されたのは、小さめのラッピング袋。
「……あれ? それお前、友チョコ用に作ってたやつじゃないのか?」
「そうだよ? 友達用にいっぱい作ったついでにね」
瑞希はにっと笑った。
「いつも、一つももらえないお兄ちゃんにあげてたけど、今年はどうする?」
「どうするもこうするも、いるに決まってるだろ」
俺は妹の手からそれを受け取る。
「毎年ありがとうな、瑞希」
「うん、どういたしまして。
友達には配り終わったし、これで“兄枠”も消化完了〜」
瑞希は小さく伸びをしながら、ひらひらと手を振る。
そして明るく笑うと、そのままソファへ戻っていった。
* * *
バタン。
自室に戻ると、両手の紙袋を机の上に置いた。
「ふう……。まじで、すごい量だな……」
椅子を引いて腰を下ろし、紙袋の山をぼんやり見つめる。
――みんな、俺にチョコレートを渡すとき、いろんな顔してたな。
真剣な眼差し。
柔らかい笑顔。
照れくさそうにしてたやつもいた。
そのどれにも、みんなの“気持ち”が確かにあった。
(……そうだよな)
どんな形だろうと、誰かに想いを伝えるって――けっこう難しいもんだ。
こういうイベントや“物”を通してでも、それができるのなら。
それに越したことは、きっとない。
俺は桜井さんがくれたチョコレートの中からひとつ選び、口に運んだ。
「……うん。甘い」
その甘さが、今日一日の出来事と一緒に、ゆっくり胸の奥へ溶けていった。
その刹那。
ふと、脳裏にフラッシュバックする――
『……私、大河くんのことが好きだもん』
「っ!」
胸が一気に跳ね上がり、俺は思わず机の上に頬をつけて顔を伏せた。
ひんやりとした机の表面が、火照った頬にじわりと伝わる。
「ったく……。不意打ちが過ぎるぜ、桜井澪……」
小さく息を吐いたが、落ち着く気配なんてまったくなかった。
頭の中で、さっきの“本命チョコ”の場面が何度も何度もループする。
笑った顔。
震えた声。
勇気を振り絞った一言。
思い出すたび、胸の奥が妙に熱くなっていく。
その夜――
俺は布団に入ってからも、何度も寝返りを打ち続けた。
やけに鮮明な“あの声”が、ずっと耳から離れなかったのを、今でもよく覚えている。




