第70話 まだ“今日”は終わってない
その日、タイムカードを切り、バックヤードからコンビニの売り場を出た瞬間、俺は思わず足を止めた。
(……もう、なくなってる)
さっきまで学校で騒いでいた“バレンタインデー”は、ここではもう過去になっていた。
レジ前を埋め尽くしていたピンクとハートだらけの特設コーナーは跡形もない。代わりに並んでいるのは、白と水色、それから淡い黄色のパッケージがきれいに並んだ――
《ホワイトデーお返し特集》と書かれた、新しいポップ。
つい数時間前までは、ここにもバレンタイン用のチョコレートが山ほど積まれていたはずだ。
外国産の高級トリュフや、やたら映えるハート型の小箱たち。
それが今は、一番下の段の隅っこに、売れ残りだけが申し訳程度に押しやられている。
(相変わらず、切り替え早ぇな……)
日付が変わる前だっていうのに、季節を先取りして次のイベントの準備をする。
コンビニって場所は、良くも悪くも“今この瞬間”に未練がない。
「やぁ、吉野くん、おはよう」
店長がレジ奥から顔を出して声をかけてきた。
「あ、おはようございます、店長。……もうホワイトデーのコーナーになってるんですね」
「まぁねぇ。でもこれがまた売れるんだよ。早めにお返しを買っておきたい心理、ってやつだろうね」
「わかります。僕にも、なんとなく」
「ん? もしかして学校でたくさんもらったのかな?」
「あ、はい……思っていたよりは、ずっと」
「それはおめでとう! じゃあ、うちでたくさん“お返し”買ってくれていいんだよ?」
店長は嬉しそうに笑った。
「はは……考えときます」
* * *
数時間後。
俺はいつものように店内のゴミを分別し、店外の倉庫へ運んでいた。
今日はいつもより気温が暖かい。
(あとちょっとで、また春が来るな)
そんなことを思いながら、コンビニの正面へ戻った――その時。
いた。
桜井さんが。
彼女は左手に缶のブラックコーヒーを持ち、コンビニ前の青いベンチに座っていた。
背後からは店内の柔らかい光が漏れ、彼女の背中を淡く照らしている。
「よ」
俺が声をかけると、
桜井さんは耳の白いイヤホンを外し、ゆっくりと顔を上げた。
(……あれ。なんだろう。いつもとちょっと違う)
「あ、大河くん」
「来てたんだな。……あ、今日はチョコレートありがとうな。大島さん主導で男子全員に配るって方式、やっぱ良かったな。みんな喜んでたし」
「うん。私はあのあとも学校にいたけど……特に大きなトラブルもなく終われたよ」
「そっか。それは良かったな。事前に情報を共有してたおかげだ」
「うん」
彼女はうなずいた。
缶コーヒーを手にした桜井さんは、ふぅ、と小さく息をはいた。
白い吐息はもうほとんど見えない。
春の気配が、ほんの少しずつ夜の空気に混じり始めている。
でも――
(……やっぱり、いつもと違う)
普段の彼女は、落ち着いていて、柔らかくて。
目が合えばふわっと笑ってくれる。
いや、笑ってくれてはいる。
だけど今日の桜井さんは、どこか“何かを飲み込んでいる”ように見えた。
桜井さんは、そっと缶コーヒーを手元で揺らした。その小さな動きに合わせて、缶の中の液体がかすかに音を立てる。
(……そうだ)
丁度いい。桜井さんには――言っておきたいこともある。
「桜井さん」
「え?」
彼女が顔を上げる。
コンビニの白い光が、瞳に小さく反射して揺れた。
「俺、もうすぐバイト終わるからさ。このあと……少し時間ある?」
一瞬。
本当に一瞬だけ、桜井さんの瞳がぱあっと大きく輝いた。
そして――
「うん! 待ってる!」
迷いのない声。
その後、俺はタイムカードを切り、スタッフルームで制服から私服へ着替えた。
深呼吸を一つしてから、コンビニ前の青いベンチへ向かう。
そこには、変わらず桜井さんの姿があった。
「ごめん、待たせた! 中のイートインで待っててくれても良かったのに」
「ううん、大丈夫。私……ここが好きだから」
「そっか」
彼女の横顔は、夜のコンビニの光に照らされて柔らかかった。
「それより大河くん、どうかした?」
「あ、うん。桜井さんには、ちょっと言っておきたくてさ。ほら、これ」
俺はスマホを取り出し、画面を見せた。
放課後に渚先輩から届いた、あのメッセージと写真だ。
「わぁ……綺麗。そっか、卒業旅行かぁ」
「そう。イタリアに行ってるんだってさ。結構遠いよな」
「いいなぁ……」
「俺、あの日以来、先輩に直接会ってなくてさ。去年は先輩、俺にチョコくれたから……だから気を遣って、わざわざ旅行先から送ってきてくれたんだよ」
