第69話 ハッピーバレンタイン!
バタン。
生徒会室の扉を閉めた瞬間、外の騒がしさがふっと遠のいた。
「ふぅ……。ここなら、さすがに静かかな」
両腕いっぱいにチョコレートの入った紙袋を抱えたまま、俺はようやく息を吐いた。
すると――奥から声がした。
「……なんだ、吉野くんか」
先客がいたらしい。
桐崎杏奈。
彼女は自分の机に書類を広げ、赤ペンを走らせているところだった。
「桐崎さんかお疲れ。今日は“作業免除”って汐乃に言われてなかったっけ?」
「まぁね。でも落ち着かないから来たのよ」
そっけなく言うが、集中している横顔はどこか楽しそうにも見える。
「……あ、言っとくけど手伝わなくていいから。君、このあと確かバイトだったでしょ?」
「あ、ああ。まぁでも一応、生徒会室には寄る予定だったけどな」
桐崎はちらっと、俺が抱えている袋に視線を向け――
またすぐ手元に戻した。
「……良かったわね」
「え?」
「その袋。チョコレートでしょ?」
「あ、ああ。まぁ、チョコは好きだし、正直すげぇ嬉しいよ。
でも……みんな手紙までついててさ。一年前はこんなこと、考えられなかったのにな……」
思わず言葉が漏れる。
去年の自分は、人を避け、人から避けられ……
こんな日が来るとは夢にも思わなかった。
すると桐崎さんが、わずかに肩をすくめた。
「一年生の子たちからしたら――吉野くんの一年前のことなんて知らないだろうし。学力上位、生徒会副会長、そのうえ最近は“働き者”って評判みたいだし」
「そういうもんなのか?」
「そういうもんよ。少なくとも、今の君は十分“目立つ存在”になってる」
「……」
「もちろん、良い意味でね」
そして桐崎さんはペンを置き、こちらをまっすぐ見た。
「それと、わかってると思うけど……ちゃんと真面目に向き合ってあげなさいよ。それを渡した子たちは、みんな真剣なんだろうから」
その言葉は、思ったよりもずっと優しかった。
「……ああ、わかったよ」
「ならいいけど」
桐崎は再び書類に視線を戻す。
だけどさっきよりペンの動きがゆっくりだ。
もしかして――心配してくれてるのか。
(……なんか、変な感じだな)
去年の俺と、今の俺。
そして――今の桐崎杏奈。
それぞれが少しずつ変わって、こうして普通に話せている。
「俺はさ……桐崎、さんとも、こうして普通に話せて……なんか嬉しいけどな」
「え?」
彼女はほんの一瞬、素の顔でこちらを見た。
次の瞬間――
カラン、と小さな音を立ててペンが床に落ちた。
「あっ……」
「あ、悪い。変なこと言ったなら――」
「ち、違うわよ!」
やけに早口で否定しながら、彼女はしゃがんでペンを拾う。
だが、耳の先までほんのり赤い。
「なによ急に……。そういうの言われると……ほら……困るっていうか……」
「え、いや。普通に思っただけで――」
「……ちょっと待ってて」
桐崎は立ち上がると、なぜか鞄をゴソゴソと漁り始めた。
(な、なんだ……?)
次の瞬間。
「はい」
彼女は俺の目の前に、右手をぐいっと差し出してきた。
「え……な、なに?」
「……見ればわかるでしょ」
掌には、小さくて四角い包み。
淡いピンクの紙にリボンが巻かれた――チョコレート。
「え、これ……俺に?」
「……そ。文句ある?」
「いや、あるわけないけど……」
言いながらも、胸のどこかがドクンと跳ねた。
桐崎杏奈が、俺にチョコを?
これまでの彼女の態度を思えば、これはどう考えても――予想外の展開だった。
「べ、別に深い意味はないわよ!?
クラスの子たちに配ったやつの“追加”みたいなもんよ! ほら、吉野くんには副会長でお世話になってるし……その……」
言うほどに、声がどんどん小さくなる。
最後のほうは、ほとんど囁きだった。
「……嬉しくないなら返しなさい」
「いや、嬉しいよ。めちゃくちゃ嬉しいよ」
俺がそう言うと、彼女はピタッと固まった。
そして――ほんのわずか、目を逸らす。
「……なら、いいけど」
その横顔は、さっきまでとは違っていた。
強がっているのに、どこかほっとしているような。
照れているのに、どこか安心しているような。
――そんな、不思議な表情だった。
「ありがとうな、桐崎……さん」
包みを受け取りながら言うと、彼女はわずかに目を細めて、
「呼びにくいなら、呼び捨てでいいわよ。私も“吉野”って呼ぶし」
「……わかったよ、桐崎」
「うん。最初からそれで良かったのよ」
その言葉はツンと強がっているようで、でもどこか柔らかかった。
――この日を境に、俺と桐崎の間にあった過去の遺恨は、ようやく完全に消えた。
互いに言葉にしないけど、どちらも“許す”というより“受け入れる”という形で。
ふと、生徒会室を見渡しながら言う。
「そういや……汐乃はどこにいるんだろ?」
「会長?」
桐崎は書類を閉じ、呆れたように肩をすくめた。
「人気あるもの。女子からも男子からも。今頃、どこかでチョコレートの山に埋もれてるんじゃない?」
「あー……想像できるわ」
* * *
俺が自転車にチョコレートの山を括りつけ、
人目を避けるように校舎裏からひっそり帰ろうとしていた、そのときだった。
「――大河!」
突然、後ろから――というより上空から鋭い声が響いた。
「え?」
振り向いた瞬間――
ビュッ!
後方、校舎の屋上から何かが飛んでくる。
「っと、あぶねっ!」
思わずそれをキャッチした。
手のひらには――
俺がコンビニで何度もスキャンした覚えのある、ベルギー産のチョコレート。
「これって……?」
顔を上げる。
校舎屋上の淵。
そこに腕を組んで立つ、長い髪を揺らした生徒会長――霞汐乃。
風を追い抜くような声が落ちてきた。
「――ハッピーバレンタインだ、大河。ありがたく受け取るといい!」
(あいつ……投げ込み方式かよ……!)
思わず笑いながら、俺も大声で返す。
「おう! サンキューな、汐乃!」
すると彼女は、ふっと満足げに微笑み――
そのまま屋上の縁から姿を消した。
「にしても……」
俺は屋上を見上げながら、首をかしげた。
「汐乃があそこにいるってことは……
いま、あいつへのチョコは誰が受け取ってるんだ……?」
* * *
体育館。
そこでは――
『霞汐乃へのバレンタインチョコレートはこちらでお預かりします』
と書かれた手書きの看板を背負い、
稲葉澄仁が、もはやチョコレート“受付担当”と化していた。
その後ろには女子生徒だけでなく、男子生徒まで列をなしている。
「……会長……早く戻ってきてくださいよ……」
稲葉のメガネの奥の瞳は、完全に死んでいた。