「……」
「先輩は“今年はいっぱいチョコもらえるでしょ”って予言しててさ。見事に的中だよ」
「大河くん……」
「やっぱあの人はすげぇよ」
「ううん!」
桜井さんは、勢いよく首を振った。
その目は、まっすぐだった。
「そうなるように頑張った大河くんだって、すごいんだよ!」
「桜井さん……ありがとな」
胸の奥が、じんわり温かくなる。
「でも、どうしてこれを私に?」
「え? あー……そういえばなんでだろうな」
言われてみれば理由なんて考えていなかった。
「俺があの人に告白しようって決心した時、背中押してくれたのは桜井さんだし……。なんかこう、共有しておきたくなったっていうか」
「そう……なんだ」
小さく、けれど嬉しそうに笑った。
「それに……すげぇ辛かったけど、告白して良かったよ。これで心置きなく“次のこと”を考えられる。……ほんと、あの時の桜井さんには感謝してる」
「次のこと……?」
「ああ」
俺は深く息を吸い、一拍置いて言った。
「――俺、東京には行かないかもしれない」
桜井さんの目が、大きく揺れた。
「えっ……え!? 本当に?」
「まだ考え中だけどな。
元々、“東大に行って何かしたかったのか?”って言われると……正直、そうじゃないんだ」
言葉が自然とこぼれていく。
「ただ、頑張るための“目安”っていうか……。いや、もっと言えば――」
一瞬、渚先輩の笑顔が脳裏をよぎる。
「ただ、渚先輩と同じ場所に行きたかっただけなんだ。あの人に振り向いてほしくて。
そのための“わかりやすい目標”が東大だったってだけでさ」
桜井さんは、じっと俺の目を見つめていた。
責めるでも、驚くでもない。ただ、真剣に――俺の言葉を受け止めてくれていた。
「渚先輩はさ……そんな俺のこと、全部お見通しだったんだよ。
だから俺のことを思って、目を覚まさせてくれたんだ。きっと、きっとそうなんだ」
「……確かにすごいね、渚さんは」
「ああ。だから俺はこれから、今度こそ――自分のやりたい道、自分で選ぶよ」
「うん」
桜井さんは、静かにうなずいた。
その横顔は、どこか安心したようにも見えた。
「あ、ごめんな。なんか俺ばっかり喋っちゃったな」
「ううん。むしろ……嬉しい」
「嬉しい?」
「うん。大河くんが“自分のこと”を話してくれるのって、すごく珍しいから」
「そうかな?」
「そうだよ。大河くんは前よりずっと……素直になった気がする」
桜井さんは口元に手を添え、くすくすと笑った。
「そんなに面白かったか?」
「うん、私的にはね」
「桜井さんのツボも結構変わってるな」
そう言うと、彼女は笑いをおさめて、ふっと表情を変えた。
ほんの少しだけ真剣で、でもどこか照れているような横顔。
そして――
「じゃあ、今度は私から」
「え?」
夜のコンビニの光が、彼女の髪の先を淡く照らす。
その目が、まっすぐ俺を見ていた。
彼女は隣に置いていた鞄から、そっと茶色の紙袋を取り出した。
袋の口に指を添えると、一度ためらうように動きが止まる。
その小さな迷いが、俺の胸の奥を微かに締めつけた。
それでも――
意を決したように、彼女の手がもう一度ゆっくりと動く。
袋の中へ、そして外へ。
白い指先が取り出したその“形”を見た瞬間、
俺はようやく全部を理解した。
今日は二月十四日。
コンビニの特設棚にはもうホワイトデーの商品が並んでいるけれど――
「……チョコレート。
大河くんに、渡したくって」
小さなタッパー。
その中に、いくつものデザインのチョコレートがぎっしりと詰まっている。
丸、動物、ハート、星、ドーム型。
形も大きさも統一されていなくて、むしろそれが“手作り”の証みたいだった。
不器用なのに丁寧で、温かい。
ひとつひとつ違う表情のチョコが、ぎゅっと寄り添っている。
それは“上手い”とか“綺麗”よりも、
何より――“気持ちがこもっている”ってすぐにわかる代物だった。
「これ……もしかして、手作りか?」
気づけば声が少しだけ掠れていた。
桜井さんは恥ずかしそうに視線を落とし、ほんの少し頬を赤らめて言った。
「う、うん。その……
大河くんはチョコレートが大好きだって聞いたから……
お母さんと、梅宮さんと一緒に作ったの」
夜の自動ドアが開くたびに漏れる店内の光が、
タッパーの透明な蓋に反射してきらりと光った。
チョコレートの甘い香りが、ほんのわずかに漂ってくる。
胸の奥が、じんわりと熱くなるのを感じた。
そう――
今日という日は、まだ――バレンタインデーなのだ。




